おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「ヒトラーを支持したドイツ国民」(ロバート・ジェラテリー)みすず書房

2014-03-11 21:04:06 | 読書無限
 ナチ独裁制がドイツ国民大多数の支持・合意を基盤に成立し、機能していたことを、ゲシュタポの残存資料と当時の新聞雑誌を分析して実証した書。もちろん、原資料が、ナチ体制を支えた組織であり、厳しい言論統制と反ナチ・敵対者への過酷な弾圧下でのマスコミ資料、という限界性を持っているのは、しかたがない。しかし、その奥底に垣間見えてくるナチ体制の内実と、時には熱狂的に支持し支えていた国民の意識のありようを厳しく検証する手法によって、時代相を解明していく。

 1933年1月のヒトラー宰相任命によって、政治的、経済的分野において、それまでの20年間、第一次世界大戦をはさんで大きな不安と不満の極地にあったドイツ国民は、失われた力強い「国家」、名誉ある「国民」を取り戻すことができ、生活の豊かさを再び味わうことができるようになった。
 大恐慌後の世界的な経済的混乱の中で、他国に先駆けて、ヒトラーは、完全雇用の実現(大赤字財政を導入しての、公共事業投資、軍備の増強、徴兵制や強制労働を伴ったもの)、所得の伸び(可処分所得の増加)等のかたちで現実化していく。また、列強としての国際的地位をとりもどす。
 こうした「国威の高揚」を実感したドイツ国民は、「古き良き時代」を再現してくれたとヒトラー・ナチに大いに感謝した。

 忘れてはならないことは、国民啓蒙、宣伝省の管轄下でつくられた「第三帝国」の賛歌が、非常に早くから、労働創出計画、アウトバーンの建設、ファミリカーの約束、安い休暇、それにオリンピックの開催と、成功した政策を伴っていたという事実。政権は、みせかけではなく、こうした行動によって、いち早く熱狂者を結集した。そのおかげで短期的に独裁制は確立された・・・。(P311)ことにある。

 もちろんヒトラーは国民に、こうした最初の安易な勝利に対して、最後は莫大な代償を払わせるのだが。

 人々は、ナチの掲げる「民族共同体(共同体としての同一性、純粋性、等質性)」を築くために、反社会分子(当初は共産主義者、のちには反ナチすべて)、反ユダヤ主義と外国人労働者(ポーランド人等)に対する人種差別主義の実施に協力していった。普通の犯罪についても密告することを躊躇しなかった。生活の身近に目にするようになった「強制収容所」に、政治犯(警察がそう断定すればいい)が新たに送られて来るのを見て喜んだ(収容所から生きて帰れる者はほとんどいない)。
 
 とりわけ、「密告」体制が社会の隅々まで張り巡らされ、その多くは「自発的」「利己的」な動機からだったことが明らかにされていく。多くの人々は、ナチズムが戦争が不可避な体制であることへの洞察力もないままに、最終局面を迎えるに至った。
 
 明らかに多くの人々は、現実として目の当たりにした残虐行為を含めて状況を理解しようはせず、ヒトラーを、あるいは少なくともドイツを支持する以外はなにもできなかった。(P316)

 特に筆者の注目すべき論点は、「ナチ独裁制が(国民多数と、社会の合意の上に成り立った)『国民投票独裁』」だと主張している点。機会あるたびに「国民投票」が実施され、国民は、圧倒的に支持した。
 それが押しつけられた、有無を言わせない「賛成投票」行為であったという側面(国民に選択の自由は与えられていなかった!)もあるが、一方で、ナチによって自分たちの経済的利益を増し、「合法的」(もちろんナチにとってのだが)にユダヤ人やポーランド人から財産を奪いとり、さらに収容所や外国人労働力を「無償で」得た結果、飛躍的に生産性を上げた大企業経営者達にとって、ナチはまさに「救い」の神であった。 そういう持ちつ持たれつの関係がヒトラー(ナチ)と国民との間に成り立ち、支持されていた。

 「ナチ独裁制とドイツ国民の共鳴・共振関係」という筆者の提起は、過去の日本、そして今の日本にも考えさせられる政治、経済情勢ではある。    
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反町駅~東白楽駅。(「東横フラワー緑道」その2。)横浜その14。

2014-03-10 20:20:07 | 鉄道遺跡
 初春の日差しの下での散策。「フラワー緑道」というネーミングの通り、大きな灌木はない代わりに、足下の花壇には草花が植えられ、緑も多く、目を楽しませてくれます。
り。、
「高架歩道橋」から眼下に国道1号線を望む。
 この「歩道橋」は、東急東横線の旧高架橋を再利用、反町駅南側から国道1号をまたいで反町駅北側の緑道へと通じている。
 地上線時代の東横線はこの先東白楽駅まで高架だった。橋桁は東横線時代に使用されていたものをそのまま流用している、らしい。
「国道1号線」東側。
「フラワー緑道」の北側を望む。
木道の部分にかつて使用されていたと思われるレールがはめ込まれている。


緑道上に等間隔で設置されているコンクリート製の換気口。真下を電車が通過すると、走行音が聞こえてくる。


緑道沿いで見かけた酒屋さん。クラシックな店構え。
線路上にまだ雪が残っていた(注:撮影 2月26日)。中央奥が1946(昭和21)年に廃止された新太田町駅の跡地。砂地の広場となっている。
広場の入口にある「東横フラワー緑道」の碑。
広場脇の案内図。高島山トンネルからここまでで、全長の約3分の2を歩いたことに。
新太田町駅跡地付近。ここからゆるい上りになって現在のトンネル入口に着く。


前方、遠くに見える白い建物は「神奈川工業、神奈川総合高校」。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央が「神奈川工業高校」。線路右手に鉄道用地が見える。

地下線化したトンネル上部の広場。来た道を振り返る。
東横線。前方が「東白楽」駅方向。右のスロープは、「二ツ谷公園」に通じ、「滝の川せせらぎ緑道」と結ばれている。



スロープを下った辺りからトンネル入口を望む。

案内図。赤い矢印から矢印まで、約1.4㎞の道のり。
 お手頃で、落ち着いた散歩コースでした。東京からやって来る機会もありませんが、草花の手入れを含めて、地元の方々にとってはすてきな「フラワー緑道」に違いないことを感じました。
 こうして、「JR東神奈川駅」まで戻りました。
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高島山トンネル~反町駅(東急東横線地上線跡「東横フラワー緑道」。その1。)横浜その13。

2014-03-09 21:22:19 | 鉄道遺跡
 2004年2月、みなとみらい線(横浜駅 - 元町・中華街駅)開業に伴い、直通運転を行う東急東横線の反町駅および横浜駅が地下化され、2011年、その線路跡が全区間「緑道」として整備された。
 緑道の愛称は、「東横フラワー緑道」。  
 地下化以前は、住宅街を通過する高架線、地上線だったために騒音も激しかったが、現在は静かで落ち着いた住宅街の中を緑道が続いている。花壇、樹木、水飲みが設置されているほか、木道にはモニュメントとして「線路」がはめこまれている。       





1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。が「高島山トンネル」。が「桐畑橋」。下方が横浜駅方向。JR線、京急線の跨線橋が「青木橋」。

 今回、その緑道を「高島山トンネル」から「東白楽駅」付近まで歩いてみました。

横浜駅方向を望む。かつての高架線は撤去され、緑道になっている。

反町駅-横浜駅間に位置する高島山を貫通するトンネル。
 かつてはトンネルの南側に「東急・神奈川駅」があった。
 地上線の廃止後、高島山トンネルが歩行者用に改修・整備されて開通したことで、反町駅周辺から横浜駅までの歩行所要時間が大幅に短縮された。
旧線路が旧東海道と交叉する、そのすぐ北側に高島山トンネルは位置する。案内図。


散策する人、乳母車で通る人・・・、自転車の乗り入れが禁止なので、安心して行き来できそう。
トンネル付近から横浜駅方向を望む。このトンネル、開放する時間帯が決まっている。
トンネル内。
トンネル周辺で行われる予定の「イルミネーション体験」の案内。
トンネルを出ると、線路を模したタイル張りの歩道が続く。中央の橋は「桐畑橋」。
振り返ってトンネルを望む。
線路伝いに歩く雰囲気。遠く左に見えるのが、「反町駅」駅舎。
案内図。
「反町駅」。童話調の民家仕立てで、面白い雰囲気。
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読書「さようなら、ゴジラたち 戦後から遠く離れて」(加藤典洋)岩波書店

2014-03-08 21:14:03 | 読書無限
 「敗」戦後体制のくびきから解放し、新たな日本を(それは戦前とも通じる)構築しようとアベさんを先頭に政治、経済に蠢きが、一定の国民的評価を得ながら激しくなっています。
 曰く「日本国憲法、とりわけ憲法第9条」「戦後民主主義」「公教育」「靖国」「領土」問題・・・、「日本を取り戻す」をスローガンに、衆参両選挙に大勝利をした勢いをもって着々と進んでいます。
 戦後(民主主義)体制を批判、覆していく。特にソ連崩壊以降、共産主義・社会主義(運動としての)が大きく挫折していく中で、勢いづく「右翼・保守」派。「戦後」論争(歩むべき方向を見失い、なすすべもなくなったかのような「社会主義・左翼」信奉者への追撃)のさきがけとなった評論が、加藤典洋氏の『敗戦後論』でした。そこには、筆者が言うように大きな誤解もあったのですが、一定の役割を果たしたことも事実です。
 たとえば、徹底した「左翼」批判、「護憲派」批判(こちらの力点が強いように受け止められていた)。
 しかし、あくまでも筆者は、冷静です。まさに「理念と現実の落差」を追究していきます。(「憲法9条」「靖国参拝」「国家観」・・・)
 全共闘世代として「ノンセクトラジカル」の立場から運動に関わりつつ、そのギャップに自らの主体性においておののき生きてきた(生活してきた)自らの過去をどのように総括し、そして外国(言語の異なる、異文化)での生活をなど通じて、今、自らが存在しているか、そうした行きつ戻りつしつつする「思索」が彼の考え方、とらえ方の根底にあるということを受け取ることができます。
 振り返って、ほぼ同世代の、「古来稀なり」の世代になりつつある我々にとって、アベにせよそのほかの50代、60代前半の、まさに「戦争を知らない」「戦争責任のとりようもない」「70年前の出来事には関係ない」世代が多くなって(社会を担う、リードする)きて、その彼らに、今、何を語りべきか(語り残すか)を真剣に考えなければならない時を迎えていることをひしひしと感じさせられます。

 特に、尖閣、竹島巡る領土問題が一歩間違えば戦争勃発にもつながる危機感。戦争への関わりを筆者は「湾岸戦争」を契機に考えるようになったとか。政治情勢、国際情勢を眺めたときに、あっという間に事態が急変して「戦前」になりかねない今日、この評論が結果としてどう機能していくか(影響力を持つか)、まさに現代的な評論集です。

【問い3】「日本に戦前に似た形でのナショナリズムの再興はあり得ると考えますか? また日本を戦争に引き込む要因があるとして、それはどのようなものでしょうか? 極めて深刻な経済危機、強烈な反米主義の勃興、アジアでの国際関係の危機の勃発などが考えられますが」
【答え】まず日本の社会は戦前とは全く異なったものとなっている。戦前型の天皇主義も、保守主義も右翼思想もその基盤を失っている、外的にも内在的にもそういえる、というのがわたしの観測です。(中略)結論だけをいいますと、戦前型のナショナリズムの復興はありえません。ただ歴史は二度繰り返される。一度目は悲劇、二度目は喜劇として。それがキッチュな喜劇として反復される可能性は、以下の条件次第では、残されているでしょう。(中略)「経済危機」がその場合ありうる唯一の要因です。戦後社会の最大の構成因は、経済的な達成です。経済的な安定がある限り、日本社会は基本的に安定しているでしょう。逆から言えば、これがなくなったら、全てが変わってくる可能性があります。
 (P11)フランス人学生の問いかけと筆者の答えの一部

 2010年発刊。
 
 注:個人的には、痛烈な「(映画)日本戦後文化論」として、「さようなら、ゴジラたち」(「たち」に筆者の深い意味が込められ、さらに、「ゴジラが夜、靖国神社を破壊する」というシチュエーションを提示する)と、戦後日本の「かわいい」文化の意味するものという「グッバイ・ゴジラ ハロー・キティ」を興味深く読みました。
  
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生麦事件。その痕跡をたどる。事件現場。記念碑。生麦事件参考館。横浜その12。

2014-03-06 23:21:06 | 旧東海道
 神奈川宿から少し川崎に戻った「生麦」。「京急生麦」駅下車。ここも訪れてみました。「生麦事件」の地。
「第一京浜」に出る手前の道を入ると、「生麦事件参考館」。訪問したときは閉まっていました。
横浜市からの「横浜まちづくり功労者賞」などさまざまな額が飾られてある。

 生麦事件参考館 浅海武夫
 表彰理由 生麦事件参考館を私設し案内を行い記念碑以外に資料館等のなかった地元において地域への関心を高め魅力あるまちづくりに貢献しました 1996年2月 横浜市

 なお、


資料館巡りや地元の方が語る歴史に耳を傾けるのも歴史旅の醍醐味。今回は生麦事件の貴重な史資料が収蔵する「生麦事件参考館」が閉館するとのことで、このコーナーでは、同館長で地元在住の研究家・淺海武夫さんに伺ったお話

rekigun.net/original/travel/namamugi/‎

 で特集しています。淺海さんの長年の「生麦事件」資料収集と研究・分析に並々ならぬ意気込みと一念を強く感じました。
 この記事によれば、昨年、閉館したようです。行ったとき、ちょうど棟続きの隣のおうちから老夫婦が出てきました。写真から見ると、どうもこの淺海さんとお見かけしたのですが・・・。お声も掛けずじまいでした。

 生麦事件は、幕末、文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。
 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。


 文久2年(1862年)8月21日(旧暦)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向き、幕閣人事に強行介入したのち、京都へ帰ることとなった。
 行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人4人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。
 4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある。
 行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人たちに対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかった。
 4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを打たれた。
 マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、無傷だっため横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川宿にあった、当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。
 リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義であったという。
 なお、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。
 この事件は、大名行列の供回りの多数が抜刀したものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて、処理を誤れば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなった。
 事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で生麦に向かううちに、横浜在住の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。
 久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付けで「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という届出をすると、奉行が引き止めるのも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。
 神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と説明した。神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府はこの事実とは異なる説明に憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。
 当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいた。一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。
 生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまった。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。
 文久3年(1863年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。
 折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった。
 再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入もあって逆に支払い拒否が決定されるが、5月8日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。
 幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。
 10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。
 肝心な点は、日英修好通商条約による治外法権の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾を大きく露呈させたものでもあり、以後、条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった。
(以上、「Wikipedia」参照)


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「正泉寺」の位置が現在と変わらなければ、事件発生現場は付近と思われる。南が神奈川・横浜方面。南北に続く道が「旧東海道」。左上部、斜めの線が鉄道(新橋~横浜)の線路。

「生麦事件発生現場」碑。


 文久二年八月二十一日辛未(かのとひつじ)晴天
(薩摩藩主) 島津三郎(久光)様 の上洛の行列と異人4人内女1人、横浜より来て本宮町勘左衛門前にて行き違おうとしたとき、下馬しなかったので切りつけられた。
 直ちに逃げ去ったので、追いかけて一人を松原で討ち取った。外の3人は神奈川(宿)の方へ傷を負ったまま逃げ去った。
 お役人様が桐屋へご出当、村の役人一同も桐屋に詰めた。
右の異人の死骸は外の異人が大勢来て引き取っていった。

               生麦村名主 関口日記より

平成11年1月生麦事件参考館設置



その地点から北(品川方向)を望む。「旧東海道」。
旧東海道沿いとあって、古い家屋が残っている。
「懸崖の松」という風情。
神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。
 ただし、現在は、横浜環状北線建設のため、仮移設されている。
移設に関する説明板。キリンビール横浜工場」に沿った旧東海道。
碑文の説明板。
中村正直による撰文(書き下し文)。 
もともとはこの道(旧東海道)が第一京浜に合流する手前に「碑」があった。
北側を望む。
第一京浜から旧東海道との合流地点を望む。左手を入ったところがリチャードソン遺体発見現場。
一歩通行路の左奥。

1970年頃のようす(「同」より)。赤丸がその付近。
正面がキリンビール横浜工場。第一京浜に架かるガードより望む。奥の左手が「碑」のもともとある場所。
「第一京浜」のガードを通過する貨物列車。石油タンクが連なって「東高島駅」方向へ。



HPより)
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滝の川。本陣跡。オランダ領事館跡。(神奈川宿。西から東まで。その4。)横浜その11。

2014-03-05 21:58:51 | 旧東海道
 前回、「松並木」など仲木戸周辺は探訪したので、見落としたところなど補足しながら、京急・神奈川新町駅まで。

「滝の川」のほとりにある「本陣跡」碑。↓が本陣、が権現山(西側の高島山から続く幸ケ谷公園、幸ケ谷小学校までの丘陵地帯)。

 「滝ノ橋と本陣跡」
 上の図は、「金川(注:神奈川)砂子(注:川崎宿内の地名)」に描かれた江戸後期の神奈川宿の風景である。現在と同じ場所にあった滝ノ橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。本陣とは大名や公家などが宿泊したり休息するための幕府公認の宿である。
 滝ノ橋のすぐ脇には高札場が見える。高札場は幕府の法度(はっと)や掟(おきて)を庶民に徹底させるための重要な施設である。この高札場は、現在の地区センターに復原されている。

紅白の梅が咲き始めていた。
 

水鳥の群れ。食パンをちぎってあげている近所のご婦人がいた。
「土橋寿司」。
「土橋」。昭和4年竣工。横浜も関東大震災で大きな被害を受けた地でもある。この橋も、震災復興に関わる橋だろうか。

「浄瀧寺」。開港時、イギリス領事館に充てられた。
「滝の川公園」。この川には河童の伝説があったようだ。公園内のモニュメント。
 
左:「河童の木登り」、                 右:「河童の川流れ」
 
 滝の川は、権現山から流れ出る水が、滝となって落ちていたので、滝の川といわれるようになったとの説があります。
 この川には「河童のくれたされこうべ」という伝説があります。
 昔々、滝の川には河童が住んでいました。旅人を困らせていると聞いた侍が、見事にこの河童を捕まえました。
 その河童が泣き泣きいうことには、・・・「ある年一匹のうわばみが現れて亭主は殺されてしまいました。それからというものは、二人の子どもを養うために悪いこととは知りながら、ついついご迷惑をかけました。以後いっさい悪いことはいたしません。約束のしるしに、大事な亭主の首をさしあげます。どうぞお許しください・・・」
 哀れに思った侍は許してやりました。
 その夜、河童は約束通り首を届け、以後宿場は静かになったそうです。(「神奈川宿歴史の道」より)

「神奈川小学校」脇にある「上無川」の碑。「上無川」から「神奈川」という地名ができたという説がある、らしい。関東大震災復興計画で埋め立てられたとのこと。 

タイルに描かれた「神奈川宿」・東海道全図。なかなかみごとなモニュメント。
上の赤丸がJR「東神奈川」駅、その下の赤丸が京急「仲木戸」駅、右の赤丸が「神奈川小学校」。
 この辺りは寺町になっていて、お寺が並んでいる。
 
「京急・神奈川新町」駅前の案内板。青い矢印が「神奈川新町」駅。

「神奈川通東公園」内にある「オランダ領事館跡」碑。ここには、昭和40年に移転するまで「長延寺」が建っていて、開港時、オランダ領事館に充てられた。
 このあたりが、江戸からの神奈川宿への入口にあたる。

そこから「神奈川新町」駅ホームを望む。

 「上台橋」から「神奈川通公園」までの約4キロの道のりが「神奈川宿歴史の道」となっています。よく整備され丁寧な案内板も豊富で、興味深く楽しみながら歩くことが出来ました。

                   
 神奈川台石崎楼上十五景一望之図(「神奈川宿歴史の道」より)


 帰りに立ち寄った「東京スカイツリー」みやげ。
「東京ばななツリー」 
 もちろん、お昼は崎陽軒の「シュウマイ弁当」でした(ただし、江東区の大島工場でつくったもの)。
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宮前商店街。幸ケ谷小学校。(神奈川宿。西から東まで。その3。)横浜その10。

2014-03-04 22:07:28 | 旧東海道
 跨線橋「青木橋」を越えると、「京急・神奈川」駅。その先を左手に入る。
「京急神奈川駅」。
 JR線と京急線が切通し部分を並行していて、それを越す「青木橋」のたもとにある。開業時はJR線とともに横浜側のターミナルであったが、JR「神奈川駅」が廃止され、京急駅の方も各駅停車のみの小規模な駅となった。駅舎は、歴史のある街にふさわしいものをということで、改築の際、清水の舞台をイメージした、という。

 (付)「東急東横線」にも「青木橋」の西側、旧東海道脇の「高島山トンネル」の南側に「神奈川駅」という駅が存在したが、戦後、廃止された、らしい。やはり、この辺りがかつて、横浜港への入口として重要な位置を占めていたことが分かる。

西側・「本覚寺」、「高島山」方向を望む。開港時、本覚寺には、アメリカ領事館が置かれた。
 もともとは「高島山」とこの辺りは地続きの丘陵地帯、その縁を「東海道」が通っていたが、JR、京急線を横浜方面に向けて造成したために分断されてしまった。

1890年代(明治中・後期)の頃のようす(「今昔マップ」より)。薄いピンク色の部分が高台(高島山・権現山)。が切り通し、赤丸が「青木橋」、白丸が「国鉄・神奈川駅(廃止)」。赤い線が「東海道」。

「第2京浜(国道1号線)」と「第一京浜(国道15号線)・旧東海道」と交差点付近にあるバス停「青木橋」。
京急神奈川駅にある「案内図」。上の図は、江戸幕府の道中奉行が作成した「東海道分間延絵図」。中央部分に「滝の川」。
矢印が「(京急)神奈川駅」。
「宮前商店街」入口。 
昔のままの通りのようだが、商店はほとんどなく、人通りも少ない町並み。
開港当時イギリス士官の宿舎にあてられた「普門寺」。
「洲崎大神」門前の碑。

 神社前から海に向かって延びる参道が第一京浜に突き当たるあたり、そこがかつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。

参道。中央奥が「第一京浜」。その向こうが海になっていた。

お店らしきものは目立たず、マンションなどに変わり、ところどころに食べ物屋さんがあるくらい。
東側の看板。

「幸ヶ谷小学校」の外壁。かなりの高さがある。裏手の「幸ヶ谷公園」と合わせ、高島山から権現山と続く丘陵地帯の一角に位置している。
 東海道はその崖下を東北方向に向きをかえ、江戸・日本橋まで続いていた。右手側(東南側)が海になる。
1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。のあたり。
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田中家。滝川。青木橋。(神奈川宿。西から東まで。その2)。横浜編その9。

2014-03-03 21:17:41 | 旧東海道

「臺(台)町茶屋の景」。旧東海道のポイントごとにこうした丁寧な案内板が設置されている。
 描かれている「さくらや」(櫻屋)が現在の「田中家」付近とのこと。
前方にその「田中家」が見えてくる。

坂を下ったあたりから。

門前の案内板。




田中家のはじまりは、浮世絵の中から



 海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。その絵をじっくり眺めますと、坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身です。

 幕末の頃、文久三年(1863年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました。その少し前、安政六年(1859年)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展していきます。


長い時間の中をくぐりぬけてきた一軒

 初代の晝間弥平衛から現在の五代目女将平塚あけみまで、約150年。関東大震災、横浜大空襲など、たいへんなこともくぐりぬけてきましたが、この間、様々なお客様にごひいきいただき、現在まで続けることができました。かつて神奈川宿に1300軒あった料亭で、田中家ただ一軒が現存しております。
 著名な方もたくさんおいでいただいています。米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作などが倒幕の計画を練った場所でもあります。夏目漱石の書など、多くの記念の品々が田中家でごらんいただけます。


龍馬の妻おりょう


 幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます。
 横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。
 龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。



(以上、「田中家」HPより)

「田中家」脇の道から横浜方面を望む。けっこう急な坂道になっている。
東海道の坂道、海を見下ろす街道筋に茶店がならんでいた、そういう風情は今やなく、マンションが建ち並ぶ。

 しばらく行くと、大きな料亭が道の左側にあります。「田中家」のような古いお店ではないが、落ち着いた門構えのお店。

「神奈川宿袖ケ浦」。料亭「滝川」の通り沿いの壁にある。

 たどり行くほどに金川(神奈川)の台に来る。爰(ここ)は片側に茶店をならべ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色いたつてよし。 十返舎一九「東海道中膝栗毛」より

 古、台地の下には海(袖ケ浦)が広がり、上り坂の街道筋に沿って茶店が並んでいた。現在、風情のある大きな料亭は、「田中家」と「滝川」くらいか。

(「滝川」HPより)



「滝川」付近から横浜駅方面を望む。ここあたりでは傾斜は緩やかになっていて、標高は、9メートルほど(「今昔マップ」を参照)。

「青木橋」。
中央の道が「上台橋」からたどってきた旧東海道の道すじ。
青木橋の南側にかつて「神奈川駅」があった、らしい。

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い↓「乗車場」とあるのが「神奈川駅」。
 その上、東西にほぼ直線の道が「東海道」。鉄道に架かる橋が「青木橋」。



2010年代のようす。↓が旧東海道。


手前の家並みは東海道。線路は青木橋の下をくぐり海の埋立地にはいって左手に国鉄「神奈川駅」、大きくカーブした右手が現在の横浜駅(昭和3年に3代目横浜駅として開業)、その先が「初代横浜駅」になります。
「インターネット創刊  1997/01/22 発行所/「東横沿線を語る会」 編集・発行人/岩田忠利 とうよこ沿線編集室
〒 223-0061 港北区日吉2-2-15-2F℡ 045-561-1000 fax 045-561-1006」HPより。
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上台橋。神奈川台関所。(神奈川宿。西から東まで。その1)。横浜編その8。

2014-03-01 20:38:35 | 旧東海道
 JR横浜駅の西口を出て、少し西に向かうと「上台橋」。ここが「神奈川宿」探索の出発点。いざ京急・神奈川新町駅まで、というわけです。

明治後期の頃のようす(「今昔マップ」より)。Aが「上台橋」付近、Bが「青木橋」付近、Cが「滝の橋」付近。この3地点を通る道が「東海道」。
2000年代初期のころのようす(「同」より)。A,B,Cは、前の図と対応している。

 「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。

『神奈川駅中図会』。

 「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まります。
 かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
 この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのです。
 この橋を渡り東へ坂道を上りきると、そこに関門跡の石碑が立っています。
HPより)

上台橋。
横浜駅西口方向を望む。「青海波」という文様。このデザインは、「神奈川宿 歴史の道」としての道づくりに際して採用され、行く先々で目にする。

 「青海波」
(「www.ikiya.jp/crest/download.html」より引用)‎

橋のたもとにある案内板。

その地点から、旧東海道・西(保土ケ谷)の方向を望む。順路はこれから東(仲木戸・神奈川新町)方向に向かう。

緩やかな上り坂。
振り返って「上台橋」方向を望む。

東側(横浜駅西口方向・かつての海)を見下ろすと、かなりの急坂。高「台」という地名にふさわしい地形。この辺り、標高20メートル以上で崖下は4メートル以下(「今昔マップ」参照)。
 「東海道」はこの高台の縁に沿ってつくられ、茶屋が軒を連ねていた。「神奈川湊」を見下ろす風光明媚なところだったことがよく分かる。

「神奈川台関所跡・袖ケ浦見晴所」碑。

 「神奈川台の関門跡」

 ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事は幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や板書を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。

 脇に烏丸光広の歌碑「思ひきや 袖ヶ浦波立ちかへり ここに旅寝を重ぬべしとは」がある。


碑の裏面。
裏手の高台。「見晴所」らしい雰囲気。
右手に見える高台。残念ながら上ってみることはできなかった。さぞかし眺望はいいはずだが。
 この先、青木橋に向かっては少し下り坂になる。
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