おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

Do n't forget (Wasurenaide)・・・。(じじばばがゆく。定例会編。)

2014-12-09 18:43:13 | じじばばがゆく
                    (写真は、HPより)


 7月の時のお約束通り、「JR日暮里駅改札口。5時集合」。いつものメンバー「じじばば」が集まりました。集まったら、その時にその人数で場所を予約する、という約束。

 5時前に着いたら、まだ1人。でも、事前に連絡をくれた方もいるので、ま、7人くらいで予約すれば、いいだろう、と長年のカンでエスカレータを下って、駅前の居酒屋に予約。

 「7人で。もしかしたら1人くらい増えるかも」「だいじょうぶですよ。15人の席ですから。ただし、7時半から予約席になっていますので」「けっこう、けっこう。今から呼んできますから。」

 5時。ところが、2人増えただけで、他は見当たらない。そこに携帯。「もしもし」」この声でいつものあの方か。どうせ、行けなくなった、といつものような話かと思いきや、「今、関屋で、日暮里に着くのは遅れるから、先に行っていて下さい。」と。やけに律儀なのには予想外で、ビックリ。

 5時過ぎてもまだ4人。これは困った、常連の方も来てないし、・・・。

 「もしもし、日暮里のどこにいるの?」「改札口、改札口。田端寄りの」「賑やかな方でしょう?」「賑やかかどうか、ともかく田端寄りの改札口で~す」「声は聞こえるような気がするけど、姿はみえない。どういうわけ?」「??」

 「何だ、そこにいたの。」JRの改札口の柱と柱の陰、内と外で待っていた! 俺たち私鉄組なんだよな。

 「では、先に行っているから、後から来てくれ」。心配だからエレベータの前で待っていた。そこへ遅れた方を待って、一緒にやってきた。どこだか場所を聞くのを忘れていた、このへんじゃないか、と思って。いいかげん!
 
 かくして、予想通り、7人。予想通り、適当に飲んで、食べて、おしゃべりして・・・。予定通り、7時ちょっと過ぎ。では、お勘定!

 「えっ、こっちの名前で領収書もらっていいの」「いいから、いいから。経費で落とせるんでしょ。接待とか打合せとかで」「そりゃ、悪いよ」ずっと今まで(この10年間以上)言い出せずに遠慮していたようでした。
 その方のカードで払って、現金はその方のポケットに。

 そして、予想通りそれぞれトイレに行って、またまた時間がかかり、やっと揃ったところで、予想通り「カラオケ」に。予想通り「2時間」。

 ここからが、予想外の展開。この数年、

その① カラオケに行っても全く歌わずに、ひたすらおしゃべり。
その② おしゃべり三昧のあと、最後に1曲歌って、おしまい。
その③ 一人が歌って、他はおしゃべり。
その④ 二人くらいが歌って、他はおしゃべり、飲む。

このパターンのいずれか。

 それが、今回は、様変わり。7人のうち、6人が歌った。中でも、ある方は、マイクを離さず。軍歌まで歌うのはいただけなかったが、・・・。

 そして思いがけず、自称・釣り師が、数曲。これが長年、授業料を払っていたせいか、潮風にのどを湿らせているせいか、実にお上手、お上手。

 あっという間に2時間。「そろそろお時間です」コール。

 そしてラストソング。これまでおとなしかった御仁の歌ったのが、この歌。『五月のバラ』(なかにし礼 作詞  川口 真 作曲)

 最初は何だかよく分からない歌だった、もちろん歌っている人間の歌い方が、リズム感もなく、わけがわからかったせいですが。

 そのうち、さびのフレーズが印象的だったので、思い出した曲。

まばゆい 五月
紅いバラは 思い出のバラは
君の庭に咲くだろうか
・・・・
五月 花開きめぐる
二人の 五月
紅いバラを 美しいバラを
僕のもとに 届けておくれ
・・・
忘れないで 忘れないで
時は流れ過ぎても
むせび泣いて むせび泣いて
別れる君と僕のために

忘れないで 忘れないで
時は流れ過ぎても
むせび泣いて むせび泣いて
別れる君と僕のために

 時が移り、互いに年老いても、なお青春の思い出は、永く色あせない。・・・。古きよきカラオケの曲を一緒に歌いながら、口ずさみながら、苦い思いも、楽しい思いも共に・・・。

 この曲は、歌う者にも聞く者にも、久々に淡きメロディーでした。 

※ 『五月のバラ』は、スタンダードナンバーの一曲として、布施明、尾崎紀世彦、岩出和也、秋川雅史、新垣勉など多くの歌い手によってカヴァーされているようです。

秋川雅史(「YouTube」より)

 こうして、次回・来年の7月は、「鬼怒川温泉」に行くことになりました。
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新町橋。「三島宿」。「水辺の文学碑」。・・・(箱根路。その13。)

2014-12-08 22:31:37 | 旧東海道

 「愛宕坂」を下って行くと、JR東海道本線の踏切。ここは、すでに「JR東海」のエリア(御殿場線、「函南」駅~)。

                          

「旧東海道踏切 118K832M」。

 東海道本線の踏切を渡るのは、「保土ケ谷宿」以来? (「戸塚宿」の大踏切には渡線橋が完成していた)

「保土ケ谷・東海道踏切」。ここは、東京駅からまだ32㎞付近。すでに100㎞を超えている。

 県道に合流してまっすぐ進む。坂道はもうなさそう。

「大場川」に架かる「新町橋」。

ここが「三島宿」の東の入口(東方見附跡)にあたるところ。
「箱根宿」までは東=江戸方見附、西=上方(京方)見附と称したが、ここからは「東」「西」と表示されるようだ。


                 東海道五十三次之内 三島 朝霧
 朝霧にかすむ三島宿の様相を描いた作品で,気候や四季の移り変わりを意識して描いた広重の作品の中でもより具体的に見る者にそのことを感じさせる。三島宿は伊豆の国府,国分寺が置かれた地で,古くから三島神社の門前町として栄えていた。また下田街道との分岐点でもあった。本図はその三島神社の前を通過する早立ちをした旅人を前景としてはっきり描き,背後には霧にかすむ神社の鳥居や家並そして巡礼らしき旅人がシルエットのように浮かんでいる。こうした時間の経過と共に消え失せる霧,つかの間の自然現象を巧みに捉え,叙情的な画面を作る手法は「六十余州名所図会 大社 ほとほとの図」にも利用されている。

(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)



                 橋上から望む「富士山」。

 少しずつ賑やかな通りになり、夕暮れ時、車も人も多くなってくる時分。大通りを西に向かって進む。

古い商家「肥料問屋」。「莨屋肥料店(たばこやひりょうてん)」。

 「莨」。「たばこ」と読む。「タバコ(tabaco)」はもともとポルトガル語。それがこの漢字にあてはめられた、という。別の草の名前(道端によく見かける雑草のひとつ「チカラシバ」)を指してもいたらしい。
 しかし、くさかんむりに「良」とは言い得て妙な漢字(感じ)。

  
                    暮れなずむ「三島大社」境内。

 今回は、ここまで。三島駅に向かう。途中、清流「桜川」沿いに「水辺の文学碑」が設置されている。


    井上 靖
三島町へ行くと
道の両側に店舗が立ちならび、
町の中央に映画の常設館があって、
その前には幟旗が何本かはためいていた。
私たち山村の少年たちは、
ひとかたまりになり、
身を擦り合わせるようにくっつき合って、
賑やかな通りを歩いた。
「少年」 (昭和二十九年 発表) より



    太宰 治
町中を 水量たっぷりの澄んだ小川が
それこそ蜘蛛の巣のやうに
縦横無尽に残る隅なく駆けめぐり、
清冽の流れの底には
水藻が青々と生えて居て、
家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、
台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、
三島の人は 台所に坐ったままで
清潔なお洗濯が出来るのでした。
   「 老(アルト) ハイデルベルヒ 」(昭和15年発表) より

 この水辺通りは、雰囲気のいい通り。富士山とその豊かな清流に恵まれた町並み。

 次回は、三島宿から沼津宿へと歩を進めます。
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こわめし坂。小時雨坂。題目坂。臼転坂。初音が原松並木。錦田一里塚。・・・(箱根路。その12。)

2014-12-07 22:38:49 | 旧東海道

 「こわめし坂」は、アスファルトで舗装された道だが、予想以上にきつい下り坂が続く。上るときはいかに大変かが想像できるような坂。雨の日では上りも下りも足元が滑りそう。途中の農家。ちょうど大根の収穫期、選別作業中。庭先に大根を干してある家がここかしこに。



 こわめし坂は、三ツ谷から笹原へかけての街道にあります。箱根西坂ではもっともけわしい急坂です。昔の人は、そこを登るのに大変疲れましたので、「こわめし」を食べて、力をつけてから登ったということです。そこで、「こわめし」をたべてからでないと登れない様な坂だったので、この名がついたということです。
 また、一説には、こわめし坂は長い急な坂でしたので、この坂道を登りつめると旅人は汗びっしょりになりました。特に、夏の暑い日盛りはたまりません。その汗と熱で旅人の背負っていた米はこわめしになってしまうのです。そこで、この坂は「こわめし坂」と呼ばれたという説もあります。

(以上、HPより)

 ようやく旧国道1号線に出てしばらくすると、
 右手に松雲寺。このお寺は、幕末期に将軍や天皇家の宿泊所として使われたことから「寺本陣」と呼ばれたそうだ。

 「小時雨坂」のゆるやかな下り坂。右手が開けてきて、富士山がよく見える。
                      

 しばらく進み、坂公民館と坂小学校の間の坂道を下る。 

  
                             「題目坂」。アスファルトと階段の急な下り。

 下りきって、再び合流して進む。

「六地蔵」。

 その先、右の山道に入っていくと「臼転坂」。
 枯れ葉、枯れ草に覆われた石畳道。頭上は灌木。静かな山道の雰囲気。説明板によると、牛がこの道で転がったからとか、臼を転がしたためとか。

 国道1号線との合流付近。

 現在の国道1号線とは工事中で旧道は通れず、少し迂回する。開けた交差点を西に進むと、旧道の入口には、大きな石碑。

                     「箱根路」。

 遠くに西日を浴びつつある富士山。
 下に見える道路は、「伊豆縦貫自動車道」。

しばらく進むと、久々に松並木。

    
 右側が「初音が原石畳遊歩道」となっている。

「錦田一里塚」。江戸・日本橋から28番目。

車道の向こう側にも塚がある。

「一里塚」付近からの富士山。

見事な松並木が続く。 

 左が石畳道。

 歩道橋を渡り、松並木を過ぎると「愛宕坂」へ。舗装道路の左に石畳道が造られている。けっこう急な坂道。

振り返って望む。

 少年が犬を連れて全速力で坂を駆け下っていった。

遠くに富士山。

 今回。途中からは、右手に白雪の富士山を望みながらの坂歩き。

  坂を下ったところにある説明板。
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山中城跡。富士見平。三島大吊り橋。「笹原一里塚」。・・・(箱根路。その11。)

2014-12-06 20:03:58 | 旧東海道

 「歩道橋」を渡ると、「山中新田」、山中城跡。

向かって左からやって来た道を振り返って望む。 

「史跡 山中城跡」。

 山中城跡は、文献によると、小田原に本城があった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
 箱根山西麓の標高580㍍に位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
 三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害する、という北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
 出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三ノ丸跡の宗閑寺には岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
                平成8年2月 三島市教育委員会

 広大な規模を持つ山城だったようだ。

 国道を挟んで向かいにある「竹屋」。

 このお店、もともと「うなぎ」屋さんだったらしい。現在は、裾野市へ移転している。今のお店は「休み処 茶屋」として営業している?

 「鰻工房竹屋」が裾野市に移転し、2014年07月04日 「うなぎ竹屋」として開店致しました。今後とも、よろしくお願いいたします。(お店のHPより)

 しばらく国道1号線を進みます。

久々に見た標示。「(日本橋から)108㎞」ポスト。

 その先をまっすぐ進む道が旧道。

「芝切地蔵」。

 そのまま下って行くと、

 立ち寄って見学したい、とも一瞬思ったが、やはり先を急ごう!

 旧道はその前の国道を横断して「腰巻地区」の石畳道を下って行く。その途中に石碑。

 昭和60年(1985)、「三島青年会議所」の働きかけで東海道箱根道東坂・西坂に「箱根八里記念碑」が8基設置された、とのこと。
 箱根旧街道を散策する人々にとって旅のひとときの憩いになればと、8人の現代一流文化人が街道に寄せる熱いメッセージを埋め込んだ石碑、というコンセプトらしい。その一つ。

司馬遼太郎の石碑。

 幾億の跫音(あしおと)が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ

 石畳の坂道を下り、国道に出てしばらくすると、右手に旧道の案内板が見えてきた。その前に警備員が立っている。イヤな予感。

工事中のフェンスががっちりガード。通行止め。
 ここまで来て、初めてお目にかかった富士山。残念ながらフェンス越しにパチリ。

 結局、指示された通りに迂回して国道1号線をそのまま下って、「富士見平」へ。
「芭蕉の句碑」。

  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

 旧道はその句碑の右手からここへ出てくる。正面に富士山が見えている構図なので感動もひとしおのはずだった!
 車の激しく行き交う国道歩き、それに送電線が邪魔をしていて、どうも「富士見平」という実感が・・・。それに加えて、「句碑」も頑丈なばかりで無粋な印象。芭蕉の句もいまいち。
 さっさと通り過ぎて旧道にと道路を渡ろうとしたが、その先の旧道、無情にも「通行止め」。かくして、またまたカーブの多い国道沿いを下って行くことに。

 おかげで、旧道では二箇所しかない「左富士」? を眺めることに。

旧道の出口付近。

 右手遠くに辺りを圧する高い工作物と吊り橋のような・・・。



 「箱根西麓・三島大吊橋」の工事だった。2015年12月に完成すると、日本一の人道大吊橋になるそうだ。工事車両が激しく行き交っている。


 静岡県三島市。雄大な白然あふれるこの地に誕生する「箱根西麓・三島大吊橋」。
 歩行者専用吊橋として日本最長のこの橋からは、空へそびえる富士山の様々な表情や広大な駿河湾の絶景が一望できます。
 アクセスも箱根峠からクルマで約10分、沼津I.Cから約15分と至便。県内はもとより、全国から年間180万人の集客を見込んでいます。
地域の新たなシンボルとして、ふるさと三島の魅力を全国へ渡してゆく。そんな想いのもと、これからも地城の皆さまと共に歩んでいきます。

HPより)

 果たして思惑通りにいくか??? 

 警備員の案内通り、国道を横断して向かいの旧道へ。田畑の続くのどやかな、石畳の坂道。
振り返って望む。

 のんびりと下ってくると、左手に「一里塚」。

「笹原の一里塚」。日本橋からは27番目。反対側は畑と化している。

この付近、「旧道」を巻き込んでの新道建設工事が進んでいるようだ。

 国道を横切って「こわめし坂」に向かいます
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兜(甲)石坂。山中新田一里塚。接待茶屋。雲助徳利の墓。・・・(箱根路。その10。)

2014-12-05 22:53:14 | 旧東海道

 さて、これから「三島宿」に向かって気を引き締めて・・・。

門柱に「箱根旧街道」の看板。

 大型トラックが停まっている駐車場をぐるりと石畳道を進む。その一角に「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」。

8人の女性の手による一言がそれぞれ刻まれている。橋田壽賀子さんの「おしん 辛抱」とか・・・。

 ここからは、神奈川県から静岡県に入る。

 駐車場のはずれで国道から離れ、県道を進みます。

振り返って望む。

 左手に「兜(かぶと)石坂」の入口。

  
 「是より江戸二十五里」。               「是より京都百里」。

「箱根関所跡3㎞ 三島宿11㎞」。
 この辺りは、茨が生い茂っていたので「茨ケ平(ばらがだいら)」と呼ばれていたそうだ。

「夢舞台 東海道」。随所にこういうしゃれた案内板が立てられている。

 
  頭上を篠竹に覆われた坂道。当時からこうだったとは思えないが・・・。ユニークな道筋ではある。

足元に「兜石跡」碑。もともとあったところらしい。

 しばらく下って行くと、明るく開けたところに。

振り返って望む。

 国道1号線に合流して進む(本来の旧街道はそのまま直進していた。国道建設で分断されたかっこうになっている。三島市と函南町との境界線は、直進した旧道に沿って現在もそのままになっている。その旧道は廃道になり、通行不能と思われる。)と、バス停「接待茶屋」。



 旧道入口の左手に「山中新田一里塚」。江戸日本橋より26番目。(25番目の「一里塚」はどこに?)

  

「接待茶屋」説明板。

 東海道線が開通する明治22年(1889)まで、箱根八里の山越えは旅人達にとって困難な道でした。特に晩秋から早春にかけて、峠付近では雪の日も多く危険な道程であり、旅人や荷物を運搬する馬子達の避難場所が必要でした。
 箱根峠に程近い、施行平【せぎょうだいら】に接待小屋が設けられたのは今から約180年前、文政7年(1824)のこと。公的機関ではなく、江戸の商人加勢屋與兵衛という義人が運営したのです。私財50両を投じこれを基金として、馬に飼葉を与え、冬には旅人に粥【かゆ】と焚き火【たきび】を接待(サービス)しました。茶店も姿を消す冬には寒さをしのぎ体を暖める安らぎの場だったです。
 しかし、基金は底を尽き、三十年後に茶屋は閉じられます。
 明治に入り、下総(千葉県)性理【しょうり】教会二代目会長の遠藤亮規は箱根峠に接待所の必要性を感じ、その遺志を継いだ門人達が明治12年(1879)接待茶屋を再開します。
 その後、門人の鈴木利喜三郎とその子孫が運営を引き継ぎ、一年を通し無料で旅人達にお茶をサービスし、病人や山で疲れた人々の避難場所となっていました。
 鈴木家の人々は教会からの援助が途絶えたため、箱根竹を出荷したり鶏を飼うなどして、接待を維持します。その心意気に感じた人々が、全国からお茶や茶碗を送ってきました。
 時代は徒歩の旅から車へ、石畳道から舗装道路へ変化し、利用者も減ったため、昭和45年(1970)店が閉じられ、平成5年(1992)国道拡幅工事のため建物も取り壊されてしまいます。
 明治以後百年にわたり、夏も冬も湯を沸かし、茶を提供し続けた茶釜は、今でも坂老人会の祭りで利用されていました。
 貧しい人からも、天皇・皇族からも一銭もいただかず茶を奉仕した事を誇りにしてきた接待茶屋に、ボランティア精神の原点、三島の良心を見る思いがします。
 
昭和初期の接待茶屋 鈴木昇氏所蔵。
 (以上、HPより)

 箱根方向に向かう「バス停」のところに、フェンスに囲まれた大きな空き地がある。茶屋の位置は道路の付け替え等で変遷があったようで、最終的にはそのところにあったものか?

注:「説明板」に掲載された写真は、「大正時代中ごろ」のもの(写真提供 三島市郷土資料館)

 しばらく進むと、左に「徳川有徳公遺跡」(「有徳(公)」とは「徳川吉宗」のこと。吉宗の戒名「有徳院殿贈正一位大相国」から来ている。)、右側に「兜石」。

  
 
 豊臣秀吉が小田原攻めをするとき、この石の上に兜を置いて休んだといわれる。兜を伏せたような形から、そう名付けられた、とは思うが。

 元々は、初めの石碑位置にあり、国道1号線建設のためにここに移設した、という。

「石原坂」。

「ふれあいの森」碑。

 その脇のちょっとした丘の斜面に二人連れの女性が休憩中。「三島」まで行くとか、お先に失礼! 

「函南」町の境界標。

  
                      石畳の坂道が続く。

 「念仏岩」付近で坂道を上ってくる男性グループとすれ違う。「箱根関所」まで行くのだとか。平日でもこうして行き来する旧箱根街道。

 「もう少し行くとトイレがありますよ。そこで休憩するといいですよ。」
 「ありがとうございます。」

眼下に国道1号線を望む。そこで、昼食休憩。
 そのうち、先ほどの女性陣が通り過ぎて行く。「お先に失礼!」 

明るく開けた「大枯木坂」「小枯木坂」。右の斜面には植樹。

下って行くと、農家の庭先に。

国道に出て、振り返って望む。

 国道を横断して左側を歩いていくと、その先には「三島市」の標識。


 国道沿いに進むと、「箱根旧街道 願合寺地区石畳復元・整備」事業の入口となる。

  

「箱根旧街道 願合寺地区の石畳復元・整備」

・・・
 三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「願合寺地区」 721mのうち、昭和47年に修復整備をした255mの中間部を除く約466mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成7年度(1995)に復元・整備した。
 発掘調査の結果、石畳幅二間(約3.6m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたものであることが確認された。また、寛政年間(1789~1801)に描かれた「五街道分間延絵図」に記載がある「石橋」が二ヶ所発見された。
 調査の結果を基に、管理のための下部基礎をもうけ、下図のように、石畳がよく残っていた所約188mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約278mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
 また発見された「石橋」のうち、「一本杉石橋」と称される一か所は保存状態がよいのでそのまま残した。

 平成8年 三島市教育委員会

                     緩やかな下りの石畳道。木漏れ日。
  

 下った先が国道との合流地点。その手前に「雲助徳利」の墓。



 雲助の墓は、もと接待茶屋付近にありましたが、現在は山中新田東端の老杉の下にあります。
 この墓の主は、久助という人で、なかなか立派な家の出であったといいます。一説には武家の生まれともいわれ、なかなかの器量人であった様です。しかし、どのような理由からか一生を人の卑しむ雲助で終わりました。
 日頃、頭役となって仲間の取り締まりをしていましたが、困窮の者や若者のめんどうを、身銭を切ってもしてやりました。これは、雲助だけのことではなく、街道筋の百姓にも同じでした。
 ことに、往来の悪者に難くせをつけられて、弱りきっている者を身をもってかばってくれたといいます。
 したがって、仲間の者からも、また、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は、終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったといわれています。
 その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助の墓」といわれるこの墓なのです。
 石碑の前面に、大きく杯と徳利を浮彫にして、全体にしゃれた趣を漂わせたこの墓は、彼の人柄をよく表現しています。往年は、香華の煙の絶えることがなかったといわれています。
(以上「」HPより)

三島市」HPより)

国道1号線脇にある「史跡 箱根旧街道」碑。
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向坂。赤石坂。・・・。挟石坂。こうして風吹き荒ぶ「箱根峠」。(箱根路。その9。)

2014-12-04 22:28:05 | 旧東海道

 前日の雨もすっかり上がり、好天。けれども、風が吹き荒れる、そんな12月2日。箱根宿から三島まで歩きました。

 「旧箱根路西坂」。

 「箱根湯本」駅に着いたのが、朝9時少し前。平日とあって人も少ない。しかし、前夜来の強風、そのため、観光船もロープウエーも運行せず、との張り紙。戸惑う観光客も何人か。
 バスも二社だか、三社だかが運行していて、行く先も、途中のコースもよく分からない。どれが早いのやら、どこのバス停がいいのか・・・。さらに、案内の人もやけにつっけんどん。

 「そのチケットではこのバスは乗れませんよ。」
 「海賊船は運航しません。えっ、そちらはさあ、分かりませんね。」
 「早く着くのかどうか、こちらに聞いてもわかりせんよ、向こうのバスに聞いたら。」
 「周遊券の売り方がおかしいんですよ、きちんと説明しないで売っている。」

 風が冷たく吹く中でうろうろしたあげく、来たバスに乗ったら、「箱根町」の手前が終点のよう。前のバス停に停まったバスの表示が「箱根町」。慌てて降りて乗り換える。

 バスの中では、老夫婦が観光船のことやロープウエーの運行状態を聞いても、さあ、そちらの様子はわかりませんね、一点張り。

 一大観光地「箱根」。それも国際的に有名観光地にしてはどうも接客がお粗末、な印象。温泉宿泊施設をめぐるバスは3コースに分かれ、100円で行き来してくれる。ここは、温泉客中心の運営なのか、とも。

 お土産屋さんはあちこち目に付くが、コンビニは旧道・三枚橋先に一軒。芦の湖畔に一軒くらいしか見当たらなかったのも、そのせいか。・・・

 それでも、くねくね曲りながら高度を上げて、やっと「箱根町」終点へ。10時頃に無事到着。「箱根関所」の南側。ここからが今日のスタート。

「箱根関所」方向を望む。

 日差しはよいが、風がひどく吹いている。
 
「箱根駅伝モニュメント」。波頭を立てる芦ノ湖の向こうに白雪の富士山。

 しばらく進むと、「箱根駅伝」ミュージアム。
 その先を右に曲がると、往路のゴール地点。

「箱根宿」「箱根駅伝」説明板。

「箱根宿の成立」

 1618年(元和4年)徳川幕府によって宿場が開かれた。時の松平正綱が命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿(幕府の代官支配地)と相模国小田原宿(小田原城府地)から各、50戸づつ移住願いせし(約600人)人為的に箱根宿を創設し、また、二つの系統に依って支配されていた。現在も箱根宿主要部は、字三島町と字小田原町と名付けられている。尚、箱根宿成立に寄与された先人たちの不動の祖嗣として現在、九家が実在し、歴史・伝統等を伝承して行く重責を担い道標を築き努めている。
      箱根字三島町 祖嗣  川口屋

「箱根駅伝」

 東京箱根間往復大学駅伝競走(「現在217.9㎞)は、大正9年(第一回大会)に4校で争われました。
 以来、第二次世界大戦により、5回中断されましたが、昭和、平成と三世代に渡り、シード権の獲得校と、予選を通過した大学、20校(200名)のみが毎年1月2日・3日の決戦に挑み、母校の名誉と栄光のために、勇気と汗と苦しみ、孤独感を一身に背負い、熾烈な戦いをしております。また、箱根を制した者が陸の王者となり得ています。
      箱根芦ノ湖折返し地点 川口屋

 「芦川バス停」を過ぎた付近で、国道1号線から離れ、右手の道に入ります。
足元の表示。

 しばらく静かな住宅街を進むと、いよいよ「箱根峠」への上り道が続く石畳道入口になる。
入口付近の石仏群。

「向坂」。

 芦ノ湖湖畔の箱根宿を過ぎますと再び山にさしかかります。この坂が向坂です。坂の入口には石仏群があり、往時の杉並木も石畳も残っていて味わい深い坂です。

 続いて、「赤石坂」。

 国道一号線を挟んで両側に石畳と杉並木が残っています。道を下れば旧箱根宿の1つであった芦川の集落に、道を上れば相模の国と駿河の国を分ける箱根峠に達します。

「釜石坂」。
 
 この付近にも、往時の杉並木が残っている。

「風越坂」。

 しばらくすると明るく道が開け、目の前には階段。国道を行き交う車の騒音も聞こえてくる。

  
                           「挟石坂」。

 箱根峠にかかる坂です。峠は浮世絵の絵をみますと伊豆の国を分ける標柱とゴロゴロした石、それに一面のカヤしか描かれていません。まことに荒涼たる峠でした。三島宿までは、ここからさらに4里(16km)近く、こわめし坂、臼転坂などの難所が続きます。

 「箱根峠」には、「国道1号線」、「バイパス(箱根新道)」の交差地点を左に進む。右に進むと、「道の駅・箱根峠」。そちらに立ち寄った。
「箱根峠の境木」。

 駐車場からは目の前が大きく開け、「芦ノ湖」、「箱根連山」、「富士山」が一望できる、すばらしいロケーション。
                 正面が「駒ヶ岳」。

 再び、車がそれも大型トラックがビュンビュン行き交う国道を歩き、「箱根峠」へ。

       

 標高846㍍。「箱根峠」に着きました! 小田原から延々と上り道を歩き、芦ノ湖で少し平坦な道、そして最後の急登。

 これから先、三島までは下り道。でも、足の疲れ具合は下り道ほどこたえることを後に知らされるはめに。
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