Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

「胚芽バンク」の問題点

2007年01月06日 18時03分09秒 | Weblog
世界初の「胚芽バンク」(受精卵を不妊症の夫婦などに販売する事業者)についてのNBCの記事:
First ‘embryo bank’ raises designer-baby fears
 "We're increasingly treating children like commodities,"
 "This is essentially making embryos a commodity and using technology to breed them, if you will, for certain traits."

・我々はますます子供を商品のように扱うようになっている。
・「これは、本質的に胚芽(エンブリオ)を商品化するものであり、"商品"を繁殖させるために技術を用いているのである。お望みとあらば、特定の特徴を備えた人間を造るために」

 だが、サラブレッドの繁殖にそれなりの知識を有するバーディーとしては、「それが何か悪いことでもあるのか」という気がする。そもそも、結婚する際には、「どのような子供が欲しいか」を少しは考えているはずである。
 
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本多勝一と丸谷才一

2007年01月06日 13時29分57秒 | Weblog
 親知らずを抜いた翌日ということで自宅で読書。もっとも、外出したくても外はあらしである。
 本多勝一の新装版 日本語の作文技術を読了し、今度は丸谷才一の文章読本にとりかかる。いずれも良書である。
 さて、ここでバーディーが気になったのは、「小説家の書く文章」と「一般人の書く文章」とは別物なのかどうかということである。本多氏は、達意(意味が通じること)に重点を置いて、「一般人は(ややもすれば分かりにくい)小説家の文章を真似しない方がよい」という立場を取っている。対して、丸谷氏は、「口語体を発明し発展させてきた小説家の文章こそが文章の模範となるべきである」と主張する。
 結論から言えば、言葉が歴史の産物である以上、「ひとつの日本語」があるべきであり、それで足りるのである。私見であるが、本多氏のいわゆる「小説家の文章」とは、大江健三郎のような、フランス語直訳調の日本語等を指すのではないか。他方、丸谷氏のいう「小説家」は大正・昭和初期あたりの小説家を指す。そうすると、両者の隔たりはさほど大きくないと思える。
 ところで、検察庁では、調書作成時に
「必ず主語を入れること!」
「必ず過去形で結ぶこと!」
などと念を押されたものである。だが、日本語においては、主格は必要であっても主語は多くの場合不要であり(本多:p211)、また、過去の事実を現在形で表しても決して誤りではない(丸谷:p17)。上に述べた「調書作成時の心得」は、欧米の文法に毒されたものといっても言いすぎではない。
 やはり、「それぞれの日本語」ではなく、「ひとつの日本語」があるべきだ。一流の歴史家が指摘するとおり、すべての歴史が「政治史」であるように。
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問題のすり替え

2007年01月06日 08時30分07秒 | Weblog
 公務員の不祥事続出:
酒気帯び運転、パトカーと衝突 新潟、法務局職員逮捕
<福岡試験問題漏えい>市教委幹部がOBに内容伝達の可能性

 こうした事件の後、善後策として打ち出されるのは対症療法的なものが多い。例えば、幼い3人の命を奪った福岡市職員による危険運転致死事件。市長は「飲酒運転した職員は懲戒解雇とする」方針を打ち出したのだが、従来の判例理論からすれば認められないだろうし、そもそも、常習的に飲酒・危険運転(しかもナンパ目的)するような職員を公務員として採用したことが大きな間違いであった。そのような「入り口」の問題をまず解決する必要があると思うのだが・・・。
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