翻訳教室 (ほんやくきょうしつ)柴田元幸:著
「村上 ・・・僕は夏目漱石とか谷崎とか芥川とかはわりに好きなんですよね。佐藤春夫もいいな。読めないのは、太宰と三島と川端。読めないですね。なんでだろうと思うけど。」
「柴田 鴎外は?」
「村上 鴎外は意外に読めますよ。翻訳ですけど、『諸国物語』とか好きですね。そういえば、志賀直哉もあんまり読まないですね。三島って僕何度も読もうと思ってるんだけど読めないんですよね。なんでだろう。」
「柴田 すいません、僕も読んだことないんです(笑)。」(p163)
教室に現れた村上春樹氏と柴田教官との会話。
このやり取りに、私は村上春樹氏という作家の本質を見たような気がする。
村上氏は、おそらく「国際主義」の作家に分類されると思われるが、作品中に登場する「僕」は、「イエ」にも「カイシャ」にも基盤を持たない、ある意味では自由・独立の個人である。これは、欧米であれば全く不自然ではない。
これに対し、太宰、三島、川端、志賀(及び谷崎)の小説の登場人物の多くは、「イエ」又は「カイシャ」に属している。
太宰の「斜陽」(但し、私は未読)や「津軽」(但し、未読了)は明確に「イエ」をテーマにしているし、三島の「鏡子の家」や「絹と明察」などは、いずれも「父」(及び「日本」)がテーマである。
彼らは、「家族や組織によってがんじがらめにされた個人」という共通の問題を取り扱っているのだが、これは、夏目漱石が、「私の個人主義」において、日本が抱える病理として指摘したものである。
対して、村上氏(及び柴田氏)は、この問題を看過したまま、現代の日本には、「『イエ』にも『カイシャ』にも基盤を持たない、自由・独立の個人」が、ア・プリオリに存在していると認識しているようである。
おそらく、太宰・三島らと村上氏(及び柴田氏)とでは、問題意識がまるっきり違うために、「読めない」のだろう。
だが、私見では、村上氏や柴田氏のようにな、恵まれた境遇(端的に言えば堅固な経済的基盤)にある人たちは、そんなに多くはない。
多くの日本人は、いまだに「イエ」や「カイシャ」の中で悪戦苦闘している。
そういう人たちは、逆に、村上氏の小説が「読めない」のかもしれない。
「村上 ・・・僕は夏目漱石とか谷崎とか芥川とかはわりに好きなんですよね。佐藤春夫もいいな。読めないのは、太宰と三島と川端。読めないですね。なんでだろうと思うけど。」
「柴田 鴎外は?」
「村上 鴎外は意外に読めますよ。翻訳ですけど、『諸国物語』とか好きですね。そういえば、志賀直哉もあんまり読まないですね。三島って僕何度も読もうと思ってるんだけど読めないんですよね。なんでだろう。」
「柴田 すいません、僕も読んだことないんです(笑)。」(p163)
教室に現れた村上春樹氏と柴田教官との会話。
このやり取りに、私は村上春樹氏という作家の本質を見たような気がする。
村上氏は、おそらく「国際主義」の作家に分類されると思われるが、作品中に登場する「僕」は、「イエ」にも「カイシャ」にも基盤を持たない、ある意味では自由・独立の個人である。これは、欧米であれば全く不自然ではない。
これに対し、太宰、三島、川端、志賀(及び谷崎)の小説の登場人物の多くは、「イエ」又は「カイシャ」に属している。
太宰の「斜陽」(但し、私は未読)や「津軽」(但し、未読了)は明確に「イエ」をテーマにしているし、三島の「鏡子の家」や「絹と明察」などは、いずれも「父」(及び「日本」)がテーマである。
彼らは、「家族や組織によってがんじがらめにされた個人」という共通の問題を取り扱っているのだが、これは、夏目漱石が、「私の個人主義」において、日本が抱える病理として指摘したものである。
対して、村上氏(及び柴田氏)は、この問題を看過したまま、現代の日本には、「『イエ』にも『カイシャ』にも基盤を持たない、自由・独立の個人」が、ア・プリオリに存在していると認識しているようである。
おそらく、太宰・三島らと村上氏(及び柴田氏)とでは、問題意識がまるっきり違うために、「読めない」のだろう。
だが、私見では、村上氏や柴田氏のようにな、恵まれた境遇(端的に言えば堅固な経済的基盤)にある人たちは、そんなに多くはない。
多くの日本人は、いまだに「イエ」や「カイシャ」の中で悪戦苦闘している。
そういう人たちは、逆に、村上氏の小説が「読めない」のかもしれない。