Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

問題意識の違い

2020年10月14日 06時24分06秒 | Weblog
翻訳教室 (ほんやくきょうしつ)柴田元幸:著
 村上 ・・・僕は夏目漱石とか谷崎とか芥川とかはわりに好きなんですよね。佐藤春夫もいいな。読めないのは、太宰と三島と川端。読めないですね。なんでだろうと思うけど。」
 「柴田 鴎外は?」
 「村上 鴎外は意外に読めますよ。翻訳ですけど、『諸国物語』とか好きですね。そういえば、志賀直哉もあんまり読まないですね。三島って僕何度も読もうと思ってるんだけど読めないんですよね。なんでだろう。」
 「柴田 すいません、僕も読んだことないんです(笑)。」
(p163)

 教室に現れた村上春樹氏と柴田教官との会話。
 このやり取りに、私は村上春樹氏という作家の本質を見たような気がする。
 村上氏は、おそらく「国際主義」の作家に分類されると思われるが、作品中に登場する「僕」は、「イエ」にも「カイシャ」にも基盤を持たない、ある意味では自由・独立の個人である。これは、欧米であれば全く不自然ではない。
 これに対し、太宰、三島、川端、志賀(及び谷崎)の小説の登場人物の多くは、「イエ」又は「カイシャ」に属している。
 太宰の「斜陽」(但し、私は未読)や「津軽」(但し、未読了)は明確に「イエ」をテーマにしているし、三島の「鏡子の家」や「絹と明察」などは、いずれも「父」(及び「日本」)がテーマである。
 彼らは、「家族や組織によってがんじがらめにされた個人」という共通の問題を取り扱っているのだが、これは、夏目漱石が、「私の個人主義」において、日本が抱える病理として指摘したものである。
 対して、村上氏(及び柴田氏)は、この問題を看過したまま、現代の日本には、「『イエ』にも『カイシャ』にも基盤を持たない、自由・独立の個人」が、ア・プリオリに存在していると認識しているようである。
 おそらく、太宰・三島らと村上氏(及び柴田氏)とでは、問題意識がまるっきり違うために、「読めない」のだろう。
 だが、私見では、村上氏や柴田氏のようにな、恵まれた境遇(端的に言えば堅固な経済的基盤)にある人たちは、そんなに多くはない。
 多くの日本人は、いまだに「イエ」や「カイシャ」の中で悪戦苦闘している。
 そういう人たちは、逆に、村上氏の小説が「読めない」のかもしれない。
 
 
コメント
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