たった一言で信頼を失う (野口悠紀雄)
「私は次の2つの場合には、無条件に「アウト」と判定している。
私の名前を「野口悠紀夫」と誤記してある場合。名前を間違えるのは、私のことはどうでもよいと考えている証拠だからだ。間違えている本人にその意識がなく、単に誤記された名簿を機械的に使い続けているだけだとしても、そうである。
「さらなる」という表現が用いられている場合。「さらなる」という日本語は誤りである(詳しい説明は、拙著『「超」文章法』(中公新書)の第6章を参照されたい)。これを平気で用いている人は、文章についての気遣いがないことを暴露している。そうした人の書くものは信頼できないと考えて、間違いない。」
この前半と同じ内容は、学生時代に別の本で読んで強い印象を抱いた記憶がある。
それからというもの、私の名前を誤記する人は注意深く観察してきた。
多くの人は、特に被害を受けることはなかったのだが、手紙やメールの宛名の私の名前が間違っているので、何度か「間違っていますよ」と指摘したにもかかわらず、名前を訂正しないまま3年ほど放置していた人の件で、つい最近、ちょっとしたトラブルが起きた。
ある事件で、私はその人と一緒に仕事を行うことになり、私は、その人が作成する書類に連署して裁判所に提出する立場となった。
ところが、その方が記載した事件名の記載が全部間違っていたというので、書記官から電話があり、気を利かして「こちらで作り直しますね」と言ってくれて事なきを得た。
それが去年の話で、その際、「事件名の記載が間違っているので、今後は訂正して下さい」とメールをしておいたのだが、今年になっても訂正されていなかったのである。
私が知る限り、裁判所というものは、「事件名・事件番号を間違える」といったたぐいのミスに対してはかなり厳しいはずである。
本当のところ、わざわざ書類を作り直す書記官の手間暇を考えると、非常に申し訳ない思いがする。
「無条件アウト」という野口先生の指摘は、正しいように思うのである。
「私は次の2つの場合には、無条件に「アウト」と判定している。
私の名前を「野口悠紀夫」と誤記してある場合。名前を間違えるのは、私のことはどうでもよいと考えている証拠だからだ。間違えている本人にその意識がなく、単に誤記された名簿を機械的に使い続けているだけだとしても、そうである。
「さらなる」という表現が用いられている場合。「さらなる」という日本語は誤りである(詳しい説明は、拙著『「超」文章法』(中公新書)の第6章を参照されたい)。これを平気で用いている人は、文章についての気遣いがないことを暴露している。そうした人の書くものは信頼できないと考えて、間違いない。」
この前半と同じ内容は、学生時代に別の本で読んで強い印象を抱いた記憶がある。
それからというもの、私の名前を誤記する人は注意深く観察してきた。
多くの人は、特に被害を受けることはなかったのだが、手紙やメールの宛名の私の名前が間違っているので、何度か「間違っていますよ」と指摘したにもかかわらず、名前を訂正しないまま3年ほど放置していた人の件で、つい最近、ちょっとしたトラブルが起きた。
ある事件で、私はその人と一緒に仕事を行うことになり、私は、その人が作成する書類に連署して裁判所に提出する立場となった。
ところが、その方が記載した事件名の記載が全部間違っていたというので、書記官から電話があり、気を利かして「こちらで作り直しますね」と言ってくれて事なきを得た。
それが去年の話で、その際、「事件名の記載が間違っているので、今後は訂正して下さい」とメールをしておいたのだが、今年になっても訂正されていなかったのである。
私が知る限り、裁判所というものは、「事件名・事件番号を間違える」といったたぐいのミスに対してはかなり厳しいはずである。
本当のところ、わざわざ書類を作り直す書記官の手間暇を考えると、非常に申し訳ない思いがする。
「無条件アウト」という野口先生の指摘は、正しいように思うのである。