森進一『襟裳岬』の歌詞をどう解釈すべきか?~冬季に悲しみと訣別し、気持ちを整理するための歌
「サビの部分は「襟裳の春は 何もない春です」となっている。この歌詞は地元住民の反発を招いたという。「襟裳には何もないわけじゃない。バカにするな」と受けとめたのだ。
この解釈も間違いだと思う。岡本は「襟裳の街は 何もない街です」と書いたわけではない。「襟裳の春は何もない春」と書いたのだ。
ポイントは「春」の文字にある。その前の歌詞も考慮すると、この部分は「冬の間に悲しみを燃やし、気持ちを整理(リセット)した。春になれば、また0から新しい人生が始まる」と解釈できる。つまり、「襟裳の春は精神的に何もない。無の境地になった」という意味だ。「都会に比べて何もない街」なら、わざわざ「春」をつける必要はない。街の姿は1年中、変わらないからだ。」
「襟裳岬」三者三様
「3節
日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう*4
・・・*4 この句からは、俗塵にまみれた日々の暮らしも笑い飛ばして生きていこうという
前向きな主張が感じられます。
当時、本人に責任のないスキャンダルに巻き込まれていた吉田拓郎と森進一の両人
を思いやる岡本の心情が表されています。」
歌詞の意味を解釈するのは私の趣味の1つだが、その私から見ても「襟裳岬」は結構な難物である。
一番しっくりくるのは、作詞した岡本おさみ氏が、旅の経験を基にして、当時スキャンダルに悩まされていた吉田拓郎氏に送ったメッセージという解釈である。
ニッポン放送での吉田氏の話によると、岡本氏は自分が作った詩を旅先から吉田氏に送っており、森氏のマネージャーから依頼が来る前に既に「焚火」という詩が完成していたそうである。
確かに、1節の「悲しみ」や「黙りとおした歳月」、3節の「日々の暮らしはいやでも やってくるけど 静かに笑ってしまおう」や「身構えながら 話すなんて ああおくびょう なんだよね」といった言葉は、そのまま吉田に向けられたものと解するとしっくりくる。
ポイントは、「冬」が人生の試練を象徴しており、それを通り過ぎれば「何もない(わずらわしさもない、穏やかな)春」がやってくるというところだろうか?
もちろん、唯一の解釈などあるわけがないので、人それぞれの解釈があってよいと思う。
「サビの部分は「襟裳の春は 何もない春です」となっている。この歌詞は地元住民の反発を招いたという。「襟裳には何もないわけじゃない。バカにするな」と受けとめたのだ。
この解釈も間違いだと思う。岡本は「襟裳の街は 何もない街です」と書いたわけではない。「襟裳の春は何もない春」と書いたのだ。
ポイントは「春」の文字にある。その前の歌詞も考慮すると、この部分は「冬の間に悲しみを燃やし、気持ちを整理(リセット)した。春になれば、また0から新しい人生が始まる」と解釈できる。つまり、「襟裳の春は精神的に何もない。無の境地になった」という意味だ。「都会に比べて何もない街」なら、わざわざ「春」をつける必要はない。街の姿は1年中、変わらないからだ。」
「襟裳岬」三者三様
「3節
日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう*4
・・・*4 この句からは、俗塵にまみれた日々の暮らしも笑い飛ばして生きていこうという
前向きな主張が感じられます。
当時、本人に責任のないスキャンダルに巻き込まれていた吉田拓郎と森進一の両人
を思いやる岡本の心情が表されています。」
歌詞の意味を解釈するのは私の趣味の1つだが、その私から見ても「襟裳岬」は結構な難物である。
一番しっくりくるのは、作詞した岡本おさみ氏が、旅の経験を基にして、当時スキャンダルに悩まされていた吉田拓郎氏に送ったメッセージという解釈である。
ニッポン放送での吉田氏の話によると、岡本氏は自分が作った詩を旅先から吉田氏に送っており、森氏のマネージャーから依頼が来る前に既に「焚火」という詩が完成していたそうである。
確かに、1節の「悲しみ」や「黙りとおした歳月」、3節の「日々の暮らしはいやでも やってくるけど 静かに笑ってしまおう」や「身構えながら 話すなんて ああおくびょう なんだよね」といった言葉は、そのまま吉田に向けられたものと解するとしっくりくる。
ポイントは、「冬」が人生の試練を象徴しており、それを通り過ぎれば「何もない(わずらわしさもない、穏やかな)春」がやってくるというところだろうか?
もちろん、唯一の解釈などあるわけがないので、人それぞれの解釈があってよいと思う。