最高裁大法廷令和3〔2021〕年6月23日決定の紹介と分析
「三浦意見は、「法律の内容如何によって、氏名について、その人格権の一内容としての意義が失われるものではない」(7頁)とし、宮崎・宇賀反対意見は「この人格的利益は、法律によって創設された権利でも、法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく、人間としての人格的、自律的な営みによって生ずるものであるから、氏が法制度上自由に選択できず、出生時に法制度上のルールによって決められることは、この人格的利益を否定する理由にはなり得ない」(23~24頁)とする。
これら2つの見解を組み合わせると、婚姻前の氏を維持する利益は人格的利益として憲法13条の保障を受けるのだから、婚姻に際して氏の変更を強制されない自由を憲法13条によって保障される人格権として構成することが可能になる。」
宮崎・宇賀反対意見が最も説得力があると思うが、それでも隔靴掻痒の感を免れない。
不思議に感じるのは、各意見とも「あの二人は苗字が同じだから夫婦だな」とか「彼女は苗字が変わったから結婚したんだな」とかいうときの、「同姓であることによる婚姻識別機能」を正面から分析していないところである。
法廷意見はこの機能に直接言及してはいないものの、問題を国会に投げ返しているところから、要するに、「選択的夫婦別姓にすると第三者から見て夫婦かどうか分かりにくい」という側面を重視しているようである。
仮にそうだとすると、当事者の権利・利益よりも当事者以外の人間にとっての利便性(公共の福祉?)を優先させていることになってしまい、「憲法13条による保障肯定説」に対しては到底太刀打ちできないだろう。
なお、ここでは論じられておらず、表立って論じることも難しい問題がある。
それは、今なお一部の日本人の無意識のレベルに潜んでいる「イエ」(苗字=屋号=事業を同じくする集団)の存続・永続を絶対視する思考を一掃するためには、夫婦の姓をどうするのが望ましいかという問題である。
差し当たり、選択的夫婦別姓制度+「姓を名乗らないという選択肢」が望ましいと思うのだが、どうだろう?
「三浦意見は、「法律の内容如何によって、氏名について、その人格権の一内容としての意義が失われるものではない」(7頁)とし、宮崎・宇賀反対意見は「この人格的利益は、法律によって創設された権利でも、法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく、人間としての人格的、自律的な営みによって生ずるものであるから、氏が法制度上自由に選択できず、出生時に法制度上のルールによって決められることは、この人格的利益を否定する理由にはなり得ない」(23~24頁)とする。
これら2つの見解を組み合わせると、婚姻前の氏を維持する利益は人格的利益として憲法13条の保障を受けるのだから、婚姻に際して氏の変更を強制されない自由を憲法13条によって保障される人格権として構成することが可能になる。」
宮崎・宇賀反対意見が最も説得力があると思うが、それでも隔靴掻痒の感を免れない。
不思議に感じるのは、各意見とも「あの二人は苗字が同じだから夫婦だな」とか「彼女は苗字が変わったから結婚したんだな」とかいうときの、「同姓であることによる婚姻識別機能」を正面から分析していないところである。
法廷意見はこの機能に直接言及してはいないものの、問題を国会に投げ返しているところから、要するに、「選択的夫婦別姓にすると第三者から見て夫婦かどうか分かりにくい」という側面を重視しているようである。
仮にそうだとすると、当事者の権利・利益よりも当事者以外の人間にとっての利便性(公共の福祉?)を優先させていることになってしまい、「憲法13条による保障肯定説」に対しては到底太刀打ちできないだろう。
なお、ここでは論じられておらず、表立って論じることも難しい問題がある。
それは、今なお一部の日本人の無意識のレベルに潜んでいる「イエ」(苗字=屋号=事業を同じくする集団)の存続・永続を絶対視する思考を一掃するためには、夫婦の姓をどうするのが望ましいかという問題である。
差し当たり、選択的夫婦別姓制度+「姓を名乗らないという選択肢」が望ましいと思うのだが、どうだろう?