Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

”変身譚”の終焉

2022年06月24日 06時30分55秒 | Weblog
進撃の巨人(34) 最終話「あの丘の木に向かって」
(以下ネタバレご注意!)

 アルミン「・・・聞いたよ。ミカサがもたらした選択の結果が・・・巨人の力を・・・この世から消し去ることになるって

 私は、日本のサブカルチャーは、長らく”変身譚”によって汚染されてきたとみている。
 ウルトラマン、仮面ライダーなどはその典型だし、ガンダム(モビルスーツ)やエヴァンゲリヲン(エヴァ)もその亜種だろう。
 少女マンガ・アニメの世界でも、古くはキューティー・ハニー、セーラームーンなどがやはり”変身譚”だった。
(時代劇だと、「水戸黄門」などもこの系譜に入るだろう。)
 この種の”変身譚”においては、主人公が日常の人格を離脱し、人間とは違うものに姿形を変え、「超越的な力」を使って英雄的な功績を挙げるというのが基本的なストーリーを構成していた。
 その反面、戦後日本のサブカルチャーにおいて、「凡人が地道に努力して功績を挙げるストーリー」は、(一部のスポ根ものなどを除き)およそ主流になることは出来なかった。
 その理由は、私見では、「超越的な力」(血筋、生来の才能、特殊なメカ、集団の行動など)に対する飽くなき崇拝、及びそれと裏腹を成すところの「人間嫌悪」にあったと思う。
 ”変身譚”を好む人たちは、おそらく「具体的な個人を超越した、何らかの権威に依存したい」というメンタリティーを持っていると思う。
 この悪しき伝統を、諌山先生(とミカサ)が打ち砕いてくれたのではないかと期待するわけだ。
 だいたい、主人公が「巨人」に変身するという設定からして素晴らしい。
 ホメロス以来、(少なくとも西欧において)「巨人」は枝分節集団のメタファーなので(洞窟からの脱出)、諫山先生は、戦後日本の”変身譚”が実は枝分節集団の形成を志向するものであることを暴露してくれたのである。
 つまり、モビルスーツだろうがエヴァだろうが、結局は権威の象徴であることを、分かりやすく示してくれた。
 そして、最終的に、ミカサという個人の決断によって、「巨人のいない世界」がもたらされたのである。
 もっとも、これが”変身譚”の終焉となるかどうかは、しばらく様子を見る必要があるだろう。
 何しろ、”変身譚”が大好きな人たちは、いまだにたくさんいるのだから。
 
コメント
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