親知らずを抜いた翌日ということで自宅で読書。もっとも、外出したくても外はあらしである。
本多勝一の
新装版 日本語の作文技術を読了し、今度は丸谷才一の
文章読本にとりかかる。いずれも良書である。
さて、ここでバーディーが気になったのは、「小説家の書く文章」と「一般人の書く文章」とは別物なのかどうかということである。本多氏は、達意(意味が通じること)に重点を置いて、「一般人は(ややもすれば分かりにくい)小説家の文章を真似しない方がよい」という立場を取っている。対して、丸谷氏は、「口語体を発明し発展させてきた小説家の文章こそが文章の模範となるべきである」と主張する。
結論から言えば、言葉が歴史の産物である以上、「ひとつの日本語」があるべきであり、それで足りるのである。私見であるが、本多氏のいわゆる「小説家の文章」とは、大江健三郎のような、フランス語直訳調の日本語等を指すのではないか。他方、丸谷氏のいう「小説家」は大正・昭和初期あたりの小説家を指す。そうすると、両者の隔たりはさほど大きくないと思える。
ところで、検察庁では、調書作成時に
「必ず主語を入れること!」
「必ず過去形で結ぶこと!」
などと念を押されたものである。だが、日本語においては、主格は必要であっても主語は多くの場合不要であり(本多:p211)、また、過去の事実を現在形で表しても決して誤りではない(丸谷:p17)。上に述べた「調書作成時の心得」は、欧米の文法に毒されたものといっても言いすぎではない。
やはり、「それぞれの日本語」ではなく、「ひとつの日本語」があるべきだ。一流の歴史家が指摘するとおり、すべての歴史が「政治史」であるように。