Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

洗礼を受けたユダヤ人(3)

2022年10月21日 06時30分10秒 | Weblog
(以下、「レオポルトシュタット」のネタバレご注意!)

 ファン・へネップは、個人が特定の集団に帰属するに至る過程を、一般の世間から「分離儀礼」によって隔てられた後、「過渡期」を経たうえで、特定の集団への「加入礼」によって統合されると説明する。
 「分離」→「過渡」→「統合」という3段階のモデルであり、キリスト教の洗礼はこのモデルによく適合している。
 だが、割礼はどうだろうか?
 割礼は、分離儀礼であると同時に加入礼であり、「過渡」のプロセスを欠いている。
 ここでは、「過渡」の状態から一般の世間への「後戻り」及び加入後の「脱退」を許さないところが最大のポイントである。
 これに対し、日本の反社集団の場合、指詰めという(割礼と同じ)「身体毀損」によって脱退を許すので、ユダヤ教とは儀礼の意味が真逆である。
 但し、指詰めの痕跡は一般の世間の人にもよく見えるのに対し、割礼の痕跡はそうではなく、(赤ちゃん時代から知っている親きょうだいなどを除けば)せいぜい妻ぐらいにしか分からない。
 こうしてみると、「レオポルトシュタット」において、ヘルマン(洗礼を受けたユダヤ人)の妻:グレートル(カトリック教徒)が不貞に走るのには、ヘルマンが属する集団への統合を拒絶するという意味と、その出自=「神との契約」を否認するヘルマンを拒絶するという意味の、「2つの拒絶」が含意されていると解釈出来る。
 なので、グレートルの、「私がユダヤ人だったら、結婚してくれた?」というセリフは、この芝居のテーマを集約する最も重要なものといえる。
(したがって、グレートルのキャラクターの描写と演技は決定的に重要である。)
 もっとも、私の直観では、ほかにも隠れたテーマがいくつかありそうだ。
 なので、来年1月公開予定の映画版(ナショナル・シアター・ライブ「レオポルトシュタット」)をじっくり観ることにしたい。
 
 
 
 
 
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洗礼を受けたユダヤ人(2)

2022年10月20日 06時30分55秒 | Weblog
 ヘルマンの例から分かるとおり、割礼を受けることと洗礼を受けることは両立する。
 キリスト教の洗礼とユダヤ教の割礼は、社会人類学的にはいずれも「加入礼」と位置づけられるが、この両者には根本的な違いがあると考えられる。
 まず、キリスト教の洗礼は、何らかの外形的な痕跡を残すようなものではないし、それ自体が決定的に重要というわけではなく、信仰を受け入れたことの結果のようである(但し、信者ではないので誤解があるかもしれない)。

【解説】洗礼式(バプテスマ)とは?やり方もクリスチャンが解説
 「教会によっては年齢制限もあるかもしれませんが、最も大切な条件は、本人がイエスキリストの救いを受け入れているかという点です。これが唯一の条件と言ってもいいですね!
 「つまり、
洗礼を受ける➡イエスキリストを信じる
ではなく、
イエスキリストを信じる➡洗礼を受ける
というのが正しい順番だということです。


 これに対し、ユダヤ教の割礼は、「痕跡を消し去ることが出来ない」ものであり、儀礼それ自体が決定的な重要性を持つという点で、洗礼とは大きく異なる。

通過儀礼(岩波文庫)ファン・ヘネップ 著 , 綾部 恒雄 訳 , 綾部 裕子 訳
 「身体に何らかの毀損を受けた人は何らかの分離儀礼(切断、穿孔などはこのため)によって一般の世間から隔てられ、同時にある集団に自動的に統合されるが、痕跡を消し去ることができないようなやり方で傷をつけるため、この統合は終身的なものとなる。ユダヤ教徒の割礼も例外ではない。これは明らかに特定の神との「契約のしるし」としてなされるのであり、また同じ信徒共同体への所属のしるしとしてなされるのである。」(p99)
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洗礼を受けたユダヤ人(1)

2022年10月19日 07時30分00秒 | Weblog
新国立劇場 開場25周年記念公演 レオポルトシュタット Leopoldstadt
 「20年のオリヴィエ賞作品賞を受賞し、ブロードウェイをはじめ英国国外での上演も既に決定している本作で描かれているのは、あるユダヤ人一族の物語。戦争、革命、貧困、ナチスの支配、そしてホロコーストに直面した20世紀前半の激動のオーストリアに生きた一族の一大叙事詩は、50代で初めて自らのユダヤ人としてのルーツを知ったというストッパードの自伝的要素も含まれているといわれています。

 「ガラスの動物園」に続き中劇場での開催となる。
 「ガラスの動物園」が舞台を額縁のように仕切った「プロセニアム形式」だったのに対し、「レオポルトシュタット」では客席前方を潰して舞台を広くとる「オープン方式」が採用されている。
 しかも、歌舞伎のような廻り舞台で、ハード面は「傑作」を予感させる。
 ところが、初日ということもあってか、大半の役者さんがガチガチに緊張しており、「セリフを覚えるので精いっぱい」という様子が感じられる。 
 つい先日、イザベル・ユペールの、リラックスした自然で完璧な演技を観たお客さんは、今回の演技を観てどう感じたのだろうか?
 さて、この戯曲はユダヤ人の歴史を描くものであり、序盤では割礼が頻繁に登場する。
 主人公の一人であるヘルマン・メルツは、カトリック教徒のグレーテルと結婚し、「洗礼を受けたユダヤ人」として出世する。
 つまり、彼は、生後すぐに割礼を受け、成人した後で洗礼を受けたのである。


 
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こどもと家庭(6)

2022年10月18日 06時30分23秒 | Weblog
 さらなる行政の労力浪費や税金の無駄遣いはやめて欲しいところだが、私などは、本質的なところで、この集団の思考にある種の”気味の悪さ”を感じてしまう。
 まず、「こどもをあたかも道具のようにコントロールし、意のままにデザインしたい」という思考が挙げられる。
 これが宗教と結びつくとどうなるかは、アメリカの問題状況や日本における「二世」の状況を見れば分かるだろう。
 また、「こどもを持たない/持てない成人を『親』よりも劣位に置く」、あるいは「親を持たないこどもを『家庭』のあるこどもよりも劣位に置く」という思考も根底にあるだろう。
 これは、端的な差別であり、ただでさえ「新階級社会」という問題を抱える日本に、新たな階級対立を持ち込みかねないものである。
 すなわち、この集団からは、「親」及び親のいる「家庭」の優位性を確保するとともに、そうでない人たちを「こども」と同じ階層に括りこんで劣位に置いてしまおうという思考が透けて見えるのである。
 そして、これをつき進めると、「親」と(「非親」成人を含む)「こども」との階級分化が生じることになるだろう。
 そのうち、こういうスローガンが叫ばれる時代がやって来るかもしれない。

 「万国の”こども”たち、団結せよ!

 ところで、そもそも「こども」にとって「親」は本当に必須のものだろうか?
 この疑問については、例えば「タイピー日記」を視てみるとよいと思う。
 そこでは、親からはぐれた/親のいない、中には殺処分寸前だった犬と猫が、のびのびと個性豊かに暮らしている姿を見ることが出来る。
 彼ら/彼女らを支えているのは、タイピーさんをはじめとする周囲の人間や(仲間である)動物たちの愛情と友情である。
 少なくとも、そこに階級分化を煽るような差別的な発想は微塵もない(だから、犬と猫あるいは猫同士が互いにじゃれ合うわけである。)。
 もちろん、タイピーさんが「親学」を修めた有資格者であるということもない(はず)。
 「親はなくとも子は育つ」というのは、人間に限らず動物の世界にも当てはまるようだ。
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こどもと家庭(5)

2022年10月17日 06時30分50秒 | Weblog
くまもと家庭教育支援条例 逐条解説
 (2条4項:地域活動団体)「本項では、「地域活動団体」の定義を示している。家庭教育を推進する担い手として、PTA、子ども会や地域婦人会のような社会教育関係団体、自治会等の地域で活動する団体の役割が重要であることから、これらを総括して定義し、谷間なく対象としている。
 (12条1項:親としての学びを支援する学習機会の提供)「本項では、保護者が、子どもの発達段階に応じて大切にしたい家庭教育の内容、子育ての知識その他の親として成長するために必要なことを学ぶことを支援するために、県は、親としての学びや成長を支援する学習の方法を開発するとともに、その普及を図ることを規定した。
 (13条:親になるための学びの推進)「本項は、将来親となる世代(子ども)が、家庭の役割、子育ての意義その他の将来親になることについて必要なことを学ぶことができるよう、県は、親になるための学習の方法を開発するとともに、その普及を図ることを規定した。

 「第一義的な責任」云々は、読んだだけでは真の狙いが分かりづらいが、こちらの方はちょっと読んだだけ大体分かるような気がする。
 ”お金”の臭いがプンプンしてくるのだ。
 関係者は、「親学」という新たなジャンルを立ち上げ、「親学ビジネス」での収益確保を狙っているかのようである。
 ”谷間なく”対象となる「地域活動団体」には、宗教団体のフロント組織なども含まれるだろうし、こうした団体が「親学」を仕切る、あるいは既存の団体と提携したり人材を送り込んだりする事態も出てくるだろう。
 そのうち、「親学インストラクター」などの資格制度が出来て、フロント組織が認定機関として指定されたり、教育関係者の再就職先になったりするかもしれない。
 だが、常識で考えて、この「親学」なるものの内容は不明確である。
 というか、そもそも実質的な内容のあるものなのだろうか?

トンデモ系❗「親学」というニセ医学・疑似科学が子育てママに襲いかかっている⁉
 「「親学」提言のポイント
(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める
毎日新聞 2007 年4月26日

 
 私見では、この内容でニュー・ビジネスを立ち上げて持続させるのは至難の業であり、「ふるさと創生」、「クールジャパン」などの二の舞になる可能性が濃厚である。
 それにもかかわらず、こうした「親学」関係の規定が条例の中核となっているのはなぜだろうか?
 これについては、「親学」を推進してきた親学推進協会のメンバーたちを見れば分かるだろう。
 この組織の中心的なメンバーたちは、某宗教団体と関係を持ってきたことが指摘されているのである。
 

 
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こどもと家庭(4)

2022年10月16日 06時30分31秒 | Weblog
 「保護者がその子どもの教育について第一義的責任を有するという基本的認識」という文言は、教育基本法「(家庭教育)第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」に由来するものと解される。
 この点、日弁連は、改正教育基本法の成立についての会長談話において改正前の第10条のことを取り上げているが、なぜか改正後の第10条を問題視することはしていない。
 だが、私見では、改正第10条は、日本の公教育に対する大きなリスクを孕んでいると思われる。
 日弁連の上記声明は、教育基本法改正が国家による「不当な支配」を招くものであるという認識に基づくものかもしれないが、これは、例えばアメリカにおける教育と宗教の問題状況を踏まえると、おそらくポイントを外しているということになるだろう。
 アメリカにおいては、昔から、ゴバイティス事件(1940年の歴史的な最高裁訴訟で注目を集めた少女リリアン・ゴバイタス・クローゼが90歳で亡くなる)のように、国・州による公教育と親の(宗教的)教育の自由とが深刻に対立する状況が見られた。
 これは現在でも続いており、だから「公教育においてダーウィンの進化論を取り上げることの可否」が問題となるわけである。

憲法的思惟 アメリカ憲法における「自然」と「知識」(蟻川恒正)
 「親が、自らの宗派の奉ずる価値を以て子どもの教育を支配せんとせば、public school は、アメリカ国家の価値を掲げて、これに抗う。この国の「教育の自由」論では、よきにつけ悪しきにつけ、実態価値そのものが剥き出しでぶつかり合っているのである。」(p45)

 こうした観点からすれば、改正教育基本法第10条及び家庭教育支援条例は、公教育と親の(宗教的)教育の自由とが対立した場合、後者に軍配を挙げるべきことを指示するものという風にも読めてしまう。
 具体的には、人間の生や死に関わる問題については親が「第一義的責任を有する」という論拠で、公教育における性教育は許されないということになるかもしれないし、親がこどもを宗教的行事に参加させたり宗教施設に立ち入らせたりすることは「教育の自由」に含まれ、国や自治体がこれに介入する(法律・条例で禁止・制限する)ことは禁止されるということになるかもしれない。
(それにしても、憲法学者は、改正教育基本法10条をスルーしたのだろうか?)
 要するに、改正教育基本法第10条及び家庭教育支援条例は、宗教団体の立場からすれば、「『二世』をつくりやすくして、かつ、脱会を防止する」という目的を含んでいるという見方が可能なのである。
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こどもと家庭(3)

2022年10月15日 06時30分04秒 | Weblog
「憤り感じる」「学生に教会の勧誘が及ばないように」岸田総理の後援会長 崇城大・中山学長が会見
 「『文春オンライン』が23日、日韓トンネル建設を推進する崇城大学(熊本市)の中山峰男学長が岸田文雄総理の後援会長であり、旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)関連団体の議長だと報じた。

旧統一教会側が望む法制定、請願多い熊本 提出者は教団系団体と接点
 「国が家庭教育の基本方針を定めるという「家庭教育支援法」の制定を求める意見書が、全国各地の地方議会で可決されている。家庭教育は、宗教法人「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」が重視する。意見書を可決した自治体が最も多い熊本県では、教団の友好団体の幹部を務めている男性が立ち上げた団体が、意見書を求める請願の提出者になっていた。

 新興宗教の関係者が、都市部の大学で孤立した状況にある地方出身の若者を主たるターゲットとして入信を勧誘することは、かつては盛んであった(一部の政党等も行ってきたことである。)。
 もちろん、これは現在も続いているとみられ、文春の記事のように、私立大学の学長等への浸透が図られているようだ。
 もっとも、デジタル世代の大学生の場合、施設まで来てもらって勧誘を行うというのは至難の業である。
 なので、大学生等へのアプローチには限界があるだろう。
 そこで、「こども」がターゲットにされたわけだが、この際、朝日新聞の記事にあるとおり、自治体の教育関係者が働きかけの対象とされた。
 初等・中等教育は主に自治体が担っているわけだから、「こども」をターゲットとしようというのであれば、これは当然のアプローチとも言える。
 そして、自治体の教育関係者等を利用して、差し当たり、条例の制定が図られたのである。

くまもと家庭教育支援条例
 「(基本理念)第3条
 家庭教育の支援は、保護者がその子どもの教育について第一義的責任を有するという基本的認識の下に、家庭教育の自主性を尊重しつつ、学校等、職域、地域その他の社会のあらゆる分野における全ての構成員が、各々の役割を果たすとともに、相互に協力しながら一体的に取り組むことを旨として行われなければならない。

 「(定義)第2条
4 この条例において「地域活動団体」とは、社会教育関係団体(社会教育法(昭和24年法律第207号)第10条に規定する社会教育関係団体をいう。)、地方自治法(昭和22年法律第67号)第260条の2第1項に規定する地縁による団体その他の地域的な共同活動を行う団体をいう。

 「(親としての学びを支援する学習機会の提供)第12条
  県は、親としての学び(保護者が、子どもの発達段階に応じて大切にしたい家庭教育の内容、子育ての知識その他の親として成長するために必要なことを学ぶことをいう。次項において同じ。)を支援する学習の方法の開発及びその普及を図るものとする。
2 県は、親としての学びを支援する講座の開設その他の保護者の学習の機会の提供を図るものとする。

 「(親になるための学びの推進)第13条
 県は、親になるための学び(子どもが、家庭の役割、子育ての意義その他の将来親になることについて学ぶことをいう。次項において同じ。 )を支援する学習の方法の開発及びその普及を図るものとする。
2 県は、学校等が子どもの発達段階に応じた親になるための学びの機会を提供することを支援するものとする。


 
 
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こどもと家庭(2)

2022年10月14日 06時30分53秒 | Weblog
 フィットネスクラブで一番お金がかかっているのはプールなので、これをフルに活用するというのは合理的な発想である。
 この点、各社がこぞって「こども」をターゲットにしているのには、私見では、大きく2つの理由がある。
 第一の理由は、「家族への会員拡大」である。
 例えば、野球やサッカーなどは、家族を送迎や応援などのために動員することはあっても、家族が選手として参加することはまずないと言ってよい。
 ところが、キッズ・スイミングの場合、親がこどものためにスイミング・スクール会員としての登録を行い、付き添いとしてやってくる(したがって、「家庭」を巻き込んでいる)のだが、これをきっかけに、親についてはフィットネス会員となることが期待できる。
 こうして、お父さんやお母さんも、クラブにフィットネス会員として入会し、プールに限らず、スタジオやジムで汗を流すようになる可能性が出てくるのである。
 このように、キッズ・スイミングは、「こどもと家庭」をまるごと取り込もうというビジネス戦略に基づいているわけである。
 第二の理由は、「成長したこどもの(フィットネス会員としての)入会」である。
 フィットネスクラブには、フィットネス会員の入会について年齢制限があり、例えば、コナミスポーツクラブでは16歳以上(Q: 【大人/16歳以上】何歳からスポーツクラブに入会できますか。)、セントラルスポーツでは15歳以上(Q 何歳から入会できますか?)となっている。
 なので、幼いころにスイミングに通っていたこどもが15歳・16歳になると、その流れでフィットネス会員に移行することが期待できるわけである。
 このように、キッズ・スイミングには、会員を拡大してクラブの基盤を強固にする狙いがあるわけである。
 だが、この戦略は、実は、ある種の宗教団体の戦略(というよりむしろ教義?)と重なっている。
 つまり、「こども」をターゲットにすることによって「家庭」をまるごと取り込む、また、こどもが成長してそのまま信者(いわゆる「二世」)になってくれる、というところは、キッズ・スイミングと同じである。
 なので、一部の宗教団体とフィットネス業界は、競合関係にあるということになるだろう(いや、逆に両者がタッグを組むという可能性もあるような・・・。)。
 
 
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こどもと家庭(1)

2022年10月13日 06時30分50秒 | Weblog
野田聖子大臣、旧統一教会が政策へ影響「あったんだな」…自民党議員で初めて認める
 「「子供を社会の真ん中に」という理念を掲げる「こども家庭庁」は当初、「こども庁」という名称だった。それが、2021年12月の閣議決定の直前、「子育ての基盤は家庭」「家庭も支援の対象になることを強調する必要がある」といった与党内の意見から、「家庭」の2文字が加わった。これは教団の働きかけによるものではないかという声が上がっている。
 実際、教団の関連団体である国際勝共連合のホームページでは、「心有る議員・有識者の尽力によって、子ども政策を一元化するために新しく作る組織の名称が『こども庁』から『こども家庭庁』になりました」と記載されている。


 私が新人サラリーマンだったころ(約30年前)、バブル崩壊の影響で、中小企業の多くが資金繰りに苦しんでいた。
 たまたま担当していたフィットネスクラブもその例にもれず、約定弁済が出来ないのでリスケジュール(条件変更)を続けていたのだが、上司が、条件変更延長のため来店したその会社の社長(有名大学の水泳部出身)に向かって言った言葉に感銘を覚えた。

 「社長さん、やっぱりねぇ、お金を持った人たちは、子供が沢山来るような、スイミング主体のスポーツクラブは敬遠しちゃうんですよ。お金を持った男たちは、やっぱり若いネエチャンたちが来るところに集まるわけで、ガキたちが来るようなところには寄り付かないんですよ。

 「若いネエチャン」→「金持ちの男性」という、およそフィットネスの正道とは言い難い思考だが、バブル当時はこういう発想のビジネスが成功したのである。
 では、フィットネス業界は、その後どうなったか?
 大手フィットネスクラブでは、会員の高齢化が進み、土日の午前中などはプール(+サウナ)は高齢者が殆どで、スタジオも中高年が大半という施設が多い。
 比較的経済的な余裕のある中高年のための半ば社交場と化する一方で、若者が寄り付かない場所になってしまった。
 なにしろ、今や若者の約半分は非正規雇用労働者なのである。
 この状況で経営者が考えることは同じで、「このままでは将来がない」ということである。
 そこで、近年、各社こぞって、児童向けスイミングへの(再)注力をはじめている。
 大手フィットネスクラブは、スイミングクラブから発展したところが多いから、これはある意味では「原点回帰」と言えるだろう。

子供が水泳を習う効果とは? 子供も家族も成長が実感できる最新技術
 「進級テストの際には、プールに設置した複数のカメラで、水中を含めたさまざまな角度からお子様の泳ぎを撮影します。撮影された映像はAI技術によって自動編集され、結果とともに配信するので、親子で成果を実感いただけます。・・・
 教育改革や新しい生活様式など、お子様を取り巻く社会環境は大きく変動しています。その中で、一方的な指導ではなく、子供たちがみずから考え行動できる機会を提供することが大切だと感じていました。
 特に、2020年は緊急事態宣言下における一斉休校など、お子様も保護者様も通常とは異なる状況が続きました。外出自粛で運動不足が懸念されるお子様や、習い事の見学が難しくなった保護者様のためにも、いち早くこのサービスをお届けしたいと考え、開発を進めました


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盛り合わせや否や?

2022年10月12日 06時30分42秒 | Weblog
戦中と戦後の間【新装版】1936-1957 著者 丸山眞男
 「僕はピアノが一番すきなので、ピアノ・リサイタルはほかの音楽会と比べては足をはこぶ方ですが、僕がいつもうんざりさせられるのは、なによりも曲目の選択のし方なのです。小綺麗に印刷されたプロを見て御覧なさい。大抵は古典音楽と浪漫派と現代音楽とから夫々一曲二曲ピックアップして大小ほどよくあしらったというたぐいのものです。例えばバッハのプレリュードとフーグから一曲二曲、ベートーヴェンのソナタが一つ、ショパンのエチュードとかバラードから数曲、おしまいはドビュッシィかラヴェルの小曲といった風の配列がまずおきまりといってもいいでしょう。僕はこういった音楽会を「盛り合わせ音楽会」と呼びます。古典から現代までのピアノ音楽史を僅か一晩のプロに圧縮して聴かせてくれると思えば有り難いのかもしれませんが少くも僕にとっては有難すぎて迷惑です。なぜなら僕は音楽を楽しみに音楽会に行くのであって、音楽史の勉強に行くのではありませんから、そうして僕は上の様な「盛り合わせ」音楽会からは、たとい演奏がいかによくても十分の楽しみは決して得られないのです。」(p355~356)

 丸山先生による有名な「盛り合わせ音楽会」批判である。
 さて、こうした観点からすると、阪田知樹さんの先日のコンサートは、曲目からすると、「盛り合わせ音楽会」のように見えるが、さてどうだろう?

《指先で紡ぐ踊りの音楽史》 阪田知樹 ピアノ・リサイタル
 曲目・演目
J.S.バッハ/阪田知樹:アダージョ BWV564
J.S.バッハ/ブゾーニ:シャコンヌ BWV1004
シューマン:蝶々 op.2
シューベルト/リスト:ヴィーンの夜会 W.427/R.252より第6番 イ短調
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ガーシュウィン/ワイルド:7つのヴィルトゥオーゾ練習曲より
バラキレフ:イスラメイ


 阪田さんの解説によれば、今回のテーマ(冒頭のアダージョは除く)は「踊り」。
 言われてみれば、シャコンヌはダンスだし、「蝶々」は仮面舞踏会を描いたもの、ワルツもダンス、ガーシュインもイスメライもダンスである。
 ・・・確かに「音楽史」ではあるけれど、統一されたテーマによって選曲されたわけなので、個人的には「盛り合わせ」には当たらないと考えたいのだが、丸山先生はどうおっしゃるのだろうか?
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