Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

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2022年10月11日 06時30分00秒 | Weblog
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ジュリオ・チェーザレ<新制作>
 「ロラン・ペリー演出版は2011年にパリ・オペラ座ガルニエで上演され話題となり、14年にトリノ王立歌劇場でも上演されたもの。ペリーのコンセプトは、「史実をめぐる夢想」。「遊び心をもって歴史を見てみた」と、エジプトの博物館のバックヤードを舞台にし、巨大な彫像や絵画などが舞台上に次々現れ、古代と現代とがない交ぜになったファンタジーがドラマティックに展開します。

 2022/2023シーズンのオペラ開幕公演は、「ジュリオ・チェーザレ」(「ジュリアス・シーザー」のイタリア語読み)。
 シーザー役をメゾソプラノのマリアンネ・ベアーテ・キーランドさんが、少年セスト役をなんとメゾソプラノの金子美香さんが、エジプトの王トロメーオをカウンターテナーの藤木大地さんが、それぞれ演じるというところがまず意表を突く。
 シーザーはなかなか格好良く、セストの動きも少年らしく敏捷だが、トロメーオは衣装のせいもあってなぜか和田アキ子にしか見えないという、ややシュールな情景が出現する。
 それだけでなく、今回の演出はそれ以外も奇抜である。
 舞台は、「博物館の倉庫」である。 
 演出家の意図は、「博物館の絵画や彫刻は、実在の人物に由来する表象物(ルプレザンタシオン)であり、人々の魂が自分たちの表象物の間を漂う」というもので、私はなかなか良いと思った。
 ところが、第一幕が終わると、ちょっとした事件が起きた。
 中央ブロック5列目付近から、結構大きな声が響いてきた。

 「あいつら(博物館の職員たち)は一体何なんだ?誰が演出したんだ?実に不愉快な演出だよな!

 座席の位置、見た目や発言内容からすると、この人物(年配の紳士)は、おそらく賛助会員(要するにスポンサー)ではないかと思われる。
 賛助会員には、(元)政治家、(元)高級官僚や財界の大物などが名を連ねているのだが、雰囲気や物腰からは、かなり社会的地位の高そうな人に見える。
 もしかすると、運営側には、スポンサーからこうした苦情が寄せられたのかもしれない。
 私見では、もともと「ジュリオ・チェーザレ」はパロディの要素を多く含んでいるわけだし、今回の演出は許容範囲内だと思う。
 許容しがたいのは、例えば、バイエルン州立歌劇場「タンホイザー」のカステルッチのような演出(バイエルン国立歌劇場「タンホイザー」、ペトレンコ指揮、カステルッチ演出)である。
 詳細は説明しないが、およそワーグナーの意図にそぐわないグロテスクな演出で、私などは「タンホイザー」のイメージを破壊されたように感じた。  
 これには、観客だけでなく、天国のワーグナー様もご立腹だろう。
 
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不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(4)

2022年10月10日 06時30分09秒 | Weblog
(引き続き「ガラスの動物園」のネタバレご注意)
 柴田先生が「自己の中の死」というときには、書かれてはいないけれども、ある思考を前提としている点が重要である。
 それは、西欧の伝統的な心身二元論であり、それに基づく「精神と身体の分離」という「死」の定義(ホメロスの「オデュッセイア」第11歌「ネキア」(【第11歌】冥界のオデュッセウスとテイレシアス)がその代表とされる)である。
(柴田先生は、あまりにも自明のこととして説明を省いたのかもしれないが、これが必ずしも自明でないことは、ニーチェやハイデガーを読んだことのある人なら分かるはずである。)
 心身二元論によれば、「死」は「精神(魂)」(animus)と 「身体」( corpus)の”完全な”分離と定義されるわけだが、”不完全な”分離もあるわけで、その例がエイハブとローラというわけである。
 かくして、柴田先生は、エイハブの状況を「自己の中の他者、自己の中にひそむ死」と表現したのだろう。
 エイハブとローラが抱える共通の問題は、脚(足)の物理的・機能的な喪失というものだが、エイハブの行動が「死」を招いてしまうのは、心身二元論に基づき、「自我」を「精神」と「身体」の統合されたものとして、更に言えば、「精神」が主人となって「身体」を支配している状態として捉えているからなのである。
 これに対し、ローラは、別の「死」の定義、すなわち「死」=「時間の停止」に基づき、「ガラスの動物園」という「仮の/一時的な死」の世界へと逃避しようとしたかのようだが、この試みは失敗に終わる。
 この定義だと、「時間が停止していない世界」=「他者」からの侵入が避けられず、ローラが自分の世界(「ガラスの動物園」)を守るためには、現実に自殺するしかないことになってしまうからである。
 かといって、エイハブのアプローチに望みがないことは、現在のプーチン大統領を見れば分かる。
 プーチンにとっての「脚(足)」(喪失した自己の一部=身体)は、ウクライナと考えられるからである。
 やや大袈裟な言い方かもしれないが、心身二元論は、身体を「棺桶」にしてしまう危険を孕んでおり、これから脱出しようとすると、大抵の場合、他者か、そうでなければ自分自身を傷つけてしまうのである。
 
海外招聘公演 ガラスの動物園 The Glass Menagerie
 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ「いっぽうにはジムの道があり、もういっぽうには、うまく定義できないけれど、別の存在の仕方、沈黙の可能性とでもいうものがあるかのようだと。後者は、たぶんローラの道です。・・・けれども、このローラの道は人々がそれをたどっていける道のひとつというわけにはいきませんーーー少なくともこの世では。」(公演パンフレットより)

 もし、エイハブかローラかの二者択一を迫られたとすれば、私は、躊躇なくローラを選ぶ。
 そして、イヴォ・ヴァン・ホーヴェに異を唱えて、「まだローラには希望がある。この世でも、彼女と同じ道をたどっていくことは出来る」と言ってみたい。
 少なくとも、その方が、エイハブ=プーチンになるよりはマシだろうから。
 
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不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(3)

2022年10月09日 06時30分20秒 | Weblog
(引き続き「ガラスの動物園」のネタバレご注意)
 私の推理は、「テネシー・ウィリアムズは、片脚=身体の一部を喪失したエイハブを参考にして、脚の障害によって身体性(の一部)を喪失したローラを創作した。しかも、単に参考にしたというのではなく、いわば”反転”させた」というものである。
 というのは、エイハブが、外側=「世界全体(whole)」=「モビー・ディック(whale)」へと、いわば”空間”に向けて自我を投影・拡張させようとしたのに対し、ローラは、内側=「ガラスの動物園」=停止した”時間”の世界へと自我を没入・縮減させようとしたからである。

アメリカン・ナルシス 新装版 メルヴィルからミルハウザーまで 柴田 元幸 著
 「絶対的に自己自身であろうとするこの強烈な意志は、世界を自己でおおいつくそうとする意志へと容易に展開していく。世界の縮図たるスペイン金貨(ダブルーン)を前にして、「揺るがぬ塔、あれはエイハブだ。噴火する山、あれもエイハブだ。雄々しい、少しも怯まず勝利者然とした雄鶏、あれもまたエイハブだ。すべてはエイハブなのだ。(99:1254)と言い切るエイハブは、自らの意志で船全体をおおいつくし、船乗りたちを「一人の人間」の手足に変容させる。私は私であるという思いが、私は世界であるという思いへ広がっていく。」(p17~18)

 柴田先生の表現からすぐに思いつくのは、「欲動とその運命」の中の、愛と憎しみに関するフロイトの言説(おやじとケモノと原初的な拒否)である。
 フロイトの図式(自我/主体=快感、外界=不快)を借用すれば、エイハブの行動は、「外界化された自己の身体(食いちぎられた片脚)をモビー・ディックに投影し、これを破壊することによって自我を回復しようとすること」と解釈することが出来るだろう。
 これに対し、ローラの行動は、「外界=他者=不快(異和)=(柴田先生の表現によれば)「自己の中の他者、自己の中にひそむ死」から隔絶された世界をつくり、そこに閉じこもること」という風に説明出来るだろう。
 ところが、エイハブはモビー・ディックによって悲惨な最期を遂げ(後味の悪い傑作)、ローラの心と「ガラスの動物園」のユニコーンはジムによって破壊された。
(念のため補足すると、(現実の世界には存在しない)ユニコーンの角が折れて、「角のないほかの馬たち」と同じ姿になった出来事は、ローラの自我が外界=他者から侵蝕されたことを示唆している。)
 つまり、空間的アプローチ=自我(Ich)の拡張(Erweiterung)も、時間的アプローチ=自我(Ich)の縮減(Reduzierung)も、結局は失敗してしまうのだ。
 しかも、私見では、こうなることは最初から予想出来たのである。
 
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不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(2)

2022年10月08日 06時30分27秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
ガラスの動物園 テネシー・ウィリアムズ/著 、小田島雄志/訳
 ローラ・ウィングフィールド「子供のときの病気のあと脚に障害が残り、片方の脚は他方よりやや短く添え木をあてているのである。この欠陥は舞台上では暗示以上に強調する必要はない。だがこれがもとで、ローラの孤立癖は次第につのり、ついには自分のガラス細工のコレクションの一個のように、飾り棚から動かすとこわれてしまいそうなほど、優美なまでにもろい存在になっている。」(p10~11)
(テネシー・ウィリアムズは)「・・・五歳のときわずらったジフテリアの後遺症が一年も続き、その間足が不自由になり、トムは内気で孤独な性格になっていった。このときの思い出がローラの一面に反映しているのかもしれない。」(p186)

 小田島先生の指摘はもちろん正しいと思うが、それだけでは足りない。
 アメリカ文学で「足(脚)」と言えば、絶対に想起しなければならない小説がある。
 それは、言うまでもなく、メルヴィルの「白鯨(モビー・ディック)」である。

アメリカン・ナルシス 新装版 メルヴィルからミルハウザーまで 柴田 元幸 著
 「・・・エイハブは、モビー・ディックに食いちぎられた片脚の代わりにつけた義足の使い心地の悪さを繰り返し訴え、それが体の自由な動きを妨げることをしばしば嘆くが、この義足はおそらく、死すべき存在としての自己自身への異和を象徴している。

 彼の生きた脚が甲板にそって生気ある音を響かせる一方で、彼の死んだ脚の立てる音、その一つひとつがまるで棺桶を打ちつける音のように聞こえた。生と死の上をこの老人は歩いていたのだ。(51:1042)

 ここで本物の脚は生と結びつけられ、義足は死と結びつけられて考えられている。「生きた脚」と「死んだ脚」の両方をもつことが、生と死との間にひき裂かれた人間という構図を浮き彫りにしている。自己の中の他者、自己の中にひそむ死、義足はそれをあらわにしている。義足の使い勝手が悪いことをエイハブがくりかえし嘆くのも、自己の中の他者に対する異和の表明なのだ。自己と自己自身との隔たりこそが怒りを生み絶望を生むのである。」(p18)

 柴田先生の見事な分析だが、テネシー・ウィリアムズは、ローラという登場人物を造型するに際し、自身の経験だけでなく、「白鯨(モビー・ディック)」のエイハブも参照したというのが、私の見立てである。
 
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不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(1)

2022年10月07日 06時30分12秒 | Weblog
海外招聘公演 ガラスの動物園 The Glass Menagerie
 「フランス、パリの国立オデオン劇場の協力のもと、2020年3月にオデオン劇場制作によりワールドプレミアを迎えたテネシー・ウィリアムズの代表作『ガラスの動物園』を招聘し日本初演します。・・・
 主演のアマンダ役にはフランスを代表する女優であり、映画、舞台と幅広く活躍するイザベル・ユペール、演出には、話題作を次々と発表し、今最も世界が注目する演出家、イヴォ・ヴァン・ホーヴェがあたります。


(以下ネタバレご注意!)
 私は、「ガラスの動物園」はテネシー・ウィリアムズの最高傑作だと思うし、「欲望という名の電車」よりこちらの方が好きである。
 珍しく中劇場での上演となったが、何よりイザベル・ユペールの演技力が圧倒的で、言葉の壁など感じさせない大迫力である。
(これと比べると、今年観た芝居の中では一番の出来といってよかった「M. バタフライ」の内野聖陽さんの熱演すら、気の毒だが霞んでしまうほどである。)
 ところで、原作とはまるで違った印象を与える芝居があるが、今回の「ガラスの動物園」はどうだろうか?
 私見では、演出者の腕が良く、作者の意図が十二分に表現されていると思う。
 私は、学生時代に原作を新潮文庫版(ガラスの動物園 テネシー・ウィリアムズ/著 、小田島雄志/訳)で読んで、「『女(母と姉)の世界』からのトムの脱出劇」という印象を受けたのだが、それは浅い理解であった。
 今回の演出を行ったイヴォ・ヴァン・ホーヴェの解釈では、母:アマンダは、「ノックアウトされたあとでも・・・灰から蘇る不死鳥(フェニックス)」であり、私が補足すると、第二次大戦後世界を席巻することになる「生活(力)至上主義」の化身である。
 これに対し、息子:トムと娘:ローラは、精神的にあるいは経済的に自立できない、いわゆる「アダルトチルドレン」であり、二人とも、アマンダの支配からの、あるいは、共依存関係にある「家族」という共同体からの脱出を図っている。
 弟のトムは、一家の稼ぎ頭であるが、無味乾燥な倉庫での仕事に嫌気がさし、毎晩街に出て現実から逃避している「詩人」である。
 彼は、街で「誰にも気づかれず、何の損害も与えずに、棺桶から抜け出す」マジックを見て、「外側への脱出」を夢見る。
 ここで「棺桶」が、アマンダないし家族のメタファーであることは明らかである。
 他方、足に障害を持つ姉のローラは、”劣等感”ゆえに「引き籠もり」状態に陥っている(彼女は、生活(力)至上主義者であるアマンダのネガのようでもある。)。
 彼女は、アマンダに内緒で高校を中退した後、毎日美術館に出かけたり、家でガラスの動物のコレクション=「ガラスの動物園」の手入れにいそしんだりして、時間をつぶしている(Mennagerie に相当する日本語がないので、「動物園」と訳されているが、これだと誤解を生むおそれがある:zoo と menagerie の違いとは?)。
 ローラは、トムとは反対に「内側への脱出」を図っているわけだが、「ガラスの動物園」は、「時間をまぬがれている純粋に幻想の世界」(イヴォ・ヴァン・ホーヴェの言葉)のメタファーなのである。
 ・・・こういう風に見ていくと、「トムを主人公とする、『女(母と姉)の世界』からの脱出劇」という、私のかつての理解がいかに浅薄なものであったかを思い知らされる。
 また、今回気付いたのは、主人公であるトムとローラは、神話の祖型の一つである「きょうだい神」がモデルであり、「脱出」は”世界創造”のメタファーであるという点である。
 小説を読むたびに新たな発見があることはよく分かっていたが、芝居もやはり同じなのだ。
 
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フュージョン?

2022年10月06日 06時30分34秒 | Weblog
サントリーホール ARKクラシックス 〔公演2〕 辻井伸行 ランチタイム・コンサート
 「カプースチン:8つの演奏会用エチュード Op. 40
  ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 Op. 35


 富士山河口湖ピアノフェスティバル2022が終わって約1週間、今度はサントリーホールでの演奏である。
 注目はニコライ・カプースチンのエチュードで、予備知識のない人が聴くと、ほぼ完全にジャズである。
 そういえば、辻井さんは、河口湖では山下洋輔さんと共演していた。
 山下さんとフュージョンしたかのようだ。

富士山河口湖ピアノ・フェスティバル2022会見レポート
 「特にジャズの巨匠・山下の出演について「ご一緒するのは初めてですが、何年か前にコンサートに伺って、素晴らしくて、すごいなとびっくりしました。今回、演奏を聴けるのを楽しみにしています」と期待を口にする。

 
 さて、今回は辻井さんから約5メートルの距離で演奏を聴くことが出来たので、新たな発見があった。
 辻井さんは、マルティン・ガルシア・ガルシアやアレクサンドル・カントロフのような「鼻歌派」ではないが、息遣いがかなり激しく、タッチも強い。
 やはりパワー系のピアニストと言ってよいようだ。
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「私」による「公」の僭奪(8)

2022年10月05日 06時30分36秒 | Weblog
 厚労省の予算について大きな影響力を持つ二人が、高校の(中学も?)同窓生であることは一応押さえておく必要があるかもしれない。
 というのも、政官界では、(主に首都圏の)高校の同窓人脈、いわば”高校閥”が形成されており、これが「外部勢力の援用」を助長する方向に作用している可能性があるからである。
 また、この観点からは、第二次安倍政権以降大きな権限を持つようになった、”官邸官僚”の役割も重要である。

岸田官邸の心臓部 8人の総理秘書官に迫る!
 「そして、岸田内閣で首席秘書官を務めるのが嶋田隆だ。
 東京の私立開成高校から東大工学部。昭和57年旧通産省入省。61歳。
 経産省の事務次官を務めた。次官経験者の秘書官起用は極めて異例だ。
 岸田は開成高校で2期上の先輩にあたる。在学中、面識はなかった。
 岸田と知り合ったのは、同じく開成の先輩である、香川俊介・元財務事務次官の誘いで出席した経済界も交えた食事会の席だという。


 首相と首席秘書官の出身高校(中学)のOB及びそのシンパによって構成される集団(これを「集団Z」という。)は、今や政官界を横断する重要なアクターになったと言える。
 そして、集団Zは、集団Yの枢要部を占めつつ、政界を含む外部勢力との連携・外部勢力の援用において重要な機能を営んでいるように見える。
 かくして、「X 対 Y&Z」という対立の構図が浮き上がってきたわけである(但し、集団Zは集団Xにも食い込んでいることに一応注意しておくべきだろう。)。
 さらに、集団Xは、税金というリソースに依存しており、しかも構成員の多くが典型的な「世襲貴族」なので、新階級社会での階級闘争において攻撃のターゲットとされることは目に見えている(第2ラウンドから第3ラウンドへ)。
 したがって、ここに「勝ち組」サラリーマン(及び一部の自営業者やマス・メディア等を含む)層ないしその支持政党が参入してくるのは確実である(というか、既に参入しているのだろう。)。
 こうした事情から、私は、基本的に集団Xの形勢は不利と見ているのだが、予断を許さない。
 さて、出発点に戻ると、樋口先生によれば、誰のものでもないはずの「公」がなぜか「私」(の集団)によって「僭奪」されてしまうことが、<日本という問題>なのだった。
 だが、集団Xや集団Zは、結局のところ「私」であって、「公」たりえないことは明らかである。
 また、集団Yも、(数十年来の傾向かもしれないが)集団Zなどに侵蝕され、不透明な内部集団が形成されているというのであれば、「誰のものでもない」という「公」であるための条件を欠くことになるだろう。
 ・・・などと書いているうちに、こんなニュース(岸田文雄氏長男が首相秘書官に 「人事活性化と連携強化のため」)が飛び込んできた。
 残念ながら、<日本という問題>は、当面解決する見込みがなさそうだ。
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「私」による「公」の僭奪(7)

2022年10月04日 06時30分46秒 | Weblog
 「新制度」の下では、医療費の「総枠」は閣議で決められることとなったが、政府予算案の決定において甚大な影響力を有しているのは、もちろん財務省である。
 なので、2007年の改革は、汚職を契機として、厚労省がいわば「外部」である財務省を援用したという見方も出来そうである。
 つまり、これも「『現状』を打破することを狙った外部勢力の援用」の一つのあらわれというわけである(それにしても、汚職が発覚するまで、誰も「旧制度」を変えることが出来なかったというのは怖いことである。)。
 こうした事情のため、森田先生が憤慨した、診療側委員による”退席事件”(2010年)の際、診療側委員らは「財務省、財政審」を明らさまに敵視していたのだ。
 この「財政審」(財政制度等審議会)は、中医協と同じく諮問機関であり、ゆえに同様の問題を抱えていることは言うまでもない。
 中医協のような汚職への誘因があるかどうかは不明だが、よく言われる役所の「隠れ蓑」という批判は妥当するようだ。
 例えば、歴代会長を見ると、政府寄りの財界人、又はゼミ生を沢山送り込んでいる学者のいずれかとなっている。
 このように、「新制度」発足に伴って利害対立の様相が変わってきたわけだが、ある意味では分かりやすくなった。
 つまり、それまで背後で動いていた相対立する「外部勢力」が、表舞台に出て来たように見える。
 その一つは、診療側委員の背後に控える集団=圧力団体(これを「集団X」という。)であり、もう一つは、政府側において実質的に予算を決定している集団(これを「集団Y」という。)である。
 そして、最近、”日本最強の圧力団体”とも呼ばれる集団X(もっとも、実際はXに匹敵する、あるいはXを上回る影響力を持つ団体が存在することが判明しつつある)は、Yにおける「キーパーソン」をほぼ特定したようである。

財務省の95年入省組
 「新型コロナウイルスの感染拡大などを受け、複雑化する国の医療関連予算を巡って、財務省の1995年(平成7年)入省同期にあたる2人のキーパーソンがいる。【本根 優】
 1人は大沢元一氏。菅義偉首相が官房長官だった時代から秘書官を務め、菅政権発足では、首相秘書官に引き上げられた。・・・
 もう1人は、開成高時代から秀才と呼ばれ、財務省内でも「10年に1人」と言われる逸材、一松旬氏。かつて奈良県副知事を務めた時代には「地域別診療報酬」の活用を企てたため、医療界では警戒されている人物だ。


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「私」による「公」の僭奪(6)

2022年10月03日 06時30分42秒 | Weblog
会議の政治学Ⅲ 中医協の実像 森田 朗
 「しばしばみられたのが、分科会の報告について、総会で、とくに診療側から、異論が出るケースである。その報告の方向が、診療側の利益に反するとき、診療側委員が、報告の問題点を指摘し、それを総会で承認することに反対した。専門家から構成されている分科会の場合、事務局の意向に沿った報告になりがちであることもあり、それをひっくり返そうとするのである。
 ・・・支払側・診療側で意見が分かれる問題について、その部会等で議論を戦わせ、ようやく合意をみた場合、部会等で自分たちの主張を結論に反映させることができなかった側の委員から、敗者復活戦が挑まれるのである。
」(p145~146)
 「・・・同意して判断を公益裁定に委ねたいもかかわらず、その結果が気に入らないときには席を立つ、という抗議行動があったことは、前述した。2010年の改定時の診療所の再診料の引き下げに関する公益裁定のあと、診療側の委員が、・・・「今回、診療所の再診料の引き下げに至ったのは、診療所の収益を減らそうとする財務省、財政審が元凶だ。」と述べて退席したケースである。
 ・・・抗議して退席するのは裁定そのものを否定することであり、たとえ責任は財務省にあるといったとしても、重大なルール違反、信義則違反と受け止めざるを得ない。
」(p155~156)

 引用したのは、中医協における診療側委員の言動に関する記述である。
 議論による決定を否定するに等しい、野蛮な振る舞いというほかないが、こういう人たちが40兆円を差配してきたわけだ。
 こうした言動は、「『現状』の維持又は打破を狙った外部勢力の援用」そのものではないけれども、診療側委員ないしその背後に控える集団が、目に見えないところで何を狙っているかを推知させるものである。
 それは、やはり「外部勢力の援用」にほかならず、かつて実際に行われていたことである。

 「かつては、診療報酬の決定において、日本医師会と政権幹部の大物政治家が密室で談合し、事務局の頭越しに決着させたこともあったそうだ・・・」(p69)

 「外部勢力の援用」が行き着いた先は、犯罪、すなわち日歯連事件だった。
 中医協を巡る贈収賄事件について(概要)をみると、支払側委員2名が買収されている点が注目される。
 前に指摘したように、支払側委員の中には、「どうせ他人の金」といった感覚の、当事者適格が怪しい人物も紛れ込んでいたのである。
 最近の五輪汚職もそうだが、「委員」の人選に問題のあるケースが後を絶たない。
 この事件を契機として、2007年に制度改革が行われ、その結果、改定率は閣議で決定され、診療報酬の基本方針は社会保障審議会の医療部会と医療保険部会で決定されることとなった。
 中医協の権限は大幅に縮小され、診療報酬のいわゆる「総枠」は外部で決定されるようになった。
 つまり、かつての公共事業予算と似た状況になったわけである。
 
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「私」による「公」の僭奪(5)

2022年10月02日 06時30分01秒 | Weblog
 「現状」の硬直化を招くのは、「族議員の力」などの外的な要因だけではない。
 システム内部の要因としては、情報の非対称性に起因する「専門性の壁」という問題が挙げられる。
 第一に、診療側の専門性という壁がある。
 例えば、薬剤の効能や原価などは素人にはおよそ分かりにくい事柄であるから、差し当たり診療側が開示する情報を基に判断を下さざるを得ないと考えられている。
 ところが、(支払側を含む)素人にはこの情報の信用性を判断することが難しいので、誤解や捏造などの余地が出てくるわけである。
 これは、医療過誤訴訟などで患者側弁護士がぶち当たる問題にも似ている(医療事故・医療過誤の裁判は何が難しいのか(医療訴訟の3つの壁))。
 第二に、行政の専門性という壁、よく使われる言葉で言うと「行政国家現象」の問題がある。
 複雑な医療制度全般についていちばん情報を有しているのはやはり行政(事務局)であるから、結局のところ行政が具体的な政策提言を行うしかないのだが、ここに外から見えにくいバイアス(族議員や業界団体からの圧力など)がかかり、既得権としての「現状」の硬直化を招く可能性がある。
 しかも、診療報酬の決定については「経済的インセンティヴ」の手法(診療報酬の点数及び算定要件の設定)がとられているところ、とりわけ点数の設定が複雑化してしまい、容易には変更できない状態が生じた。
 こうして「現状」という偽の均衡状態が硬直化してしまった。
 かつ、旧制度の下では、診療報酬の総額まで中医協が実質的に決めていたところ、高齢化に伴って医療費がどんどん膨張していったことは既に指摘したとおりである。
 それでは、医療費問題における「『現状』の維持又は打破を狙った外部勢力の援用」とはどういうものなのだろうか?
 これについては、中医協の公益委員と会長を務めていた森田朗先生の話が興味深い。
 
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