Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

エスVS.伝承(5)

2024年06月10日 06時30分00秒 | Weblog
 フロイト先生が援用した二つ目の概念は、「後天的に獲得された太古の遺産のなかの記憶痕跡の遺伝」である。

 「よくよく考えてみるに、われわれは長いあいだ、先祖によって体験された事柄に関する記憶痕跡の遺伝という事態は、直接的な伝達や実例による教育の影響がなくても、疑問の余地なく起こっているかのように見なしてきたと告白しなければならない。実際、ひとつの民族の古くからの伝承の存続について、あるいは民族特質の造型について語るとき、われわれが考えていたのは、たいていの場合、このような遺産としての伝承であって、情報伝達によって伝播した伝承などではなかったのだ。(中略)確かに、われわれの意見は、後天的に獲得された性質の子孫への遺伝に関して何事をも知ろうとしない生物学の現在の見解によって、通用しにくくなっている。しかし、それにもかかわらず、生物学の発展は後天的に獲得されたものの遺伝という要因を無視しては起こりえないという見解を、われわれは、控え目に考えても認めざるをえない。・・・
 以上のような論究に基づいて、私は一片の疑念も持たずに言明する。人間は、彼らがかつてひとりの原父をもち、そしてその原父を打ち殺してしまったということをーー独特の形でーー常に知っていたのだ、と。」(前掲「モーセと一神教」p169~171)

 「あ~あ、やっちゃった!」という感の強い、フロイト先生の勇み足である。
 何やらユングの「集合的無意識」にも似ているが、フロイト先生は、「先祖によって体験された記憶痕跡の遺伝」という説明を行った。
 だが、これが誤りであることは、高校レベルの生物学の知識があればすぐ分かる。

 「・・・なるほど、我々人類を含む生物には、未知のものに対する畏れ、というものが遺伝的に最初から組み込まれているのかもしれません。進化論的な立場から言えば、「畏れ」を抱かないものは、外敵に対して無防備だから自然淘汰されて残らない、だから今現存する生物の多くにはそのような特性が残っているんだ、ということなのでしょうか。
 ただ、この詩で犬が暗闇に向かって吠えているのは、自分の祖先の犬が怖い体験をしたことをその子孫である自分が覚えていて、その結果として暗闇の恐怖に向かって吠えている、ということです。
 これはつまり、祖先の体験が子孫へと遺伝して伝わっているってことです。私は、この考えは、フロイトと並んで有名な20世紀の心理学者のユングの考えに近いような気がしています。深層心理(無意識)が遺伝するとしたユングの心理学(彼は集合的無意識・普遍的無意識と呼んでいます)はなかなか魅力的で面白いのですが、「獲得形質は遺伝する」という、現代の生命科学では否定されている概念を内包しているために、我々生命科学者はあまり評価しないかもしれません。
(獲得形質というのは、生まれた後で経験などによって得られたその人の性質のことです。 例えば、もともと運動神経の悪い人が猛練習によって野球がうまくなっても、その後生まれたその人の子供が生まれつき野球がうまくなるかというと、そうではありません。 つまり、獲得形質は遺伝しない、というのが生命科学上の常識なのです。)

 「獲得形質は遺伝しない」というのは生命科学上の常識であり(但し、将来的に修正される可能性がゼロとは言い切れない)、これに照らせば、フロイト先生が援用した二つ目の概念は否定されるほかない。
 フロイト先生がこうした誤謬に陥ったのは、結局のところ、「自然」(エス)>「歴史」(伝承)という不等式をあくまで維持したいと考えたからだろう。
 仮にこれが崩れるようなことがあれば、「エス論」の土台が揺らぎかねないからである。
 だが、フロイト先生がどうしても「自然」(エス)を守りたかった、真の理由は、それだけにはとどまらないように思われる。
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エスVS.伝承(4)

2024年06月09日 06時30分00秒 | Weblog
 この”媒介”として援用された「超自我」だが、その内容に関するフロイト先生の説明には変遷が見られる。
 当初は、
 「エディプス・コンプレックス克服の過程で「禁止者」としての同性の親が、自我の中に取り入れられ、「超自我」が成立する
と説明されていた。
 つまり、自我に取り入れられた「父」(又は「母」)が超自我の正体とされていた。
 これが「続精神分析入門」になると、次のように変わる。

フロイト 著:小此木 啓吾
 「『続精神分析入門』では、「子どもの超自我は、本来両親を規範としてではなく、むしろ両親の超自我を規範として組み立てられる」、「それは伝統の担い手になる」と語り、「人類は決して現在にばかり生きてはいない。超自我のイデオロギーの中に過去が、種族および民族の伝統が生き続け、この伝統は現在の影響や新しい変化にはただ、徐々にしか譲歩しない」と語っている。」(p68)

 「父」(又は「母」)が、いつの間にか「両親の超自我」ないし「種族および民族の伝統」(のヴィークル)に変遷している。
 しかも、この時点では、「超自我」はエスの「代理人」たるにとどまらず、もはやエスの内部に入り込んでしまっていたようである(前掲「モーセと一神教」p245)。
 そして、エスには、「種族および民族の伝統」がビルトインされているらしい。
 ところが、他方において、フロイト先生は、このようにも述べる。

 (エスは)「混沌、沸き立つ興奮に充ちた釜、エスのなかへ沈められてしまった諸印象は潜在的には不死
 「エスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません、すなわち時の経過というものは承認されません。〔中略〕そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。」(前掲p238~239)

 エスには「種族および民族の伝統」がビルトインされているかのように見えるものの、歴史時間とは無関係でそれを超越している、つまり「超(非)歴史的なもの」だというのである。
 これは、一見すると矛盾のように思える。
 フロイト先生は、「自然」(エス)VS.「歴史」(伝承)の対立において、前者を優位に置く思考から外れることは一切ない。
 だが、そのためには、上述した矛盾を解決する必要がありそうだ。
 それでは、いったいどうやって解決したのだろうか?
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エスVS.伝承(3)

2024年06月08日 06時30分00秒 | Weblog
 ちくま学芸文庫版の「モーセと一神教」は、p229以下に翻訳者:渡辺哲夫先生による「解題」が付されており、これが実に親切で参考になる(本文を読む前にこちらを先に読むと良いかもしれない。)。
 渡辺先生によれば、フロイト先生は、人間精神を、非・特殊人間的かつ無意識的な生命の奔流(つまり「エス」)そのものとみなしており、それゆえ彼は「エス論者」と呼ばれるにふさわしい。
  しかも、この「エス論者」は、例えば、ユダヤ教やキリスト教の起源のような、一般には「歴史」の領域に属すると考えられている問題についても、「エス」によって説明出来ると考えている。
 いわば「エス一元論」である。

 「・・・このような確信が私が1912年に『トーテムとタブー』という本を書いたとき、つまり四半世紀も前にすでに得られているのであり、以来、確信の度は深まるばかりなのだ。宗教的な現象はわれわれに馴染み深い個人の神経症症状をモデルとしてのみ理解されうる、つまり、宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘却されてしまった重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる、そして、宗教現象はその強迫的特性をまさにこのような起源から得ているのであり、それゆえ、歴史的真実に則した宗教現象の内実の力がかくも強く働きかけてくるのだ、ということを私はその当時からもはや疑ったためしがない。」(前掲p102)

 なお、「エス」についてのフロイト先生の思考には変遷があるが、差し当たり、「エロスと『死の欲動』が闘争を繰り広げる(但し、最終的に勝利をおさめるのは『死の欲動』)場としての有機的欲動」と理解しておくとよい(p235)。
 「エス一元論」の反面として、「歴史的に思惟すること」、すなわち過去想起は、「無機物」への「退行」を実践する生命の流れへと近づいて行くことになるが、これを徹底させると、単なる「死への突進」ということになりそうである。
 なぜなら、「エス」の目標は、端的に言ってしまうと、「(エロスと闘いながら)最短距離で「死」に到達すること」だからである。
 さすがにこれではまずいと考えたのか、フロイト先生は、ここで2つの概念を援用する。
 一つ目は、「超自我」(「自我理想」と呼ぶこともある)である。
 
 『生物の法則と人間種族の運命がエスのうちに創り、伝えたものは、自我の理想形成によってうけつがれ、自我において個人的に体験される。自我理想は、その形成の歴史によって、個人のなかの系統発生的獲得物、古代の遺産ときわめてゆたかに結合している。個人の精神生活において、その最深の層に属していたものは、理想形成によって、われわれの価値概念からみて人間精神の最高のものになる。』(『自我とエス』井村恒郎訳)
 ・・・この文章では自我理想イコール超自我と解してよく、超自我は「エスの代理人として自我に対立する」のであるから、フロイトがエス論者であることに変わりはないけれども、死の欲動とエロスの闘争の舞台であるエスがかなり明るくなってきた。・・・
 宗教・神話・芸術を、超自我の、要するにエスの「形成の歴史」の所産と見なすフロイトにとって、「系統発生的獲得物、古代の遺産」は、歴史の根底にあるのではなく、自然人(ホモ・ナトゥーラ)の特権的所有物たる心的装置の産物、超自我を媒介として前進し続けるエスからの派生物に過ぎない。「最深の層」たるエスから生じる「人間精神の最高のもの」は、実のところ、人間精神の最表層の薄い皮膜の如きものに過ぎない、「古代の遺産」とて例外ではない。これがエス論の必然的帰結であり「科学的逆転」の実演である。」(前掲p236~237)
 
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エスVS.伝承(2)

2024年06月07日 06時30分00秒 | Weblog
 フロイト先生が指摘した「「原父」の殺害」というのは、こんなお話である。

 「私が物語ろうとする歴史は、あたかも一気に一回限り起こったかのように大変圧縮されて論じられるが、現実には幾千年にも及び、この長い時間のなかで数えきれないほど何度も繰り返されたのである。力の強い男性原人は群れ全体の主人であり父親であった。彼の力は無制約であって、彼はその力を暴力的に行使した。すべての女性原人は彼の所有物であり、自分の群れの妻たちも娘たちも、おそらくは他の群れから略奪されてきた女性原人たちも、ことごとく彼の所有物であった。息子たちの運命はひどいものであった。彼らが父親の嫉妬心を刺激してしまうと、彼らは打ち殺され、去勢され、あるいは追放された。息子たちは小さな共同体のなかで生活し、略奪によって自分の女性原人を手に入れるしかなかったが、そのなかの誰かが、もともとの群れのなかの父親が占めていたのと似た地位にまでのしあがることができた。・・・
 この最初期の「社会的」組織を変革するつぎの決定的な歩みは、追放されて集まって生活していた兄弟たちが皆で結託して父親を圧倒し打ち殺し、当時の習慣に従って父親を生のままで喰い尽くしてしまったという事実であったに相違あるまい。・・・むしろ本質的なのは、これら原人たちと同じ感情の動きかたを現代の未開人たち、すなわちわれわれの子供たちのなかに、分析的研究によって確認できるという事実である。つまり、子供たちは父親をただ単に憎んだり恐れたりしただけでなく、父親を理想的な模範として尊敬していたという事実。そして、どの子供も実際に父親の地位を占めようと欲していたという事実。このことから考えるならば、食人行為は、父親の一部を体内化することによって父親との同一化を確実なものにする試みとして理解されるだろう。」(p139~140)

 実は、これとほぼ同じ現象は、チンパンジーの世界でも見ることが出来る。

 「殺されたのは「フォウドウコ」と呼ばれる、ニシチンパンジー(Pan troglodytes verus)の雄だ。セネガル南東部のサバンナに位置する25平方キロほどのフォンゴリという地域で、2007年には30頭以上のの群れを率いていた。
 しかし、群れの中で反乱が起こり、フォウドウコはフォンゴリの外れに追いやられてしまった。そして、それから5年の後、かつての子分たちの手によって殺されてしまうのだ。原因は、交尾相手をめぐる争いと考えられている。

 フロイト先生の洞察には驚嘆するしかないが、チンパンジーの場合、殺害行為を行った雄たちだけではなく、雌たちもボスを食べる行為に参加するところが違っているかもしれない。
 ちなみに、私見では、漫画(アニメ)の「暗殺教室」も、「「原父」の殺害」がテーマだと考える。
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エスVS.伝承(1)

2024年06月06日 06時30分00秒 | Weblog
 もし自分が大学1年生に戻って、「法学入門」のような講義を受けるとしてみよう。
 その際、「法」について、最も分かりやすい説明があるとすれば、それはどのようなものになるだろうか?
 極めて大雑把であるし、不正確な点を含んでいるはずなので、お叱りを受けるかもしれないが、個人的には、次のように、法の「原点」についてズバリ説明してもらうとありがたかっただろうと思う。
① 民事法の原点:
 父が、男たちによる凌辱から娘の貞操を守るため、娘を聖化(殺害)する。
② 刑事法の原点:
 父が、姉(又は妹)を殺害したため処罰を受けそうになる息子を、「父である私が処罰し得たのにそうしなかったのは息子が正しいからである」と述べて弁護する。

 ①は言うまでもなく「ウェルギニア伝承」(ウェルギニアの物語)であり、②は余り有名ではないかもしれないが、「ホラティウス伝承」(ホラティウス三兄弟)である(奇しくも、①②とも「父」と「子」が登場する。)。
 18歳くらいの頃、こういう説明を受けていれば、その後の理解がスムーズに進んだのではないかと思うわけである。
 同じことは、宗教についても言えるように思う。
 フロイト先生は、キリスト教(但し、パウロの思想)の「原点」について、次のように説明する。

 「息子が、民族が父に対して犯した罪(原罪)を償うために、その命を犠牲に供する」(「モーセと一神教」ジークムント・フロイト 著 , 渡辺 哲夫 翻訳 p225~226)

 しかも、この「原点」には、いわゆる「「原父」の殺害」というショッキングな出来事が先行して存在したというのが、フロイト先生の解釈である。
 これは、「ウェルギニア伝承」にも、「ディアナ(ダイアナ)に捧げられるカミラ」 という「原画像」(「聖化」の画像)が存在すること、また、「ホラティウス伝承」にも、(枝分節集団において広くみられる)「父が、懲罰として息子の存在を消去(殺害)する」といういわば「原懲罰」が存在することとちょっと似ているように思う(もっとも、これらは、「「原父」の殺害」のような、歴史的・論理的に先行する出来事という位置づけではないのだけれど・・・)。


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憑依

2024年06月05日 06時30分00秒 | Weblog
バッハ:フランス組曲 第5番 ト長調 BWV816

ショパン:4つの即興曲
第1番 変イ長調 作品29
第2番 嬰へ長調 作品36
第3番 変ト長調 作品51
第4番 嬰ハ短調 作品66 《幻想即興曲》

ラフマニノフ:ヴォカリーズ 作品34-14(リチャードソン編)

ラフマニノフ:楽興の時 作品16
第1番 変ロ短調(アンダンティーノ)
第2番 変ホ短調(アレグレット)
第3番 ロ短調(アンダンテ・カンタービレ)
第4番 ホ短調(プレスト)
第5番 変ニ長調(アダージョ・ソステヌート)
第6番 ハ長調(マエストーソ)

 辻井さんの日本ソロツアーは、全公演でチケットは完売である。
 半年間にわたる長丁場で、今月は大詰めとなるが、今日も出だしから快調である。
 一つ一つの音の響きが清々しく、美しいのである。
 これは、ピアニストのコンディションが良いことを示している。
 さて、曲目について言えば、昨年はラフマニノフ生誕150周年だったので、それにちなんでラフマニノフの、しかも辻井さんが過去に弾いたことのない曲を意識して選択したということであった。
 「ヴォカリーズ」は、スコットランドの作曲家・ピアニストである Alan Richardson の編曲だが、まあ、何と難しい曲にしたこと!
 続く「楽興の時」全6曲も、おそらく最高難度の曲ばかりである。
 これをずっと正確に弾くピアニストは超人的だと思う。
 パフォーマンスの素晴らしさに気分が良くなったのか、辻井さんはアンコールを3曲も弾いてくれた(なので、終演が予定より30分(!)ほど遅くなった)。
 1曲目は、定番と化した感のあるショパン:ノクターン第20番「遺作」で、これは日を追うごとに出来栄えが良くなっている印象である。
 2曲目は、演奏機会の少ない曲で、ベートーヴェン(リスト編曲)「遥かな恋人に」で、リストらしい派手な編曲である。
 さて、アンコール3曲目で、大事件が起きた。
 辻井さんは、椅子に座るや否や、何者かが憑依したかのように、他のピアニスト(最近このホールで弾いたブルース・リウや亀井聖矢)の1.5倍速ほどの物凄いスピードで、しかも、ピアノを叩き壊さんばかりの山下洋輔氏以上のヴォルテージで、リスト:ラ・カンパネラを弾き始めたのである。
 私も辻井さんのコンサートは相当数足を運んでいるが、今まで見た中では間違いなく一番激しい演奏ぶりである。
 途中からもう音を追うのも諦めてしまいたくなるような超スピードで、湯気が立ちそうな激しいタッチが続く。
 演奏終了後は、もちろんブラボーの嵐だったが、試合を終えた格闘技選手のような辻井さんの姿が印象的だった。
 こういうのがあるから、コンサート通いはやめられないのである。
 
  
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音がおちる、音がのぼる

2024年06月04日 06時30分00秒 | Weblog
曲目・演目
ピアソラ(アグリ編曲):アディオス・ノニーノ変奏曲
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調
プロコフィエフ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ長調 op.115
ブロッホ:無伴奏ヴァイオリン組曲第2番
イザイ:2つのヴァイオリンのためのソナタ

 「そり込みを入れた短髪に色つきレンズの眼鏡。硬派な外見からは想像もつかない優雅な音色を響かせる異色のバイオリニスト、石田泰尚さん。クラシックからロックまで幅広いレパートリーを弾きこなし、オーケストラ、アンサンブル、ソロと縦横無尽に活躍する演奏家の内に秘めた思いとは――?

 地元神奈川では絶大な人気を誇るヴァイオリニスト:石田泰尚さんのコンサート。
 見た目も歩き方も話し方も”反社”そのものだが、れっきとしたヴァイオリニストである。
 セット券が販売されていたのだが、日程が平日の夜ばかりなので買い控えていたところ、1回券発売時点ではほぼ売り切れで、唯一買えたのがこの日の券(舞台後方の2階席)だった。
 「無伴奏」、かつ高難度の曲ばかりで、石田さんも正直に「疲れた」とおっしゃっていたが、私はブロッホという掘り出し物を手に入れて、十分満足である。
 それだけでなく、今日は新たな発見があった。
 ヴァイオリンのコンサートの場合、舞台後方の席でも大きな不利はないということである。
 私が行くのは、オーケストラかオペラかピアノ・リサイタルが多いので、やたらと席の位置を気にする習性がついているのだが、ヴァイオリンの場合、そんなに気を使わなくてよいのである。
 この理由を考えてみたが、素人考えでは、ヴァイオリンの音は、同心円状かつ上に向かう性質があるためではないかと思う(間違っていたらすいません)。
 しかも、ミューザ川崎は球形の構造なので、席による有利/不利の差が出にくいのではないかと推測する。
 これに対し、(グランド)ピアノの場合、音は基本的に上下方向に出る(ピアノの音の伝わり方と防音対策)。
 コンサートでは、このうちの上に向かう音を反響板が捉え、観客席の方向、つまり横ないし斜め下方向に反射させるわけである。
 また、下に向かう音は、主に最前列中央付近に届くということになる。
 なので、ピアノ・コンサートで最も音が大きく聴こえる席は、最前列中央・やや右寄りということになる(これは私が何回か実験して得た結果であり、おそらく確実だと思う。)。
 何が言いたいかというと、ピアノの場合、音が横ないし下に向かう(大雑把に言うと、音が「おちる)のに対し、ヴァイオリンの場合、音は上に向かう(つまり、「のぼる」)ということである。
 こういう性質を押さえておくと、ピアノの「弾き振り」のコンサート(半響板を使用しないので、基本的に音は上に向かう)では、舞台後方・2階席最前列中央付近がいちばん有利な席であることが分かるのである。
 
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お家横領からお家消滅へ

2024年06月03日 06時30分00秒 | Weblog
 「立憲の寺田学代議士に『(キックバックが)復活したのは5人衆がいて、5人衆のバックに森さんがいて、森元総理の時に始めた話だから、そういう形(復活)にしたんじゃないの?』というようなことを言われました。多分、その通りでしょう。その通りでしょうけど、もし国会でそんなことを言ったら、それはもう大騒ぎになりますから。私の知らないところで決まったことに対して、無責任な話になりますから。だから、そうは言えなかった。こういうところ(若手博文会)では言えますけどね

 「自民党安倍派の政治資金パーティー裏金事件で、2022年4月に中止が決まった所属議員側への資金還流について、当時会長代理だった下村博文元政調会長が事務局長に複数回再開を要求したと、派閥関係者が東京地検特捜部の事情聴取に供述していたことが1日、分かった。

 しばらく前まで、永田町の自民座では、「清和伝授金習鑑」(せいわでんじゅかねならいかがみ)が上演されていた(3月のポトラッチ・カウント(5))。
 これは、大雑把に言うと、「親分を守るために子分が犠牲になる」というお話である。
 だが、最近では、別の演目が上演されるようになったようだ。
 今度の演目は、題名は分からないが、どうやら「お家横領」がテーマのようである。
 近いのは、「加々見山旧錦絵」ではないだろうか?

 「お屋敷の大姫に仕える御殿女中たちは、若く誠実な中老の尾上と、古株のお局(つぼね)の岩藤との二派に分かれている。謀反をたくらむ岩藤は、大姫に目を掛けられる尾上に嫉妬して辛く当たるが、尾上の召使いのお初が主人をかばう。名高いお家騒動の加賀騒動と「草履打(ぞうりうち)」事件を脚色した、時代劇「大奥」ものの原点。

 つまり、加賀家=清和会、尾上=H生D氏、岩藤=S村氏、大姫=M元首相、お初=派閥関係者、と言う風に見立てるのである(但し、尾上が後に自害するというストーリーは変更)。
 そうすると、一連の騒動は、子なくして突然亡くなった太守の跡目を巡る「お家横領」の物語であったことが分かる。
 もっとも、このお家自体が解散してなくなってしまうというのは、歌舞伎では考えられない話だろう。

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個人的な問題

2024年06月02日 06時30分00秒 | Weblog
  「世界中のオペラハウスで今や引く手あまたの演出家ミキエレットを招いて11年5月に初演したこのプロダクションは、現代のキャンプ場へ舞台を移した斬新な演出ながら、的を射た展開で観客の心を掴み、「キャンピング・コジ」と大きな話題となりました。巨木が立ち並び苔の薫りまで漂うような深遠な森を背景に、現代性と遊び心いっぱいの色彩豊かな衣裳や小道具が目に飛び込んでくる、徹底してリアルな舞台美術も大きな見どころです。

 Camping Alfonso(アルフォンソキャンプ場)が舞台という、相当”攻めた”演出だが、これは大成功と言って良い。
 観る者にワクワク感を与えてくれるからである。
 バックステージ・ツアー(この映像は前編)も、おそらく大人気だろう。
 さて、私は、この演目のテーマは「交換不可能性の罠」だと思っていた。
 だが、どうやらそれだけではないらしい。
 この演目には、モーツァルトの個人的な問題が練り込まれているようなのだ。

 「それにしても、モーツァルトはなぜ「フェイクなひとときの関係にこそ、愛の本質がひそんでいる」という真理を知っていたのであろうか。35歳という若さで世を去ったモーツァルトにはコンツタンツェという妻がいたが、彼自身は若い頃、実はその姉アロイジアに夢中だったと言われている。しかし、その後、ふたたび姉妹に再会したときにはアロイジアは既婚者だったので、モーツァルトはコンスタンツェと結婚。なんと彼自身が、取り替えの結婚を経験したようなのだ。多くのモーツァルトの評伝や研究書ではコンスタンツェは愛情深くない悪妻として描かれているが、もし夫が自分を通して常に姉の姿を求めていたと知っていたとしたら、彼女も相当に不幸だったのではないだろうか。」(「愛があるのに、別の恋を求めてしまうのはなぜ?」香山リカ氏:公演パンフレットより)
 
 なんと、モーツァルト自身が、「妻をその姉と交換したい」という願望を抱いていたというわけである。
 そう言えば、川端康成の「山の音」の主人公:尾形信吾も、妻の姉に憧れて妻と結婚したようなものであり、モーツァルトと境遇が似ている。
 こうしたケースでは、言うまでもなく、奥さんが気の毒だし、なかなか円満というわけにはいかないだろう。
 奥さんは「手段」として利用されているのだから。


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ノン・ネイティヴ泣かせ

2024年06月01日 06時30分00秒 | Weblog
<ボードレール>
ドビュッシー:ボードレールの5つの詩
 バルコニー
 夕べの調べ
 噴水
 瞑想
 恋人たちの死
 
ドビュッシー:前奏曲集 第1巻より 第4曲「音と香りは夕暮れの大気に漂う(ピアノ・ソロ)
 
<ヴェルレーヌ>
フォーレ:優しき歌 Op.61
 後光を背負った聖女様
 朝焼けが広がるのだから
 白い月
 ぼくは正しくない道を歩いていた
 ぼくはほとんど怯えていた、実のところ
 お前が消えてしまう前に
 さて、それはある晴れた夏の日のことだ
 ね、そうでしょう?
 冬は終わって
 
ラヴェル:古風なメヌエット(ピアノ・ソロ)
 
<マラルメ>
ラヴェル:ステファーヌ・マラルメの3つの詩
 ため息
 ささやかな願い
 臀部より出でて、ひと跳びで

 なかなか良さげな選曲。
 公演前にもらったパンフレットの原詩のところを一通り読んで、最初の曲が始まるのを待った。
 すると・・・。
 何と、殆ど一つも単語が聴き取れない。
 フランス語はそれなりの時間をかけて勉強したつもりだし(ディクテも毎日やっていた時期がある)、2月にはフランス語のオペラ「美しきエレーヌ」を聴いている(理解されぬエレーヌ(1))。
 しかも、事前に原詩を一読しているというのに、まるでリスニング不能である。
 こういう状態が、前半の間じゅう続いたので、ちょっとした不安を感じてしまう。
 ラストのマラルメの詩になって、ようやくほぼ単語が聴き取れるようになったが、何だかキツネにつままれたような気分である。
 ちょっと心配になったので、家に帰ってから、しばらく前に購入していた「フランスの詩と歌の愉しみ」の、今日聴いたばかりの2曲:

・夕暮れの諧調
・白い月

をCDで聴いてみた。
 すると・・・。
 実は、このCDも歌手は全員ノン・ネイティヴなのだが、単語が聴き取れないということはなかった。
 もちろん、イヤフォンで聴くからということもあるが、発音がほぼネイティヴ並みに正確だからである。
 あくまで私見だが、ポイントは、まずは子音の”r”、次いで鼻母音(on [ɔ̃] / an / en [ɑ̃] / in [ɛ̃])、そして母音の”œ ”だろう。
 例えば、この歌手(Claude Debussy : Cinq Poèmes de Baudelaire - II. Harmonie du soir)はフランス系ドイツ人だが、口のかたちがネイティヴの発音法をよく示していると思う。
 それと、「白い月」について言うと、声量に自身のある歌手が声を張り上げて歌うと、フランス語の美しさが減殺されてしまうと思う。
 そういう意味では、(イギリス人、しかも男性ではあるが)イアン・ボストリッジの歌い方(Ian Bostridge - La lune blanche luit dans le bois (Faure))は素晴らしい。
 ・・・まあ、いずれにせよ、ドビュッシーとフォーレは、「ノン・ネイティヴ泣かせの付曲をしてくれたなあ」という印象である。
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