パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

モーツァルト・北欧音楽・ベートーヴェン(宗次ホールで連想の旅)

2018年06月10日 14時06分22秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

以前は何も考えずに、ぼーっとしてることが得意だった
特に電車に乗っている場合などは、車窓から流れる景色を見ていると
過去のこと、季節のこと、景色から見える人々の生活や
今取り組むべきことなどが頭に浮かんでは消え、知らぬ間に目的地に着いてしまう
ということは珍しくなかった

東北新幹線で東京から新青森駅まで向かった時、それでも退屈するだろうからと
本を持参したが、結局本は読まずに景色をぼーっと見てるだけで、
それでいて何かしら密度の濃い時間を過ごせたような気がしたものだった

音楽を聞いている時も、最近はそれに触発される徒然なる思いに身を任すことが多くなっている
いや音楽を楽しむ事自体が、そうした思いつきを楽しむためのようなところさえある
まして最近は、レコードやCDの解説書を読むのが面倒になって(字が小さいので)
直接耳から入って頭の中で起きていることこそが大事で、前もっての情報や知識はむしろ余分なもの
とさえ思うことがある(半分以上は面倒だから手抜きしてるのが本当のところだが)

音楽を聞きている時(特にクラシック音楽)耳にしているのは、ある演奏家が解釈し再現した音楽なのだが
勝手に頭の中に浮かぶことは、演奏の質とか他の演奏家との違いと言うより、どちらかと言えば作曲家の思いとかを
想像することが多い

昨日6月9日、宗次ホールにでかけた
この日はモーツァルト・ベートヴェン他の弦楽四重奏曲のプログラムで、メンバーはデンマーク弦楽四重奏団

情報通でないのでこのメンバーがどのくらいの水準かどうかは知らない
そんなことはあまり気にならなかったのは少しばかりプログラムが魅力的だったから

モーツァルトのハイドン・セットの中の一曲と、ベートーヴェンの後期の作品132のイ短調の音楽ほか
ベートーヴェンののは第三楽章がリディア旋法による印象的な宗教的な感じがするし
最終楽章は第9交響曲の4楽章が合唱でないならば使われ可能性があったメロディの曲

最初はモーツァルトで耳慣らし
でもちょっと失敗した
最近名古屋に来ると大名古屋ビルヂングの「ビール博物館」という世界各国のビールが飲める場所に立ち寄って
軽く飲んでしまう
昼の2時からの演奏会ということで、眠くなると心配しつつも昨日も飲んでしまった

最初は確かに聴いていた
聞き慣れた狩りのテーマのような音楽
モーツァルトはさり気なく書いているようでも、よく聞くとちょこっとした変化とか音楽上のアイデアが
幾つも感じられて面白いのだが、確かに最初はそんなふうに聴いていた
同じことは単純に繰り返さないのがモーツァルトだな、、などと
でも気がつくと音楽はいつの間にか第三楽章になっていた(時々確かに聴いているという意識はあったのだが)
この楽章は中間部に短調に傾く部分があって、それがとても切ないのだが、それに浸るということはまったくなくて
ほんの僅かな時間で元のトーンに戻る
この瞬間はモーツァルトらしい、、と思ったりするが、、後は夢の中か現実の中か、、いい気持ち


モーツアルトのあとは「北欧伝統音楽集」から
メンバーの一人が演奏の前に英語で演奏する曲の紹介をする
伝統的な美しいメロディ、ダンス音楽も、、、、
英語は部分部分しか聞き取れない  まずは聴いてみよう

これがなかなか面白かった
冒頭の音楽を聞いて急に頭の中に浮かんだのは、映画の「マクベス」の冒頭の三人の魔女が出てきたシーン
光の乏しい荒涼とした北国、草も緑というより冬の佇まい、、そこで聞こえる音楽は、確かに北欧を感じさせるような、、
すると連想は勝手気ままに羽ばたく、音楽がテンポをあげて様々な変化をしだすと不意に今度は
ショスタコーヴィッチやアルヴォ・ペルトも精神的にはこの様な北欧のメンタリティとか音楽的特徴を持っているのではないかと
そしてそれは何故か間違いのないことのような気がした
(こうした勝手気ままな連想が楽しい)
ということで、思いの外退屈せずに聴き終えられ、次の大曲に向かう準備はできた

ベートーヴェンの作品132番、イ短調のこの作品、実演で聴くのは2回目だ
一回目は義理の兄のおごりだったと思うが「イタリア弦楽四重奏団」の演奏会で
この曲がメインだったにもかかわらず、その前に演奏されたモーツァルトのK136の音楽が素晴らしくて
生き生きとしてしかも屈託なくて、印象はそちらの方しか残らなかった
だが、この曲を聴いたという記憶だけは残っている

後期の作品らしく、中期のような押しつけがましさはそんなに無い
第一楽章は寂寥感を感じさせる短いモティーフ
それに楽器を替えて歌われる美しい第二主題
この楽器間の受け渡し、音色変化が録音媒体ではよくわからないが、目の前で見てると
それだけではなく、メンバー全員の気合も感じ取れて圧倒される
日本的には歳を取ると「枯れる」という感じが評価されそうだが、ベートーヴェンの場合はそんなことはない
あくまでもトータルで構成的、起承転結のような趣は何時まで経っても変わらない
第三楽章のリディア旋法の印象的な音楽は、息も絶え絶え、、みたいな祈り
(ブルックナーのような神の賛美ではなく人としての祈り)
このあたりから(聴く方も)ノッてきたせいで音楽は聴いているのか体験してるのかわからない感じとなってくる
そしてフトこの作品が作曲されたのは約200年前
その作品を若い人たちが演奏して、それを聴いてる自分たちがそれなりに感動してるということは
一体どういうことなんだろうと考えてしまった
偉大な芸術は時を超える、、とかそういう定番の答えではなく、なんで人の心に訴えるんだろう、、と
答えのないような、どうでもいいような、、思いが頭の中を駆け巡る
そしてその連想に浸ること自体の充実感、、

ということで、昨日の勝手な連想の旅に出かけるのは上手くいった
だが帰りの電車の中はスマホでSNSをチェックで時間つぶし、
もっと余韻に浸るべきだった、、と今にして思ったりする
(もったいなかったかな)


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ラ・フォル・ジュルネ(5月4日に聴いたプログラムの感想)

2018年05月06日 10時15分18秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

5月4日は3つの公演を聴くつもりだった
しかし、ネット予約で会場が池袋のをどういう訳か選んでしまったせいで
有楽町と池袋の往復などでは時間的に2番目のプログラムを聴くのができず
諦めてそのチケットは池袋に行って、チケットを求めている人にあげて
チケットが無駄になるのを避けた

前日の後半から集中して聴ける態勢になりつつあったが心配事があった
というのは、夜型人間ではない自分は普段床に入っている時間に
ホテルを目指して歩き回っていたからで、結局寝たのは12時過ぎ
おまけにあまり良く眠れなかったので演奏中眠くなるのでは、、というのがそれだ

朝早く聴いたのがこのプログラム

今回のラ・フォル・ジュルネの演奏会、購入したプログラムの演奏家はみんな知らない
評判の演奏家か、これから勢いが出る人なのか、それとも演奏活動始めたばかりの人なのか、、
良く言えば偏見なしに聴ける状態で臨めるわけだ
最初のマズルカの音を聴いてまず驚き気づいたのはピアノのタッチ(打弦)の強靭なことで
この人はロシア系の演奏家に違いない、ロシアのピアニストの音だと感じた
(プログラムの冊子の演奏家の説明は読んでなかった)
強靭なタッチはまるでピアノを壊すのではないか、、とさえ思うようなことになったが
昔名古屋で聞いたアシュケナージのピアノもそんな風に感じたのを思い出した
彼らはピアノと仲良く戯れると言うよりは力づくで音を鳴らしきる感じ
音が沢山重ねって盛り上がるところは全部が全部きれいに鳴り切っているかと言えば
少しばかり力任せで濁ってる(?)ようなところもあった印象
ただどういう訳か、この人の演奏で感じられる感情の濃さはドストエフスキーの小説の登場人物の
生命力に通じるものがある、これがスラブの血なのか、、とも勝手に連想
ところでピアノの音色は個人的にはロシア系は少し苦手な感じ
この人アンドレイ・コロベイニコフは、もしかしたらベートーヴェンの32番のような曲は
演奏しないのではないか、、とも根拠のない連想が浮かんだ
ピアニストはショパンを弾く人とそれ以外の人と言われるようだが、この人はショパンを弾くタイプなのだろうと想像した
プログラムで案外面白かったのはラフマニノフのコレルリの主題による変奏曲
多彩なピアノの音色を駆使してロマン的な世界を作り出している
しかし、途中から長い曲だな、、との少し飽きる感じも、、
そこで改めて感じたのはベートーヴェンの一曲をまとめる力の凄いという事実
この曲の終わり方はどんなふうなのだろうか、、と興味が湧いたがなかなか終わらず
思いのほか中間部ほどの充実感はない終わり方、、
しかし、何よりもピアノのタッチが強靭だったという印象は後々まで残るだろう

この日2番目のプログラムは

大好きなモーツアルトをメインとしたプログラム
ドン・ジョヴァンニの序曲が始まるやいなや
あれっ、との思いが
最初の音の低弦があまり良く聞こえない
席のせいなのか(前から5番目)演奏のせいなのか、どっちなんだろう
オーケストラは3日のエロイカと同じで指揮者が違うがどうもオーケストラの音が違う
エロイカのジュリアン・ラクリンの方が今回のラルス・フォークトよりもとんがった音色
自分の好みとしては音楽をより楽しめるこちらの方が好きな感じ
メインの「プラハ」は39.40.41番の交響曲よりも好きと感じる時がある
変化に富んだ音楽でリズムの生き生きとしていること
楽器間の受け渡し、会話、モーツアルトの音楽的アイデアがいたるところで聴き取れて本当に楽しい
でも心配した睡魔が、、、

ということで今年のラ・フォル・ジュルネは終了
音楽を聴くのには体調や聞く態度の慣れも必要なんだと改めて感じる次第
しかし、これらの印象は何年後どのくらい覚えているだろうか
(覚えていそうなのは、冬の旅のピアノ演奏が良かったことと、
 アンドレイ・コロベイニコフのタッチの強靭だった印象かな、、)

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ラ・フォル・ジュルネ(5月3日に聴いたプログラム感想)

2018年05月05日 09時10分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

何年か経過した後、何を覚えているか、、その時感じたことがそのまま記憶に残っているか、、
年齢のせいもあって、なかなか自信のない事柄だが、とりあえずせっかくお金と時間をかけて
東京まで出かけたのだから、忘れないうちに備忘録として残すことにしよう

一冊の本を読んで2.3箇所覚えていれば、それで良しとの話があるが、この考え方はとても安心できる
昨日一昨日の出来事も、結局は2.3の記憶しか残らないかもしれないかもしれない
でも、それはそれで仕方ない

一昨日、昨日とラ・フォル・ジュルネ2018に出かけた
幾つかの会場に分かれていたが自分が出かけたのは東京国際フォーラムで行われた方
一昨日の3日は4公演、昨日の4日は2公演(ちょっとした手違いで1公演は聴けなくなってしまった)
約一時間以内の演奏会で料金も抑え気味のこの催し、ネットで予約して気になるプログラムを選んだ
選ぶのは演奏される曲、プログラム主体で演奏家の良し悪しではなかった
というより、最近は以前のようにレコード芸術のような本は読んでいないので、演奏家等の情報がほとんど頭の中にない
演奏家の情報がないので演奏の聴き比べと言うより曲そのもの、どのような思いのこもった曲なのか、、
と言った方面に関心がいく

最初に聴いたのは

ベートーヴェンの英雄(エロイカ)がメインのプログラム
この曲はラ・フォル・ジュルネの一番最初の年、テーマがベートーヴェンの時
やはり一番最初に聴いた曲だ
その時聴いて覚えている感情は「これを作曲し終わった時のベートーヴェンは嬉しかっただろうな」
という妙な思い
野心に満ちた作品を力づく、奔放な想像力で見事に作り上げた達成感はどんなものだったろうと
いかばかりのものだったのか、、と思っりした
さて今回の演奏、まず気になったのはテンポが速かった
1時間以内で2つのプログラムとなれば、それは予想されたが、想像以上に速かった
最近はこのくらいの演奏が多いのかどうかは知らない
その他で気になったことは管楽器の音が目立った
そんなに大きくない編成のせいなのかどうかはわからないが、普段よりもフルート・オーボエがよく耳に入った
それとティンパニの音  これもまるで音程楽器のようにメロディの一部のように、しかも乾いた音で大活躍
体全体で指揮する若い指揮者で、若さが要求するテンポとか音色感なんだろうか、、
でも少し残念なのは音楽よりは記憶に残っているのはこうした些細な事柄、、まだ聴く態勢ができていなかったのか

二番目は

ピアノの夜想曲をテーマとしたプログラム
夜想曲の元祖といわれるフィールドとショパンの予想曲を交互に並べたもの
この時間帯のプログラムはやばかった
合間の時間に昼ごはんとビールをネオ屋台村でお腹に入れたものだから眠くて眠くて、、
最初のフィールドを聴いてショパンを聴いて、、、
フィールドは叙情的な面もわかるが、名を残した作曲家と比べて尖る才能にかけるような普通の印象
ショパンのほうがセンスが良いというか、どこかちょっと違う感じ
でも、眠くて、、よく覚えていない(ほんと失敗、、でも良いか、こういう楽しみ方も)

三番目は、大好きなモーツァルト

一番の楽しみはK304
その第2楽章のさらっと流れていく悲しみ、、その美しさ、、これがどんな風に演奏されるか
そこは聞き逃すまい、、と思っていた
この曲は第一楽章からヴァイオリニストは気合が入っていたように感じた
細めの小柄な女性で、音色も豊かな方ではない
でも気持ちと言うか情熱というか、、どこか熱いものがヴァイオリン・ソナタはピアノとヴァイオリンとの
対話とか競争なのだとも感じる瞬間があった
ヴァイオリニストは曲に沿ってとても自然にまるで踊るように身体を動かし
場所を移動して、ピアノとの対話を繰り返す
その瞬間、、モーツァルトはいいなあ、、といつもの感覚が頭をよぎる
そして2楽章の冒頭、、モーツアルトの母がなくなった時に作曲されたということを
フト連想させる淋しい、美しい瞬間、、そこには思わずわかっていても涙が出そうな自分がいた

一日目最後は冬の旅

開演前にネオ屋台村での時間つぶしでお話した女性が、この歌手はイケメンで
女性は楽しみにしてると思う、、などと言われたものだから
始まる時は興味半分にご尊顔をちょっと注意して見てしまった

一曲目の「おやすみ」が始まるとピアノが心地よい
これこそは高校時代に音楽の時間に教師が演奏したのを思い起こさせる
宗次ホールで聴いた冬の旅は高橋悠治のピアノでとんがって違和感があったが
今回は本当に曲の流れとか歌詞、雰囲気に沿って、まるでシューマンやヴォルフの曲の
伴奏みたいに雄弁に、しかも出しゃばらず心地よかった
で歌手の方はと言えば、何よりも驚いたのは声量 声の大きさ
ドイツリート、しかも失恋のせいでの冬にさまよう男の絶望に満ちた内容というのに
この元気は馬力のある歌は、、ちょいと驚いた
この主人公の悩みは、いつか時とともに忘れられる一過性のもの、、
しかし確かに生きている若者の肉体的な苦痛を伴う悩み、、みたいなものが感じられた
短調の多い曲の中で「菩提樹」とか「春の夢」などはホッとさせる安らぎを感じさせる、
そして中間部は声の音色を変えて、、レコードのフィッシャー=ディースカウもこんな風にやってたな
とつい思い出した
でもこの「冬の旅」は伴奏のピアニストがとても気に入った

ということで、自分にとっての一日目終了
聞く耳になるのは少しばかり慣れが必要だったのかもしれない
後半は前半よりも集中できた気がする





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このタイミングでの「ペンタゴン・ペーパーズ」

2018年04月01日 17時49分06秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「ペンタゴン・ペーパーズ」を見に行った
この映画を見に行った人は、この一月の間に日本で起きた朝日新聞がスクープした
森友学園の公文書改ざん事件をつい連想してしまうだろう
当然ながら自分もその1人だ

日本の事件は、朝日新聞が森友学園との決裁文書が改ざんされていることを確認したとスクープした件で
この記事の内容が本当のものか、フェイクなのか疑問に思うのは当然で
朝日新聞の証拠は見せずに「確認した」の表現が憶測を生んだ
仮にこのニュースが真実であったとしても、これはおそらく内部告発によるもので
その場合は国家公務員の守秘義務に違反する、国家に損害を与えるなどのややこしい問題もは発生し
簡単には収まらないことも予想された

この映画も状況はそっくりだ
アメリカ国防総省(ペンタゴン)は泥沼化したベトナム戦争の詳細で客観的な文書を作成していた
その内容は、公にされているものとはまったく違っており衝撃的なものであったが
ある人物が文書をコピーしメディアに届けた(ニューヨークタイムス)

このネタと同じものが映画の舞台となっているワシントン・ポストも手にすることになったが
これをスクープとして扱って良いかどうか、、を悩むことになる
それは冒頭にあげた朝日新聞の例と同じく、国家秘密を暴露することは国家に損を与えることで
司法から違法との判断を受ければ新聞社の存在は保証されず、そこで働く人たちも路頭に迷うことになる

ワシントン・ポストは地方新聞で経営も脆弱
その為に他企業とか銀行とかに資本調達を要した
そしてこの新聞社のオーナー(最終決定賢者)は政権と食事をしたり誕生日会、結婚式などにも出席し
友達付き合いもしていた
友達付き合いをしていた人びとを裏切ることになる、、、もし、司法の場で違反の判決を受けると
企業としての存在が確保されなくなる、、、どうすべきか、、、

映画なので(実際の話らしいが)最終的には落ち着くところに落ち着くが、映画の上だとしても司法が
キチンと判決を出したのは、仮に今の日本に置き換えると果たして司法がこの様な結論を出しうるか疑問を覚えてしまうので
少しばかり羨ましく思ってしまった
それと競合するメディアが日本のような読売・産経新聞の朝日新聞に対する態度とは違って
普段は競争相手だが、この事件に関しては国民の知る権利を共同して訴えている

繰り返すが映画の上とは言え、羨ましい
現在の日本のメディアのお偉いさんは政権と定期的に食事をして「同じ釜の飯を食う」関係になっている
そうすればどうしても情が移り厳しい記事・放送はできなくなる
日本独特の記者クラブの存在も馴れ合いの素地をつくっている
そして記事は「発表報道」とか「うちわのある意図をもったリーク」が元となる
果たしてそれが真に人びとに益するものか、、、

この時期、このタイミングでこの映画が日本で上映されるのはあまりにも偶然の一致
そこにはある種の啓示があると思いこんでしまうのも無理からぬ事だ
だが、映画を見に来ている人は年配者が多かった
若い人は今日見た限りでは多くない、、これが少し心配

ところで思いっきり話は飛ぶが、映画の中でトム・ハンクスの演じる人物が
机の上に脚を載せてるシーンが多かったが、なんかみっともないな、、と思うのは自分が
日本人だからだろうか、、
俳優さんや大統領も座ってインタビュー・対談に応えるとき脚を組んでるのを見かけるとき
少し嫌だな、、と思ってしまうが、、あれはあちらでは当たり前のことなのかな、、

映画の評価としては、、言いたいことはわかるけど、イマイチかも知れない
(自慢じゃないが俳優さんは殆ど知らなかった)





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ジーザス・クライスト・スーパースター(受難のミュージカル)

2018年03月09日 19時38分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

パッション(passion)といえば日本人は多分、熱情とか激情とか熱中を連想する
だがこの言葉にはキリストの受難の意味もある
熱情とか激情が結局は受難につながりそうなのは、なんとなくわかるような、わからないような気がするが
今日豊橋市の「穂の国とよはし芸術劇場PLAT」で行われた劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見に行った

ポスターの文字にあるようにキリスト最後の数日間の物語をミュージカルにしたもので
バッハのマタイ・ヨハネ受難曲のロックヴァージョンみたいのものだ
このジーザス・クライスト・スーパースター」を見る(聴く)のは二度目だ
一度目は会場は忘れてしまったが確か名古屋(今池の方のような気がしてるが、、)

なにしろCatsを見てアンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽にぞっこんとなって、彼の作品なら
なんでも見ようとオペラ座の怪人はもちろんのこと、スターライト・エクスプレス
エヴィータ(映画で)などを四季の会の会員になって見たのだった

しかし、残念なことにこのミュージカルはあまり覚えていない
僅かに覚えていることと言えば、キリストが悩み多い普通の人間風だったということと
最後の方のシーンで舞台と一切関係ない人物が、ジーザス・クライスト・スーパースターのテーマに沿って
キリストの行いを覚めた調子で歌っていたこと  位のもの
大好きな音楽もこのテーマしか頭に残っていなかった

記憶がないだけに初めてのように新鮮な気持ちで見られたが
この物語はパッション(受難)で、バッハのマタイ・ヨハネ受難曲で
あらかたのストーリーを知っているので物語の進行は(歌詞が日本語のせいだけでなく)
すんなり入っていけた
でも音楽はロックでその歌(歌詞)の部分を意味を聞き取りながら聴こうとするのと
バックの音楽の掛け合い等をしっかり聴こうとするのとは、両方うまくできず
どちらをメインに聴こうかと少し迷ってしまった

忘れていたと言っても、やはり少しは思い出すことはあった
ジーザス・クライスト・スーパースターのテーマだけでなく、時々流れる優しいテーマも
耳に馴染んでいて、それが女声で歌われると本当に癒やされるような気がした

場面はマグダラのマリアが高価な香油をかけるシーン
ユダが裏切るシーン(しかし彼は悩んでいる)
ペテロの否認(鶏が鳴く前にキリストなどは知らないと3度否定するという話)
エリ・エリ・レマ・サバクタニ『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』
民衆が十字架につけろと叫ぶシーン
これらは、実際のところバッハの受難曲で知ってたから、ついついそれらと比較してしまったが
ヨーロッパでは受難の劇がイースターには上演されるらしく
(ノイシュヴァンシュタイン城近くのオーバーアマガウでは10年に一度村人総出の劇が上演されるとか)
心底、様々な判断の基本としての精神の持ち方まで影響しているのだろうと思ったりした
このヨーロッパ人に根付いた感覚というのは日本人にとっての忠臣蔵みたいなものかもしれない
(自分は忠臣蔵は好きではないが、みんな知ってるという点で)

音楽ではなく、少し物語の方に話は行くが、結局のところ民衆がキリストに望むものは
魂の救いではなく現世的な利益、病気を直してほしいとか、目が見えるようにしてほしいとか
歩けるようにしてほしいとか、、つまりは奇跡を起こして欲しい
そうすれば信じることができる  といった様相
しかし、キリストは何時までも生きられない、いなくなったら実現されないような解決は
解決ではない、そこで冷たく言い放つ「自分でやれ!」と
この部分はなかなか面白かった
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中の有名な大審問官の場面を連想させる
スペインにフト現れたキリストを大審問官はキリスト本人だと自覚しているが
もう彼(キリスト)の役割を果たすものはない、すでに自分らが現世の幸福を感じさせることを行っている
「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったところで現実の人間というのは
手っ取り早く現在の幸福を望んでしまうものだ、、そして人はあまりにも弱い
この弱さを描いたシーンがペテロの否認だが、バッハのマタイ受難曲でもこの部分は一種のピークで
レシタティーヴォが悲痛な音形で語られた後、瞑想的なヴァイオリン伴奏のアルトのアリアが
歌われるが、このミュージカルでもこのシーンは印象的なのもだった
その他にも裏切った人間的なユダが(多分)地獄に堕ちる(吸い込まれる)時の、
少し寂しげな女声のコーラスは地獄に落ちるとしてもどこか同情してるような思いを人に呼び起こす
もので印象的なものだった

ところで全体を振り返ると、もしかしたら今日一番印象に残ったのは「声」かも知れない
声量と息の長さ
これにはびっくりした、どこかにマイクを付けてるかどうか知らないが
声は有り余るほどの声量だった
そして息の長い事、ひとつキリストが大きな声でずっと音を引き伸ばすシーンがあったが
こちらがハラハラして(心配して)しまいそうなくらい長いシーンだった
そして音程が急に高音に変わって裏声となる箇所も少なからずあって
その音程の変化についていってる(当たり前か)プロの仕事ぶりというのはすごいな、、
そしてコーラスの効果的なこと、、

開演時間は金曜日の2時からということで、この時間に来られるのは劇団四季のターゲットとは思われない(?)
ちょいとお歳を召した方が(自分を含めて)多かった感じ





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「冬の旅」宗次ホール

2018年02月12日 08時39分51秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

森進一ではなく、シューベルトの方の「冬の旅」を名古屋の宗次ホールまで聴きに行った
有名な楽曲だが「冬の旅」はレコードでもめったに聴かない
昔ハンス・ホッターの歌うレコードを聴いてその孤独なモノクロの世界のやりきれなさに落ち込んでしまったからだ
でも、もっと昔の高校の音楽の授業では冒頭の「おやすみ」を歌ったときは気分良く歌っていた
ピアノが表情豊かに伴奏して、イタリア歌曲の声を張り上げる心地よさとは違う種類の快感を感じていた

少し前、急にこの曲を聴く気になって幸いカビの被害がないレコードをかけた
すると、昔聞いたときのような絶望感、やりきれない思いは感じない
むしろなんと表現していいかわからないが、美しさみたいなものを感じるのだった
今なら聴けるという気分になった時知ったのがこの演奏会だ

歌うのは男性ではなく女性(メゾ・ソプラノ)
この歌い手さんの情報は自分には全くない(最近の音楽界の情報はCDを買わないから手に入らない)
歌い手がどうのこうのというより、その時が楽しめればそれで満足、、
という気持ちでどんな演奏会も集中することにしている

高校で習った「おやすみ」が始まる
いきなり、あれっ!と感じる
ピアノの音が何か予想と違うような、、
自分の頭の中ではもう少し軽い音を予想していた、しかし、実際の音は重い

結局のところこの違和感(こうした発見が実演の楽しみなのだが)は最後まで消えることはなかった
「菩提樹」でも、一瞬の明るい感じを見せる「春の夢」でも、また「からす」でも表情豊かな
高い音程のメロディはどこかゴツゴツしていた
自分の希望としてはピアノ伴奏は歌にまとわりつくような、それでいて物理的な音ではなく
自分の頭のなかの楽器がなってるような錯覚を起こしてくれる演奏を期待してた
(この感覚はヴォルフの歌曲をフィッシャー・ディスカウの歌うレコードのバレンボイムのピアノ伴奏で感じる)

最後の辻音楽師(ライエルマン)でももう少し虚無的な印象が残る伴奏はできるのでは
と思ったが、この人(高橋悠治)はこの演奏スタイルなのだろう
今回のピアノは伴奏というより二人がそれぞれ主張してるような気がした
そこで、これは自分だけが感じることか、、と思ったが、この演奏会のポスターを改めて見てみると
「あえて洗練を避けた無骨なピアノ」という文字が書いてある
やっぱりそうなんだ、、錯覚とか思い込みでもなさそうなので少し安心したが
それでも好みとしては、普通のピアノが良かったな、、が本音

歌い手さんの方は特に気になるところはなかった
メゾソプラノでも変じゃない
歌が進むに従って徐々に集中が高まり、熱気を帯びていくのは生ならでは
しかし、今秋はピアノが気になって仕方なかったな

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名フィル定期演奏会(春の祭典など)

2018年01月21日 08時38分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

そのプログラムに魅せられて昨日出かけたのが名古屋フィルの定期演奏会
金・土曜の2日連続で行われたようだが、田舎から出かけて普通に帰ることのできる土曜日の方を選んだ
会場は日本特殊陶業市民会館フォレストホール
最近は芸術劇場コンサートホールではないことが多いので疑問に思っていが、コンサートホールは
現在改修工事中とのこと
 

自分が興味をそそられたプログラム、前半は
ベルリオーズ 序曲「海賊」作品21
グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

そして後半は
ストラヴィンスキー バレー「春の祭典」

全て生では聴いたことがない
聴きやすそうでロマンティックなグリーグ、少しばかり刺激的なストラヴィンスキー
今年はじめての生演奏会に期待は募る
チケットは当日券を求めた
以前、JRが人身事故のため蒲郡付近で立ち往生して予定されていた行事に間に合わないことがあったので
座席には余裕があるのを確認して、現地で購入する安全策をとった
嬉しいのか嬉しくないのか微妙なところだが、チケットはシニア割引があって20%ほど安くなった席がある
せっかくなのでそれを利用させてもらって、ちょいと良さそうな席を選んだ
(やっぱり素直に嬉しいとすべきなのかな、、)
でも席につくと、しまった、もう少し後ろのほうが良かったかもしれない、、とも感じた
前から11列目でめったに経験できるような席ではなく、座席表では良さそうな気がしていたのだが
どうもイメージとはだいぶ異なる この席だと音がブレンドされてなくて生々しすぎるかな、、などと少し不安も

生では初めての曲ということだから、まずは音楽を楽しむことに専念
関心は演奏の善し悪しと言うよりは、曲自体に向かう

ベルリオーズは結構好きな作曲家だ
ウジウジしていなくて、おおっぴらな開放感が好きだ
それにとても神秘的なロマンティックな「ロメオとジュリエット」の夜のシーン(だったかな)音楽も書き上げているし、、
このプログラムの「海賊」は確かレコードを所有していて聴いたことがあるはずだが全然記憶にない

音楽が始まるといきなり、、らしいな、、の印象
個性というのは自ずと現れるようだ
今まで聞いたことがなくて、途中から聞いてもショスタコーヴィッチの作品はなんとなくわかるように
ベルリオーズはベルリオーズはらしい
聴いてて幻想交響曲の舞踏会の楽章やら、冒頭の楽章、最終楽章を連想させるところがあって思わずニヤリとしてしまう
そんなに難しい音楽ではなく、まずは食前酒みたいな感じで聞き終えた

グリーグのピアノ協奏曲 今回のピアニストは小川範子さん
印象的な冒頭からスタートするこの曲は一般的には聞きやすい音楽だ
レコードでも度々聴いたりしている
しかし、それが却って悪い方に作用したのかもしれない
始まって直ぐに、あれっ、、と演奏に乗れないでいる自分を感じた
音が、、ピアノの音が、、いやオーケストラの音が、なにか遠くで聞こえるような、、(音量はあるのに)
なんと言って良いのだろう、曲がぐいっと直感的に把握されている気がしなかった
いやいや演奏のせいではないかもしれないとも考えた
ロマンティックな聴きやすい音楽故に、今の気分と合わないのかもしれない
例えば忠臣蔵がよく出来た物語だとしても、その世界に浸りきるまでは現代人にはフィットしないみたいに

この現代人にフィットするという感覚を実感したのが後半の「春の祭典」だ
冒頭の管楽器が何やら不思議な雰囲気を醸し出す
しばらくすると暴力的なリズムの饗宴があるのを知っているので、期待感も高まる
今でこそ期待してしまうこの部分だがパリで行われた初演の時には
聞きなれない騒音に近いリズムの連続に聴衆が退席してしまったというエピソードも
わからないではないな、、と思う
だが、この印象深い音楽、これをすんなり受け入れてしまっているのが現代人の耳
現代人はロックなどで同じような強烈なリズムとか音量に慣らされている
そしてそれが知らずしらすのうちに受け入れやすい気分とか標準になっている
だから、今これらの音響を聴いてもさほど驚きはない
ただこの騒音に近い音響は心地よい
この音楽は時間の経過をもとにした(ベートーヴェンのような)起承転結、まとまり、秩序という世界からなるものではなくて
ひたすら音響と言うものが中心となった音楽だと感じる
それはこの音楽がバレー音楽であって、本体は単独に演奏されるのではなくて
バレーのパフォーマンスを効果的に演出する音楽であったことに由来するかもしれない
そんなことを考えながらバレーしているシーンを思い浮かべると、この音楽はぐんとリアリティを持ってくる
人類がまだ動物に近かったような時期、まだ本能に左右され、自然に振り回されながらも
たくましく生き抜く姿を象徴するバレーの場面 
確かにバレーがあったほうがより効果的だし引き立つ気はする

今年最初の生の演奏会は「春の祭典」のおかげでいろんな連想が出来て大正解!
と言ったところ
次は宗次ホールでの「冬の旅」に触手が動くが、会場近くのポスター掲示板には
マーラーの5番のプログラムが、こちらも忘れないで、、というようにつぶやいているような、、、

 




 

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新城吹奏楽団 第86回定期演奏会

2017年12月10日 16時13分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

チケット代金 700円
電車等の交通費もかからず、一時間半しっかり楽しめる新城吹奏楽団の
定期演奏会に行ってきた

昨年初めて聴きに行って、そのときのプログラムはモーツアルトの20番のピアノ協奏曲の第2楽章
同じくモーツアルトのクラリネット協奏曲の第3楽章
そしてショスタコーヴィッチの5番の交響曲の大いに盛り上がる第4楽章、その他でとても感動した
上手い下手というのではなく、音楽してる、音楽に飢えてるみたいな感覚で
その時から次も行こうと決めていた

今年のプログラムは

ベートーヴェンとブラームスの作品を中心にした構成
このプログラムを見ただけで、この演奏会が成功裏に終わると思われた
最後のブラームスの4番の最終楽章は金管が頑張る曲で
演奏者もきっと楽しいに違いなく、それを聴いてるこちらも感動することが予想できたからだ

覚えているうちに感想を
最初の曲「ゆう」は初演の文字がある
昨年も初演された曲があったが、それは調もリズムもハッキリしないような難解なイメージの現代音楽だった
今年の曲も現代音楽の響きだったが、昨年ほど難解な感じはしない
金管が頑張る部分があってもメシアンのような響きではなく、日本人の音色だと感じられた
時折ショスタコーヴィッチを連想させる部分があった
おいしいメロディのない音響・和音中心のこうした現代音楽も実はそれなりに楽しみにしていた
今の人間にしかわからない感覚は実は現代音楽しか表現し切れないかもしれないと思ったから

2番めのA.リードの「ジュビラント序曲」はとても音が良く鳴る音楽だった
最初の曲と比べると前に出てくる音の色彩・賑やかさがぜんぜん違う
どちらのほうが良いというのではなく、曲の個性の違いなんだろうが

2部はベートーヴェンの作品
「エグモント序曲」最初の和音からベートーヴェンの個性がきっちり現れている
真面目な音楽だが、それでも中間部は聴きやすいメロディがある
弦楽器があれば チェロが奏するところで、普通の編成の演奏に慣れていると
少し違った印象を持つが、そういうものと思えば特に違和感までは至らない
最後のほうでテンポは早まるパッセージのがあるが、他人事ながら少し心配してしまった
うまくやりきれるかな、、と(フルトヴェングラーの猛烈なスピードアップの演奏が記憶にあるので)

ピアノ協奏曲は、最初の出だしに部分で、管楽器というのは音程をキープするのと
小さな音で演奏するのは難しいんだなと実感した

第3部はブラームスの作品 
まずはハンガリー舞曲を4曲
1番は流石にフルトヴェングラーの演奏のようにテンポがとてつもない変化があることはなかった
その分安心して聴けた
有名な5番は、ふわっとゆっくり表情豊かに開始された
あっさり楽譜通りスピード感をもって始められる思ってたので少し印象に残った
(なるほど音楽の解釈とはこういうことか、、)

最後の4番の第4楽章
これは最初の音から音色が違った
熱気があるというか、充実しているというか、多分いちばん多く練習しているんだろうな
と勝手に想像した
この楽章はめったに主役になれない低音部を支える楽器群も主役になれる部分がある
フルートも緊張感たっぷりのソロのシーンも有る
弦楽器がないので部分的な音色は違うけれど、その弦楽器の編曲されたパートを
クラリネットが必死に吹く

音楽の感動ってなんだろう、、聴いててそんなことを考えた
クライマックスの冒頭のパッサカリアの主題がフォルテでみんなで奏される時
なんだか理由もなく涙が出そうになった
そこまで行くと後は勢いに任せて、のりにのって音楽は続く
おもいっきり吹いて、やりきって、幸せそうな奏者の方々、、

ということで、今年もおおいに満足
やっぱり生はいいな
来年も行こう、、 

 


 

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「プラハのモーツァルト」から連想したこと

2017年12月03日 14時42分35秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

地味そうな作品だから豊橋では上映されておらず、名古屋まで行かないと見られないかと
思い込んでいた「プラハのモーツァルト」
調べてみたらユナイテッド・シネマ豊橋でもやっていたのでさっそく出かけた

大好きなモーツァルトがタイトルに入っているので興味がそれだけでわくが
出かけようとした理由は、大きな画面でプラハの街並みとか雰囲気を感じてみたいのと
モーツァルトのキャラクターがどんな風に描かれているか興味があったためだ

モーツァルトが歓迎されたプラハはウィーンからはそんなに遠くないようで
日本からのツアーも組まれているし(ウィーンとプラハの)
電車もプラハ行をしばしば見かけた(旅した時)
BSの旅番組を見てもプラハは落ち着いた感じで、どんな雰囲気だろうと思ったが、、、

期待はあっさり裏切られた
映画にはプラハの街並みはほとんどと言っていいくらい出てこない
街の出てくるのは夜の暗いシーンばかり
太陽の下のドラマではなく光の足りない夜と部屋の中
ヨーロッパ人は部屋の灯というのは日本人みたいに明るいのを好まないのかもしれない
数年前のオーストリア・ドイツのホテルでも照明は決して明るいとはいえないものだった
(彼らに言わすれば日本の灯が明るすぎる、、というのだろうが)

興味のもう一つ、モーツァルトのキャラクターについては「アマデウス」がぶっ飛んだ
落ち着きのない人間として描かれていたが、同じように軽薄な人間として描かれるのか
と思ったが、映画は普通の感情をもった、ちょっとばかり(女性には)自制心のない人物として扱われていた

プラハはドン・ジョバンニの初演をした街で
序曲は上演ギリギリまで出来ていなかったというエピソードやら
フィガロの結婚が大受していて歓迎されていたところなどモーツァルトの好きな人間には
おなじみの情報が適度に挿入されている

この映画、プラハにいるモーツァルトが「フィガロの結婚」の上演を見守るところと
新作「ドン・ジョバンニ」を書き上げる過程を捉えているが、この実在の人物たち
サロカ男爵・スザンナを中心にしたストーリーは、実は「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」
の物語そのものを地で行っている
サロカ男爵はフィガロにおけるスザンナの「初夜権」を狙う浮気心いっぱいの人物として
ただし、フィガロの時の伯爵より悪人ぽいイメージとして扱われ、この女好きの人物は
ドン・ジョバンニも連想させるし、結局彼の悪業は罰せられることになるが、
そのイメージとしては騎士団長が食事に誘う不気味なシーンや地獄に落ちるシーンが
ドン・ジョバンニの音楽で暗示される

ただ少しばかり残念なのは、このサロカ男爵は単に悪いやつという女好きであったこと
歌劇のドン・ジョバンニは確かに悪いやつだが、それでも相手(女性)が嫌がるようなことはしていない
伊藤詩織氏の「Black Box」ではないが、合意の上かそうでないか、、は
歌劇のドン・ジョバンニは、どこか仕方ないやつだ、、とか困ったやつだ、、と呆れながら思ってしまうが
この映画のサロカ男爵は「パワハラ」「セクハラ」のオンパレードで、地位を利用して
人を支配しようとしているところなんぞは、つい最近の何処かの国の誰かとそっくりだと連想したのは
自分だけではなかっただろう

それから、どうでもいいことだがモーツァルトが楽譜を書いているシーンには少し疑問を覚えた
モーツァルトの自筆楽譜を見たことがあるが、とでもきれいで、何よりも相当なスピードで書かれている
音楽は既に出来ていて楽譜はその音を紙の上に移すだけの作業で、その息吹みたいなものを
楽譜から感じるが、映画ではベートーヴェンみたいに考えて作曲するようで
わかりやすいけれど、ちょっと違うぞ、、とチャチャを入れたくなった

この映画はストーリーのせいもあるが、一般的な予告編で見られるように火薬をぶっ放して
興奮させるというのではなく、それなりに映像を覚えておいたり、その意味を考えないと楽しめないものになっている
だが、この様に見る側の想像力を前提として進めてくれたほうがかえって見えないもが見える気がする
説明過多とか、わかり易すぎるものは、、面白くない、、
 

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「アッシジの聖フランチェスコ」(全曲)びわ湖ホール

2017年11月25日 17時59分53秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

11月23日の勤労感謝の日、滋賀県びわ湖ホールに出かけた
目的は、これ

オリヴィエ・メシアンの大作「アッシジの聖フランチェスコ」の全曲日本初演を聴くためだ
(正確には東京で初演は済んでいる)
13時スタートで18時30分が終演予定となっている長い作品だ
実はこの曲の小澤征爾が指揮したCDはもっているが、最後まで聴けずにいる
スピーカーを前にしての数時間は今の自分の集中力からすると、とても無理なので
いっそ現場で聴いてしまえと思い立って出かけたのだ

この曲の楽しみ、というかメシアンの音楽を聴く楽しみは「鳥のさえずり(音楽)」が聴けることだ
メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」も「クロノクロミー」も「峡谷から星たちへ」も「鳥のカタログ」も
鳥が主役になっている部分がとても気持ちがいい
この曲の冒頭もマリンバが鳥たちのおしゃべりを連想させるフレーズを繰り返す
それだけで自分はいい気持ちになるのだが、ちょっと気が進まない部分もあるのも事実
金管の荘重な「メシアントーン」のような部分は、ワンパターン化していて
(それ故にキリスト教の何かを示しているのかもしれないが)これはCDで聴いていても
退屈さを感じてしまう
現代音楽という分野に属するこの音楽技術の面ではリズム・色彩・旋法・クラスターなど
素人にはわかりにくく難しいことに取り組んでいるらしいが、そういう難しい話は横において
今回はひたすら鳥の音楽を聴くつもりで足を運んだ

当然のことながら鳥の鳴き声が出るところは無条件に楽しめた
難しく考えることも、無理やり集中することもなく、ただ浴びるように鳥の音楽を体感するだけ
それだけで十分なのだが、それでも生を聴いていると、それ以外にほっといてもいろんなことが思い浮かぶ 
多分これがフランチェスコのモチーフなんだろうと思われる旋律が何度か現れて、その色彩も表情も
登場する度に変わっているが、これはヴァーグナーのライトモチーフの応用かな、、
だとしたらヴァーグナーのほうがリアルで生々しいな、、とか
メシアンの以前の作品「トゥーランガリラ交響曲」で使われた金管のテーマが出てきたようで、
これは何の意味だったのだったろうかとか、
また一幕の終わり部分では皮膚病患者に口づけをする時に 「トゥーランガリラ交響曲」の「愛のまどろみ」の
絶妙なハーモニーが出てきてうっとりしたり、、、
大編成のオーケストラに大規模のコーラスも舞台上に並んでいるがコーラスは歌詞を歌うというよりは
音楽の陰影とか空気・雰囲気を呼び起こすものとして使われていて効果的だな、、とか

昨日は京都に紅葉狩りで音楽のことは少し頭から離れてしまったが
2日経った今日(11月25日)の時点で忘れずにいるところを抜き出すと
2幕では天使のノックの部分がストラヴィンスキーの「春の祭典 」のように聴こえた
ベートーヴェンの田園の雷のような音楽的というよりは騒音に近い
そして現代の大音量のロックに近い印象で、これがまさしく現代音楽ということを彷彿とさせた
この騒音に近い「春の祭典」のような音楽は三幕でも再現され、この時は「春の祭典」ではなく
ブルックナーの9番の交響曲の第2楽章のスケルツォが頭に浮かんだし、そのことでブルックナーは
現代的な音楽なのかもしれない、、とブルックナー大好き人間は想像してしまった 
この日の圧巻は、鳥の音楽が聴きたかった自分が満足した「鳥に説教する聖フランチェスコ」の部分で
クロノクロミーみたいに数分間にわたって鳥のさえずりが延々と続き
音符で書くと多分とっても複雑な楽譜になっているだろうが、音にしてみると(自分の耳には)心地よく感じられた
この部分はメシアンの鳥に対する告白とか愛みたいなものに違いない、、と頭に浮かんだ
そしてメシアンのもう一つの愛の対象は「キリスト教」
自分は少しばかり教会に通ったことがあるが、結局キリスト教徒になれなかったので
この様に無条件に受け入れることが出来ない
だから聖書の言葉も天使のメッセージも思い込みの世界のひとつ、、なんだろう、、と
一歩引いたところに立場を確保したが、それでもメシアンの真剣さ・ひたむきさにはうたれるものがあった
このオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」はマタイ受難曲よりも切実な「パルジファル」よりも
儀式に近い祭典音楽のように感じられた(音楽体験というよりは儀式・祭典として演奏される方が良いかもしれない)

そうだ、もう一つ思い出した
第一幕の最後の天上のコーラスみたいなところ、まるでパルジファルみたいだった

実は始まる前は、楽しみにしていたものの寝てしまうのではないかと心配していた
鳥の歌以外のレシタティーヴォのような会話の交換
パターン化した金管の荘重な響きは、もしかしたら長いことは耐えられないかもしれないと思ったのだ
だが、さすがライブのなせる技  その心配は無用となった
退屈しなかったことの他にもう一つ気づいたこと、それはびわ湖ホールの椅子は
長いこと座っていてもお尻が痛くならないことだ
10月に「神々の黄昏」を見た(聴いた)新国立劇場は途中でお尻が痛くなって
姿勢を時々変えたくなったが、今回はそんなことはなかった 

それからもう一つ、熱心なキリスト教徒であったメシアンは最後は「神の栄光」を
なんとしてもフォルテで表現したかったに違いないと感じたが
そこから連想は羽ばたいて自分の大好きなブルックナーも最後は「愛する神に」
フォルテで肯定的に終えたいと思ったのだろうと根拠のない連想をしてしまった

ところで、びわ湖ホールで配られたチラシに来年「ワルキューレ」が上演されるとあった
これで味をしめて、足を運ぶ、、ってことになってしまう、、かな
「ワルキューレ」より「トリスタンとイゾルデ」か「パルジファル」の方が良いのだが 

 

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