パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

そろそろ読み終えないとまずいかも

2025年01月07日 09時23分28秒 | 

年令によって興味の分野が変わってきて、それに伴い読む本も変わってくる
若い頃はミステリーとか小説がメインだったが
最近は社会に関するものになってきている

紫式部が「蛍」の帖で書いたように、確かに物語は歴史書よりも
人間の真実を伝えている可能性がある
ただしそれには想像力を駆使することが必須条件となる

そうした想像力を刺激する物語は、ある程度は社会の教養となっているので
それなりの立場の人はそれなりの物語を知らないことは
ちょいと恥ずかしかったり、人間性の底を読まれてしまう可能性もある

ところで最近読み始めている社会に関することは
ストーリーを追いかけるのとは違い、なかなか集中して読み続けることは難しい
それは難しいことが書かれているせいだが、この難しいというのは
実は前提となっている歴史的事実を知らないためということが多い

最近、面白いと思いつつ詠んでいる「法の精神」モンテスキュー


面白いと思いつつ一気読みできていないのは、ここで扱われているヨーロッパの歴史
ローマ時代とギリシア時代の出来事が全く頭にないからだ
モンテスキューは過去の出来事の例をとりあげてそこから一般論を導き出そうとする
だがその事件とかエピソードを知らないと、ただただ文字の上を見るだけになっている
つまりは本を読み込むにはそれなりの前提としての知識が必要となってくる

そこで不意に思ったのだが、マキャベリの「君主論」も
もしかしたらこのように過去の歴史からなにか一般化できるものを
まとめた本ではないかということ
現在「君主論」は本棚にずっと鎮座して眠っているが
もしかしたら今なら読めるかもしれないという気もする

同様に今なら読めるかもしれないと思えたのがルソーの「社会契約論」
でもこれは相当ハードルが高そうな印象を覚えたまま、ほっぽりだしている
そして積読状態が解消されない可能性はやはり高いとも思える

旅行や登山はできるうちにやっておいたほうが良いというのが
それなりの年齢の人間が実感することだが
読書も同じようなものかもしれない

読めるうちに古典とされている本を消化不良でも読んでおく
わからないことに悪戦苦闘する
そうしたことは攻略法なしにゲームのクリアを目指して戦っているのと
同じかもしれないと想像できないだろうか

ということで、消化不良とか全くの理解の外にあるとしても
読もうと取り組んだ山の大きさ高さは、最後のページに至ったときは
なんとなく誇らしい気になった気もする

ということで、いつものまとまらない話
それにしても「法の精神」はそろそろ読み終えないと
今年の読書に勢いはつかないし、いろいろヤバいことになるかも


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする