お伊勢さんは、お願いをするものではなく感謝するものだと何かで聞いた
自分にはお参りしているが、いつも感謝するところがある
それは日課となっている近所のお墓参り
花の水を変えて、線香をつけて、故人の名前を呼んで
平穏に過ごせていることの感謝を呟く
と言っても、自分は信心深いとか仏様を信じているということはない
ただこうした方が自分の気持ちにしっくり来ると感じるだけだ
朝の仏壇のお参り(般若心経を唱えての)は祖父母や父を思い出す
きっかけになっている
そして夜、ベッドに向かう同居人はいつも仏壇に向かって
「ありがとうございました」と軽く頭を下げる
そうする気持ちはよく分かる
信心とか祈りというものはどういうものか?
意味あるものか?
と考えるきっかけになったことがあった
それはある時、癌封じで有名な寺で日本語が良くできない韓国の女性が
「癌封じのお参りは〇〇と△△があって金額が違うけれど
どのように違うのですか?」と聞かれたことが始まりだった
〇〇のほうが△△よりも高価なものになっていたが
その内容は〇〇は毎日朝晩依頼された人の名前を読んで
お祈りをするが、△△のほうは依頼を受けたその日だけの祈祷
との違いで、それを伝えると彼女は迷わずに高価な方を選んだ
「神は妄想である」との本を残したドーキンスが
このシーンを見聞きしていたら腹を立てて文句を言ったに違いない
実は正直なところ、その時の自分もどこかこれで良いのだろうか?
と思ったのだった
でもその女性の旦那さんは癌でもう手の尽くしようがない状態
になっていたそうで彼女としては最後の最後の願いとして
ここまで足を運んだと全くの他人の自分に告白した
その時の彼女の祈りは馬鹿げたことか?
戦争に子どもを送った母たちが無事を祈ってお百度参りをすることは
無駄なことか?
それらはその必死さ故に無駄と自分には断定できない
そして今、自分もそれなりの年令になって
どんなことでも起きる可能性は増えるばかりでも
いつもと同じことができていることが
とても幸せなことと思えるようになっているので
知らず知らず誰かに感謝する気持ちになれている
そして同時に少しづつ諦めということも覚えるようになっている