パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

聴き始めはK330のピアノソナタからトリスタンへ

2012年01月01日 19時11分34秒 | Weblog

予定通り新年最初の音楽はモーツァルトのK330のピアノソナタ
ギーゼキングの演奏のレコード
気張って聴きこもうとしたのだが意外や意外
最初の音に軽い驚きを覚えてしまった

音がもっと明るいと思っていたのが
こちらのコンディションのせいか予想したより沈んだ音色
短調と思わせる程ではないが自由奔放な音とは離れている
モーツァルトの音楽はただ明るいだけじゃないということか

その後K219のヴァイオリン協奏曲第5番 オイストラフの演奏で

これもしっくり来ないので急に思い出したのが
バイロイトのハイライトのレコードから
ベームのトリスタンから前奏曲・愛の二重唱・愛の死

これはまずまず
そうなると聴きたくなったのがフルトヴェングラー指揮のトリスタンの愛の二重唱
EMIの全曲盤の方ではなく1947年のベルリンでの実況録音からのものを聴いた
本当は全曲盤の方を聴きたかったのだけれど
あのオーケストラがまとわりつくように雄弁にロマンチックに語る演奏は
あまりにも印象的・感動的すぎて、もう一度聴いて
あの濃密な感動が薄れてしまうことが怖くなって無闇には聴けないでいる

ということで比較は全曲盤とになるのだが
出来自体は全曲盤のほうが素晴らしい
しかし、それでもロマンティックな濃密な感覚は漂っている
同じ箇所をバーンスタインとカルロス・クライバーの指揮のものと
比較すると正直同じ時間が経過しているとはとても思えない

バーンスタインもクライバーもサラサラ流れていく
それはそれで美しいかもしれないが時間の濃さというか
何かが足りない

これが芸の力というものか

フルトヴェングラー指揮の演奏は第9も名盤として通っているが
これも無闇矢鱈とは聴けない
大きな構えで途中から興が乗ってくる感じの第1楽章
楽器が出たり引っ込んだり立体的な第2楽章
瞑想的なうっとりするような、そしてトランペットのファンファーレの直後の寂寥感の第3楽章
いつまでも続くような物凄いフェルマータの合唱部分が終わった後、
最弱音から始まる歓喜の歌のフレーズの劇的な効果
そして演奏するという行為自体をも忘れさせるような熱狂の第4楽章
これらは本当に半端じゃない感動を覚えた記憶があるので
その記憶を汚すことが恐ろしくなっている
だからこのレコードは持っているが2度と聴かなくても
後悔はしないと思っている
一度でも奇跡のような瞬間を味わうことができたのだから

同じことがEMIのトリスタンでも言える
つまり持ってはいるけど、あの感動が来ないことに対する恐怖で
聴けないということ

名盤は繰り返し聞けるものでなく
たった一回でも一生の印象として残るような演奏のもの

フルトヴェングラー以外にはリヒターのヨハネ・マタイ受難曲なんかは
この部類に入ってくる

しかし、もしかしたら演奏自体よりも聞き手の感性が
若い時はもっとしなやかだった!
ということに過ぎないかもしれない
結局どっちでもいいけど、フルトヴェングラーがやっぱり凄いことには間違いない
(リヒターも)

コメント
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