主催者発表17万人、警察発表7万人
昨日の「さよなら原発」に参加した人の数
なんという違い、新聞・テレビは何の疑いもなく
それらの数字を報道している
何故、こんなに違うのか?計測方法についての解説もない
両方を述べることが公平と思っているのか?
自分たちの調査はしなかったのか?
しかし、デモ関連の主催者側とメディアの数字の乖離は
これだけではない
首相官邸前も、その他いろんなところでも参加者の人数は
一体何を信用したらいいのか判断に困るほど違ったものが
報道されている(あるいは報道されなかったり)
昨日、自分は初めてデモに参加した
というより、
デモの現実を自分の目で確かめたいと思った
太陽は照っていたが思いの外、乾燥していて木陰は涼しかったが、結構な人が集まっていた
その会場に訪れたのは
デモの人数を自分の目で確認したい!
時代は変わりつつあるのか?
そうであるならその瞬間を見てみたい!
そんな事を思ったのは事実だが、もう一つ
「あの時自分は何をした?」
と未来の人間に問われたら、今までのように
「誰かがやってくれるから、自分一人なんて、、、」
と思うことは、まずいんじゃないか!
と思ったから
以前、何故庶民は第2次世界大戦突入をストップできなかったのか
そんな事を考えた時、
今度そんな事があったら
自分は絶対戦争反対の行動を起こすつもりでいた
しかし、残念ながらいつの間にか
そうしたことは、誰か他の行動的な人がやってくれる!
などと思うようになっていた
だが、今ままで経験したことを反省を含め振り返ってみると
「物事は他人はやってくれない!」
これは恐ろしいほどの真実で
結局、当たり前のことだけれど自分の事(権利)は
自分で手にしなければならない
自分にとってはこれは反戦運動と同じようなものだ
今、反対を言い続けないと後で後悔するような気がしてならない
自分が学生時代
大学紛争の嵐が吹き荒れ
学校は休講になったり大衆団交もあった
革マル・民青の連中はデモも行なっていた
自分はノンポリで、ただそういう姿を眺めていただけ
時々、そういう連中とも討論したこともあったが
基本的に組織・社会に関心があると言うよりは
コリン・ウイルソンのアウトサイダーにあるような
個人の生き様の方に関心があって
そちらではロマンティックな悩み方もした
今回は違う
大人の知恵で、使命感みたいなものに突き動かされて
東京まで足を運んだ
大勢の人がメイン会場にいた
しかし、自分の感情は本質とは違う変なことが気になってしまった
大江健三郎・落合恵子・広瀬隆、そういう人達のメッセージが
あの場所では効果的でなかったこと
メッセージの内容ではない
あの屋外の多くの人を前にしたメッセージの送り方ではない
と思ってしまった
確かに筋は通っている、わかりやすいかもしれない
しかし、あの話はもう少し少ない人数(あるいはディベート)の屋内で
発せられる内容ではないのか
少なくともアジテーションという意味では効果的ではなかった
フト小泉純一郎ならどんな話し方をしたのか?
そんな事を考えてしまった
デモは普通の人が冷静におとなしく歩いた
自分もある団体に紛れ込んで歩いた
「再稼働反対」「原発要らない」「大飯止めろ」
スピーカーで若者が連呼していた
自分は声を上げなかった
慣れていないというか、この段になっても恥ずかしいとか
チョット趣旨と違うとか、外から見てる人はどうなんだろうかとか
しかし、少しづつ声を上げるようになると
これはまた違う感覚になっていく
そう、慣れと麻痺
それが当たり前になる
普通の人が多いと感じたが
若い人が機械ものを扱っていた
その機械からはラップ・ロックの音楽が流れていて
ちょっと反原発と言うより青春のエネルギーの発散の仕方の一つ
と思わないでもなかった
若い連中はチョットハメを外し、規制された道路から少し
はみ出て歩こうとする者もいた
すると警官がすぐに列に戻るように促した
その時、デモを感情のこもった熱いものにするには
犠牲者をつくる!
ということを考える人が出るかもしれない
と思った
つまり、デモをしていた人が国家権力によって不当に扱われ
怪我などをする
そうすると、今度は冷静な対応と言うよりは集団は
怒りに満ちたブレーキのない行動をしてしまい
その波はとんでもなく大きくなる
こうしたことをイメージする人物が出てきそうな気がしたのだ
そしてこれはある人物にとっては、極めて魅力的な作戦に思えてしまうかもしれない
過去の歴史の中でもそんな事は起こったかもしれない
いや起こされただろう
ここではこれ以上この問題は扱わないとするけど
ただ人間の考えそうなことの恐ろしさ
ということだ
原発は一体どうなるのか?
そんな呑気にはいられない気もする
こんなに地震の多い国。活断層だらけの国に
原発はベストな選択なのか
想定外・想定内と考えること自体が人間のおごりを感じてしまう
コントロール出来ないもの
それを素直に認めて、諦めること、それも偉大な科学的
進歩的な考え方とも思う
願わくば、怖い怖い地震が起きないことを望む