パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

大石内蔵助とルードヴィッヒ2世

2015年04月17日 19時35分55秒 | 徒然なるままに

確か泉岳寺と思ったが、そこに大石内蔵助の使った
帷子があった
それを見て一番最初に感じたことは、小さい!

一昨年ドイツに訪れた時、ルードヴィッヒ2世の使った
マントだったか服が飾られていたが、それを見て感じたことは
大きい! 


今回ドイツに行って今まで感じたことのないくらい
痛切に感じたのはこのサイズの違いだ

考えてみれば人間は自分の体格を基準にして
生活に関するいろんな物を作るに違いない
日本人からすれば猛烈に体格のでかいドイツ人は
食べる量もすごいが座って占める面積もでかい
だから電車の座席も当然ながら大きい
ホテルのベッドも大きい
男性用の小便器の位置も高い
ホテル自体の部屋の面積も日本のものと比べて広い
フォルクスワーゲンのゴルフがモデルチェンジをする度に
サイズが大きくなっていくが、それはドイツ人の体格から考えて
国民車となるのはあのくらいの大きさが必要なのだと
変に納得してしまう

晩御飯用に一人分のメインの料理を頼むと 
これが半端な量ではない
見ただけでこんなに食べられないと思ってしまう
時間をかけても食べられない
そんなふうに思うのに、パンがついてきたりする

そのパン、夕食用ではないが町中で肉やチーズを挟んだものは
しっかり硬くて食べがいがありすぎる
途中くらいから嫌になってしまう

しかし日本人にとってデカすぎたり多すぎたりしても
当のドイツ人にとってはごくふつうのコト
このあたりまえの事実に今更ながら驚いた数日間だった

大きいのは男性だけでなく女性陣もしっかりと豊過ぎる
体格を維持している
お尻も大きいが胸も大きいし
頭も大きな人もいる

この女性陣を見て感じることはルーベンスやルノワールが
ふくよかな女性を描いたのは無理からぬことということ
彼らは特にグラマーな女性を描いたのではなく
普通のありきたりの対象、それがありきたりであるがために
原風景とも言えるかもしれない対象を描いたに過ぎなかった
と思ってしまった

この日本人から見れば大きすぎるドイツ人は
思考の面でも体力がある、
文法自体がかっちりしたまとまりの良い形式で
それはまるで音楽の形式を連想させるし
突き詰めて積み上げていく思考の建築物は
やはり強靭な体力をベースとしたものだ

それを思うと日本人の思考は季節に左右される感じやすい
繊細かつ感情的な感性で、多分思考による建築物には向かないものだ
どちらがいいというのではなく、明らかに違いが存在するのだから
それぞれのいいところをより発揮したほうが無理は無いかな

ところで、むこうで大きなドイツ人を見続けた時
こんなに大きな連中と闘っている岡崎や香川、清武、内田その他は
大変だろうなと 、ふと今までの思いが
あまりにも想像の中のことで有り過ぎた気がした

フィジカルの差
これはどうしようもなく存在する
あるときは絶望を感じるほどに

しかし、それでもやっていかねばならないなら
知恵としてどのように付き合っていくか、、、

しかし、体格の差
本当にデカイ
このサイズの違いによる生活の違いは
昔読んだ「ゾウの時間ネズミの時間」を思い出させる 

それにしても、ドイツ人はデカかったな
 

 

コメント
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