同じ音楽を聴いていても、何かをしながら聴いている時と
気合を入れて聴こうとする時と音楽の印象は違う
それは特にクラシック音楽に限らず、ジャズでもポップスでも
つまりあらゆるジャンルの音楽にも言えそうだ
例えばモーツァルトの音楽、
何かをしながらでも作業の邪魔をしない
特に音楽の方から聴くことを強要するようなことはなく
軽やかで耳障りが良い
ところが、人たび気合を入れて聴くことにすると
耳に入ってくる情報量が随分違ってくる
平凡な普通の進行に思われるお気楽な音楽が急に
思わぬ細かな変化が織り込まれていて
特に知らない曲などを先を予想しながら聴くと
その予想は外れて、本当にいろんな変化があることに気づく
モーツァルトの音楽は会話のようだ
論理的な会話というより、そこにある気分をサラッと表現して
いったん音としてでたものは直ぐに過去のものとなる
その時間は一度しか存在しない
それは普段の人間のくだらない日常の話が、その時一度しかないかのようだ
モーツァルトの好きな人は多分、聴くときにこの感覚とか
楽器同士の会話を楽しむコツをもっているのだと勝手に思い込んでいる
気合を入れて聴くのが面白いのはクラシックだけではなくて
ジャズでも言える
自分たちが学生時代のジャズ喫茶は煙草の煙がもうもうとして
難しい顔をしてジャズを聞くみたいなのがイメージとしてあるが
そのように音に真正面から気合を入れて聴くと
それなりの良いことがある
多少の慣れが必要だが、気合を入れて聴いたときには奏者の
ニュアンスにかける思いとか音(流れ)の必然性を感じたりする
いやいや、ポップスだって同じこと
自分の歌とするまで、素人なら飽きてしまうほど歌い込んだ人の表現は
思いの外ニュアンスに富んでいることに気づく
ということで音楽は聴き流すのではなくて
気合を入れて聴くとそれなりの楽しみ方ができる
この気合を入れて聴くことを半ば強制するのがクラシックコンサート
息を詰めて聴かなくてはいけないとか、楽章間で拍手をしてはいけないとか
なにやら堅苦しい約束事が鬱陶しいが、それは一度でも気合を入れて聴いて
ある感動を得た者にとっては必然の行為となっている
集中して聴く、気合を入れて聴く
ただそれだけで得られるものは確かにある
聴き流しているだけでは分からない何か特別な世界がある
それを体験したい人は楽章間の拍手で自分の集中が途切れるのを嫌がる
マーラーがそれまで行われていた楽章間の拍手をやめるようにしたらしいが
この気持はよく分かる
車を運転しながら聞くのもいいが
気合を入れて音楽を聴いて楽しむというのは読書と同じで
自らの想像力を駆使することになって、それが楽しい
もっともいつもいつも気合を入れて聴く気分になれるわけではない
だから調子が良くて今日は集中して聞け聴けそうだと感じるような日は
とても大事
音楽を聴いたというのはこのような日のことで
これが多いほうが幸せな時間が多いということ
(あと何十回、何百回経験できるかな?)