やはり最後の法廷のシーンは我を忘れるくらいに夢中になった
それはまるでミステリー小説のようで、読者は犯人を知っているのでもどかしい面があるが、
これが小説の中の陪審員のように初めて検察官と弁護士の話を聞いたらなば、自分なら果たしてどちらに
軍配を上げるか、、少し迷うところだ
何十年ぶりに急に思い立って読み始めたのが「カラマーゾフの兄弟」
登場人物のキャラが濃くて、その毒気に当てられそうで、名作と言われながらも
なかなか読み返す気持ちになれずにいたが、何故か読む気になった
すると、思いの外苦労せずにページが進んだ
つまらないと思われた最初の部分も、後のストーリーのための仕込みみたいなところがあって
小説家としてのドストエフスキーの技術を見るような気さえした
この本を最初に読んだのは高校時代
当時は自己主張の強い登場人物と気分の移り変わりの多いセリフに圧倒されて、書いていた日記に文体も
ストレートに進むというよりは、あっちこっちに行ったり来たりして随分影響を受けたものだった
圧倒されて批判的に見る余裕などはなかったが、今回は流石に年令を重ねている分だけ欠点と思えるようなところも気がついた
少し生意気だが、それは女性のキャラクターが割合似ているということ
グルーシェニカもカテリーナも気の強い女性で、割合似ている感じ
もっともカテリーナの最初の屈辱的な記憶を、自分で何らかの形で落とし前をつけないとやりきれない気持ちはわかるし
結局は(愛する)イワンを守りたいという気持ちが法廷であの証拠の品を見せることになるがこの気持も今はわかる気がする
以前はこの部分は大して気にならずにイワンとアリョーシャのどちらが正しいのか(大審問官とゾシマ長老の章ではどちらが説得力があるか)
ばかりが気になったが、人生経験を積むということは、、少しは弱い人の気持ちがわかるようになるということなんだろう
この本で一番有名なのがイワンの叙事詩、大審問官とその前の子供への虐待に対する部分
この部分は初めて読んだときからずっと記憶に残っていて、その後の対となっているゾシマ長老のエピソードよりは
説得力があった(自分にとっては)
大審問官の部分はフロムの「自由からの逃走」を連想させる
人はパンのみにて生きるにあらず、、、とされても、弱い人間は奇跡を期待する
奇跡がありさえすれば、、、、
しかし、奇跡ばかりを期待することは真に自由とは言えない、、、
その時に大審問官は救世主になり変わってわかりやすい行動指針や説教を行う
もう本当の救世主は必要とされない、、、
その大審問官の行いに救世主は何も言わず、彼に口づけるだけ
このロシア的な宗教観はこの後にも現れて、雄弁な感情のやり取りの後にすべてを受け入れるような
無言の肯定が、(理性ではわからないが)感情が生命力をもって、そういうものだと示す
それは結局ドストエフスキーの希望でもいあったかもしれない
本を読んでいない人には何を言ってるのかわからないと思われるが、今回自分が感じたのはこれらの事柄で
時を経て読み返すということは、なかなか良いもんだ、、、と実感