パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

放送する必然性・価値はあったのか?(特に号泣シーン)

2019年05月09日 08時29分23秒 | あれこれ考えること

何年か前、ある国では新聞に掲載されるニュースの半分以上は
明るい話題にすべしとの法律が決まったとあった
それは政権批判を防ぐためと言うより、そのほうが単純に気持ち良いから
なのだろうと勝手に想像した

ところで日本の報道はどうだろう
特にテレビのそれはどこか肝心なところで間違っていやしないか
と思わざるを得ないことが続く
昨日、大津の園児死亡事故のニュースつながりで、保育園の園長の記者会見が
行われ園長先生の号泣する映像が、呆れることにどの民放局でも流された

地元では月曜と木曜日の朝はあいさつ推進運動の日で、自身のウォーキングを兼ねて近所の小学生と
校門まで歩いていくことになっているが、下の名前まで覚えたこの子達の一人でも
あのような悲惨な事になったらと想像すると、当事者たちの気持ちは如何ばかりかと思う

そこであの記者会見のニュースになるのだが、あの記者会見とか園長の号泣する姿は
ニュースとして流すべきものなのだろうか
記者会見は見てる方も辛いので直ぐにチャンネルを換えたが、チラッと見たところでも
園長に聞いても仕方ないような質問をしていて、そもそもこの記者会見の必要性は何だったのか
とも思わせるものだった

映像の「絵」としての園長の号泣する姿は、印象的なのは間違いない
しかし、それを使うかどうかは選択する人の人間性に関係する
あの「絵」を流す必然性はあったのか、、流してよかったのか、、
そもそもその記者会見を放送する意味があったのか、、
この部分が自分にはどうしてもスッキリと理解できない
そこにあるのは「刺激的な劇的な絵が欲しいだけ」というような
品のない人間性が感じられるだけだ
そして残念なことに放送は一局だけにとどまらず他の放送局も同じことをしている

同じことをしているという傾向は最近特に目立つ
独自の取材によるニュースと言うよりはメディアリンチの言葉に代表されるバッシングは
STAP細胞騒動、日馬富士騒動、豊田真由子騒動、日大悪質タックル騒動、、、などで
くどいほど見られたが、放送局は違っていても表に出る意見はほとんど同じで
寄ってたかって叩くだけで、複数の放送局の存在価値は一体何だろうか、、と思うのだが
放送局の現場の人達は他者と違うことを放送することへの恐怖に怯えているのか、、とさえ思う

ただ救いが無いわけではない
ツイッターには園長の号泣するニュースを流した放送局に対する批判が少なからず存在する
やはり同じように感じている人はいるのだ、、と思い少し安心する
しかし、現実の問題としてツイッターを使用している人たちは、どちらかといえば意識高い系で
ツイッターなどは使ったことも無いどころか全く知らないという人たちは
暴力的に流されるおかしな情報の渦に巻き込まれるだけだ

報道の自由度が我が国は低下しているが、自由度だけでなくその質の低下も
目も当てられない状態になっているのではないかと思えてくる

なんか思い出すたびに怒りがこみ上げてくる
と同時に、これでこの国は大丈夫かと不安になる


コメント (1)
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