パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

第九のシーズンなのでCDを聴いてみたら、、、

2019年12月10日 10時45分29秒 | 音楽

夜のひととき、以前ならテレビを家族で揃って見て時を過ごすこともあったが
最近は見るに値しない番組ばかりで、テレビから退散して音楽に耳を傾けることが多くなった

この時期は第九のシーズン
安易に聴ける曲ではないが、思い立ってデイヴィット・ジンマンの指揮する
チューリッヒ・トーン・ハレ管弦楽団のベートーヴェン交響曲全集のなかから第九を引っ張り出した
以前聴いた時は現代的な活気のある演奏の印象

久しぶりに聞いたら新鮮で驚きを覚えた
テンポが速いだけでなく音楽が合奏を楽しむような趣で
いつもならあまり良く聞こえないような音まで聞こえる
でもそれはベートーヴェンが望んだ音なのかな、、、と思うこともあったが
これもありかな、、と楽しんだ
第一楽章は13分くらい

これを聴いてる最中に、フルトヴェングラーの演奏を今聴くとどんな感情を持つだろうか
と頭に浮かんだ
それで、1942年の戦時中のベルリン・フィルとの演奏で比較した

まず明らかに違うのは演奏時間、こちらは18分位かかっている冒頭の音が、音形が表現するものが違う
ジンマンの演奏は交響曲の主題、これから発展する要素の提示のような感じ
あくまでも音楽的な要素以外はあまり感じない
ところがフルトヴェングラーの音は、何かを感じる
闇の中から音が生まれるような、現れるような、、そしてその音は
フルトヴェングラーの意識とか思いを現しているような気さえする

フルトヴェングラーの演奏は、大づかみにされた巨大なものを感じる
それは音楽というものではなくて、なにか別の体験をしているような気になる
それはある種の儀式のようなものに参加しているような

再現芸術としての音楽は、どの様に演奏するかが演奏家の腕の見せどころと言われるが
フルトヴェングラーは「何を表現するか?」を求め続けた人との評価がある(吉田秀和氏だったかな)
それに思わず納得してしまう
指揮者のあるべき姿も時代とともに変遷していく
それは時代の求めるものが大きく作用して、今はフルトヴェングラーが表現したものは
もはや過去の遺物とか、昔はこのような表現もあったとの例としか存在していないのかもしれない
そんなふうに思ってしまうのは(自分のような彼の演奏で特別な体験をした者は)もったいない音楽体験だと
思うのだけれど、商業的な視点からは注目されないフルトヴェングラーは若い人には存在すら
認知されていないかのよう
(今の人は古くてもカラヤン、バーンスタイン、クライバーくらいが関心領域かな)

フルトヴェングラーの演奏で今でも思い出す体験は、第九以外にもいくつかあって
そのひとつにマタイ受難曲でキリストが息を引き取ったその後に歌われるコラールがある
その始まりは音楽ではなく「うめき」「慟哭」のようなザワザワしたもので、それは
楽譜では表せないなにかのように感じたものだった
これはどの様に表現するかではなく、まさに何を表現するかのよう(ただし録音は極めて悪い)

第一楽章だけ比較するのはもったいなくなって、第三楽章も聴き比べると
フルトヴェングラーの沈潜した思考とか忘我の瞬間は、、凄い
そして凄すぎるために、一度体験したらそれで十分とさえ感じてしまう

フルトヴェングラーのことばかり考えていたが、もう一つ頭をよぎったのは
ブルックナーの8番の交響曲はベートーヴェンの第九の影響をもろに受けていると感じたこと
神秘的な開始、勇ましいスケルツォ、思索的なアダージョ、そしてすべてを統合するような第4楽章
結局のところ、ベートーヴェン、ブルックナー、フルトヴェングラーは同じメンタリティを
持った人間たちでなのではないか、、、と勝手に思ってしまった





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする