令和の出典が万葉集にあるということで、一時期書店には万葉集の文庫本が並んだ
そのうち、自分も4冊あるうちの2冊を購入
時々、指差しパッチン!で適当なページを眺めている
万葉集で覚えているのは(多分)中学の教科書に出てきた山上憶良の
銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも
(しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも )
子どもにまさる宝物があるだろうか という歌で
この歌を知った時は、大人たちはこのように見ていてくれてるのかと
子ども心に嬉しかった
その後覚えたのがリズムの良い額田王の有名な
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
これ以外にも、少しばかり個人的な経験もあり忘れられないのが大伴坂上郎女の
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ(を)
万葉の歌は本当に素直な感情の発露のように思われる
でも素直すぎる表現も少し物足りなってしまうこともある
もう少し時代が下っていくと恋の歌でも複雑な感情を表現するようになっている
リズムがよくて気に入ってるのが待賢門院堀河の
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
同じくリズの良い小野小町の
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
歌の技巧の変化と感情の複雑さが時代の変化を反映しているかのよう
これと同じようなことが音楽の世界でも見られる
バロックの音楽はひとつの思いに直線的な感じがする
その中に技巧(フーガとか変奏曲)はあるとしても、思いはストレートな感じ
それが徐々に感情表現としての音楽は、時代を経るに従って複雑になっていく感情を
複雑な和音と、ひとつだけのテーマで終始しない形式を作り出していき
それが時代にフィットする様になっていく
この変化は和歌の変化と似ているな、、
というのが最近の気づいたこと
和歌や音楽は進歩しているというよりは変化している
と思うわけだが、現在の世間も似たようなもので決して進歩しているとは思えない感じ
結局のところ、すべてのことは試行錯誤しながら(その時代の空気を反映しながら)変化していく
と思ったりする