クラシック音楽が好きだ(特にモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー)
だがこれは一般的にイメージされるような高尚なものとはあまり思っていない
好きなのは実感として充実感を得ることができるからだ
それはサッカーの試合を見たときとか、プロレスの試合を見たときとか
夢中になって本を読んだ時と同じ感覚として捉えている
何かを感じて心の中に残っていくもの、何かを感じるというその量と強度
それらが真面目に聴いた時のクラシック音楽体験は、まるで人生体験と呼べるほどの
インパクトを持つことがある
そして一旦それを知ってしまうと何度もその快感を求めたくなってしまう
ところで、クラシック音楽は楽譜に残されたとはいえ、そこに存在しているものではない
誰かによって演奏されて初めて存在することになる
ここに少し問題があって、演奏された音楽は作曲家の思いとか意図を表現しているのか
それとも演奏家の解釈・工夫を表現しているのか不明なところがある
実体験として初めて聴く曲は演奏家の解釈とか音楽表現には関心がいかない
(演奏家の解釈の違い等は他と比べることによってわかる)
むしろ作曲家の思いとか表現したいものを全身で味わうことになる
聴いてるときは作曲家の意図とか曲の構造とかに関心が行く
問題なのは、この初めて聴く曲を誰の演奏を聴くかという点で
初めて耳にした演奏(音楽)がその人の基準となってしまう
最初のイメージは強烈で、フルトヴェングラーの指揮する第九とか
カール・リヒターの指揮するマタイ受難曲を最初に体験してしまうと
その後体験することになる演奏はこの演奏との比較になってしまう
だがこの経験をした人たちは、ある程度年齢を重ねた人たちで年々少なくなっていく
それは人間に寿命があるので仕方ないが、この自然現象の他に時代の変化による聞き手の変化もある
フルトヴェングラーやリヒターの真面目な音楽対し、別の角度から違う表現を追求して
その時代の空気にあってスマートな表現とか若々しい感じを、時代自身が求めるようになっていった
時代は深刻な何かを感じたり考えさせたりするよりは、消えてなくなる音として心地よいものを
求める様になる(あるいは別の角度からのオリジナルな解釈とか表現の競い合い)
録音・映像技術の進歩にのって全世界に確固たる地位を確保したのがカラヤン
カラヤンはフルトヴェングラーと比較の上で新鮮な面があった
そして多くの人々はカラヤンの音楽が一種標準になっていった
音楽を聴いて(体験して)体の中に残るもの
それを録音媒体を通じて経験すると、フルトヴェングラーとかリヒターのものは
現在の演奏家のものとはかなり違う
それらの音楽を聴いていたのが自分の感性豊かな時で、今はすべて過去との比較に
終止しそうなこともあるが、記憶に残っていて再度追体験したい音楽は
ズシンと何かはわからないが全体として体に残る
現在の音楽は、このニュアンスとか響きが今風だとか部分的な違いが記憶として残る
残るのはこの違いの積み重ねで、全体としてのなにかは(多分自分の年齢のせいもあるが)
あまり感じなくなっている
(今年のウィーン・フィルとベルリン・フィルのブルックナーの8番は曲というより
両オーケストラの音色の違いが記憶に残った)
でもそれは年齢のせいなのか、それとも時代がもはやそうした全体験的な要素のある音楽(表現)を
求めていないのかはわからない
音楽は言葉ではない、感情に訴えるといわれるが、そうした情緒的なものばかりとは言えない
詩的という言葉が、感情的とか情緒的というものから独立したもので成り立つものなら
音楽は音で書かれた詩とも言える
フルトヴェングラーの曲の大づかみの把握、あの図太い音、ロマンティックな音色、忘我の瞬間
そうしたものはもはや時代遅れになりつつあるのだろうか
音楽に求めるものが、、変わってきている
仮に過去の遺物となりつつあるのなら、その遺物の偉大さを知ってるものとしては
それらを大事に扱わなければならない