パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

収容所のユダヤ人は、何故暴動を起こさなかったのか?

2021年06月01日 09時38分43秒 | あれこれ考えること

またもや面白くもない話

映画「シンドラーのリスト」とか「戦場のピアニスト」ではユダヤ人が番号としてしか認識されず
ほとんど偶然選ばれた人が機械的に射殺される場面があって、吐き気を催すものだったが
その時に気にかかったことがある

それはユダヤ人は数では劣るドイツ人に対して少しでも抵抗するとか
感情の爆発(暴動)を何故しないのだろうかという点
それが無駄な行為に終わることは想像できても、少なくとも感情のはけ口になるとか
せめてもの達成感を感じることはできるはずで、それは人にとって無駄なのかは
簡単に決められる類ではないが、人ならばそうすべきだとさえ思えるのだった

そうして欲しいと思って見ながら、実現されなかった(一部ではあったらしいが)反抗
それは何故なかったのかが、いつまでも自分には不思議に思えて仕方なかった

映画を見ている後の時代の我々は、その悪夢の時が終わることを知っている
いくら悲惨なシーンの連続でも、いつかは終わることがわかっているから
どこか安心して見ていられる
ところが当事者であるユダヤ人は、それが何時終わるかはわからない
目の前にあるのは昨日と同じ理不尽な世界
それはまるで永遠に続くように思われる
このような時、人は果たして感情の爆発のような行動を起こすことができるか?
と考えると、それは思いのほか難しいかもしれないと最近思えるようになった

夢も希望もない現実の連続、それは人は人らしく生きることを不可能にしている
ナチスはユダヤ人社会だけでなく、人間性をも破壊したとハンナ・アーレントは述べている
普通ならば、せめてもの仕返しに、、といった気持ちさえ起きないほどの無力感
それは人間性の破壊なのかもしれない

生き物としての生命力、子孫を残すという本能
そうしたものが案外デリケートに脅かされるといった実験がある
(ある昆虫の実験だっだ記憶しているが)
それは雄50匹、雌50匹がある実験箱に収められている
その数は彼らが暮らす事のできる限界で、それ以上は私的な空間が確保できずに
ストレスが溜まってしまうというものだった
ここに雄雌各30匹を追加すると、いくらか時間の経過した後どうなるか?
を調べたものだが、結果は生きられる数の雄雌50匹で生き延びることはできずに
その箱の生き物は全滅してしまったらしい
その理由は、ストレスを抱えた雄と雌は、子孫を残そうとする根源的な本能の活動さえ
発揮できなくなってしまって、子供が生まれなかったからと説明している

日々の終わりの見えない世界の中では、人は部外者が簡単に思うほど未来を夢見ることが
できないかもしれない
ユダヤ人の多くがされるがままになってしまったのは、こうしたことなのかもしれない

これを拡大解釈するのは行きすぎかもしれないが、今のこの国の少なからずの人たちは
自ら意識しているかどうかはわからないが、この状態になっていないだろうか

自発的に何かをする(考える・感じる)という気力の欠如
それは現在は誰かが代わりにやってくれるといったシステムがあるから
そこまでしなくて済むといった問題ではなく、
もっと根源的な生命力に通じるところまで危機は迫っていないだろうか

心配性な小市民はついこんなことを想像してしまう
安全安心を目指すと言いながら、その数値目標とか根拠をはっきり示さないまま
なし崩しに進められていくオリンピック
それを一部の反対を声を上げる人を除いて、大半の受け身の情報消費者
それは自ら考えるという行為(もしくは人間性)を失っているあのユダヤ人と同じではないか
と不安に思ってしまう

それにしても、、、




コメント
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