パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

なにかイラつく、この頃

2021年06月18日 09時32分02秒 | あれこれ考えること

今回のコロナ禍のオリンピック騒動で個人的に関心のあることは、
行うべきか、中止すべきかどのような数値があれば安全と考えられるか、、
といったことではなくて、むしろその外形的な社会の姿の方だ

例えば大会スポンサーにもなっているメディアはどの様に報じるか?
スポンサーは商業的なイメージアップになると本当に考えているのか?
世論は中止、延期が割合として多いが、一般人は何をなしうるか?
オリンピックは特別なものなのか?(日本人にとって、主催者にとって、選手にとって)
オリンピックと商業主義、それにつながる資本主義
そしてそれを可能にする多数決という決め方(議決権を持つのはロビー活動された人々)

つまりはオリンピックが世界との一体感を持つきっかけとなると言ったお題目ではなく
実態としての姿だ

オルテガの「大衆の反逆」では、知識も技術もなく何の取り柄もない人が
そのような仲間が多いというだけで、自分たちが正しい、、かのような行動をすることを
危ぶんでいる
確かに、雰囲気に流されがちな大衆の感情的な判断は、間違いやすいと思われる
しかし制度上では、俯瞰的視野を持ち全人格的な判断をしうるとされる議決権を持つ人は
(物事を決める権利を持つ人は)現実には、ある種の団体の利益代表として存在してしまう

そして選挙運動の稚拙云々では、なれた人々の手にかかっては大衆の意識の方向は
簡単に変えられてしまう
「パンとサーカス」
他人事としては軽蔑的にみなすことができるが、これから国内で起こることは
まさに地でいっている、、ということになりそうな気がする
そして、それはそれで利益を得る人々の望む姿だ

大衆はそんなに忘れやすいものなのか?
自分のこととして考えられないものなのか?
あのマスク2枚の費用と発注先の奇妙さは、もう記憶の外で良いのか?
不安や不満を持っていても、何もすることはないのか(一部の人を除いて)

多分メディアとしての責任を取らない(何かが起きても)
両論併記という逃げる手があるので、片や不安を報じ、片や高揚感を煽り
その結果どちらがより多くの影響を与えることになるのか検証はしない
ただ、事が起きて責任を問われることなると
どちらの見方からもちゃんと報道はしていた、、と言い訳しそう

これは先の戦争前・戦中の新聞の記事を読むと(それがメディアの行ったこととすると)
空恐ろしく感じざるを得ない
厭戦気分ではなく戦意高揚を果たすような報道があったが
それはオリンピックの高揚感を煽るのとどうしても同じ様に思えて仕方ない

こうして田舎にいてもイライラが募る
こんな風に無意識・無自覚なままで進んでしまって、それを多くの人が受け入れるだけ
で済ませていいのか、、
とにかく頭が整理できないが、今に生きる人は将来の人から「あのとき何をした?」
と批判されないか、ちょいと不安


コメント
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