パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

指揮者なしのオーケストラ第九に挑む

2022年05月17日 09時56分06秒 | 音楽

録画しておいたNHKの「指揮者なしのオーケストラ第九に挑む」を見た
途中、用事が入って演奏は第三楽章までしか聴いていないが
通しての演奏の前に、このプロジェクトの進められていく過程が
パートごとにじっくりと扱われていたので
僅かな違いを聴き分けるプロの演奏家の耳はすごいなと感心してしまった

演奏は確かに指揮者が違うと印象は異なる
わかりやすいのはテンポの違いで、それによって曲のイメージは
若々しくなったり、落ち着いたりする
もう少し聴き込むと旋律の歌い方にも違いがあることに気づく
その他にも何故か音色の違いも存在することがわかる
指揮者自体は音を出していないのに、指揮者に従った音に緊張感や迫力
憧れとか寂寥感に違いがあるのは本当に不思議だ

その重要な役割の指揮者がいないとしたら、どんなことになるのか?
を試みたプロジェクトだ
流石にいきなり本番でエイヤッとするのではなく、テンポとか音量とか
ニュアンスなどは事前の練習で皆で話し合って決めていたようだ

このパートごとの会話が面白かった
エピソードにもあったがヴァイオリンの冒頭部分
楽譜は6連符で書かれていてトレモロではない
この意味を考えようと提案した方がいて、番組ではその違いを聞くことができた
聴き比べてみると個人的には確かに6連符のほうが複雑なニュアンスが伝わりそうな気がした
でも、ほんのちょっとした違いだ
このほんのちょっとした違いに対するこだわりが各楽器の奏者の間で自由に討論された

演奏家は素人にはわからない鋭い耳を持っている
弓を上から下へと奏するのと下から上に奏するのは違うようで
最初は違う方法でやっていたある弦楽奏者は、隣の演奏家の音との違いに気づいて
どこが違うのか?と確かめたところボウイングが違うことに気づいて
「それもらった!」と隣の奏者の音色のほうが良いと認めたらしい

演奏家は楽譜を見ると自発的な表現意欲が生まれるものだろうか
それとも、楽譜に書かれていることを指揮者の指示に従って彼の意図を
客観的に表現するだけの存在なのだろうか

一人ひとりの音楽家(奏者)が自分の価値観とか美意識とかに従って
楽譜に書かれていたものを表現したら、一体どういうことになるのだろう
バラバラのまとまりのないものになってしまうのか
それとも人同士の不思議なシンクロする感覚でまとまったものになっていくのか

指揮者は楽譜の中から作曲家の意図を読みとろうとする
あるいは効果的な表現方法を模索する
奏者はそれにただ奉仕するだけでなく、ある程度の自由を与えられた自発的な感覚で
演奏ができたものが指揮者も奏者も幸せではないかと思ってしまう

こうやってほしいというのは、そのままやるというのではなく
その意図を読んで、それ以上のものを奏者のプライドをかけて演奏する
それがいい演奏になりそうと勝手に思ってしまう

フルトヴェングラーの指揮は指揮者の個性が強すぎる印象だが
実は奏者の自発的な力を信じているような気もする(個人的な印象だが)

と、ここまできて、ふとサッカーの監督と選手の関係を考えてしまった
サッカーの監督はゲームプランを考える
そしてそれが効果的に実現されるように選手を選び、事前には練習を行う
ところが、試合が始まってしまったら、ある程度はグランドの選手に任せるしかないのだ
選手は音楽の奏者の表現意欲と似たような自分の感ずるところを発揮したいと考える
一番いいのは選手の個人の感覚がチーム全体と一致することだが
現実世界では選手レベルが高いほどこれは実現される
(チーム力の差は個人の能力の違いか?)

話は音楽に戻って、今でも覚えているのは初めてベルリンフィルを生で聴いたときのことだ
思わず出たのは「めちゃうまい!」の一言
合奏能力が半端じゃない、一人ひとりがこれだけうまいと自分でこうしたい
と思う音楽家は多いだろうなと妙な確信を持った
演奏家の一人ひとりの自発的な表現意欲も満たしたうえでまとめる
それは指揮者のいうとおり演奏しているだけというのとは迫力が違う

今回の指揮者なしの演奏は、個々の奏者の表現意欲の現れがよく感じられるようで
それは少人数の演奏にも関わらず迫力があるように思われた

それにしてもプロの耳はすごいな、、
この録画は度々見ることになりそう

NHKの番組は↓

指揮者なしのオーケストラ第九に挑む!

コメント
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