リュートと名付けられたギターに似た楽器がある
ネックのところが直角に曲がって変な格好の楽器で
説明によると弦は羊の腸でできており
しかも2本セットで張られているようだ
バッハの時代より少し前に盛んになったようで
バッハにもリュートのための作品がある
(あまり聴いたことはないが)
昨日、新城市つくで交流館ホールで、この珍しい楽器のコンサートがあった
(ビヴェラと6コースによる16世紀のファンタジアとシャンソンの世界
コンサート「うたごころ」)
市内と言っても作手は豊川市よりも遠い
この距離は、作手の人たちは新城市の住民というよりは作手の住民
という感覚が強いだろうな!と運転しながら考えた
音楽はめったに聴くことないので、慣れるまで集中がしづらい
音量も大きくない
そして、音楽も素朴で、残念ながらプログラムの一曲一曲が
全部同じように聴こえてしまった
このリュートの音楽は、基本的に歌がメインでその伴奏なり
歌を楽器で演奏したものだったが、聴いていると時代の雰囲気というか
その時代の感情とか精神状態を感じることができた
それは万葉集を読むと、後の時代の歌と比べて
のんびりしたようにと感じるのと同じで、これが盛んに演奏された時代は
難しい問題(神は存在するかなどといった)は、もっと実生活に即した
精神生活をしていたのだろうと想像した
全部同じように聴こえてしまったのは、パターンが似ているからで
リズムは特に際立ったものはないし、メロディもひっかかるようなものはない
不意に、これらの音楽と比べてモーツァルトの音楽はなんと生き生きしているのだろう
と耳にしている音楽とは別のことを考えてしまった
まるで会話のような生き生きとしたモーツァルト
彼の音楽はやっぱり別格というか、奇跡の存在としか言いようがない
ベートーヴェンのそれは人間が達した至高の境地を表現したものがあるが
モーツァルトはあくまでも生きている人間の感情の揺れ動きとか
不意に感じる孤独といったものをサラッと表現していて
一曲一曲は人類にとって不可欠とまではいかないとしても
彼の存在がないと、世の中随分寂しいというか楽しくない世界に思えてしまう
ということで、リュート音楽を聴きながら全く関係のないことを
あれこれ想像したわけだが、こういう時間が結構楽しい
昨晩は暑くて寝苦しい、、と思っていたが意外なことに
4時半まで一気に寝てしまった
久しぶりのドライブと生の音楽に触れたのが頭に心地よい刺激を
与えたからなのだろうか
それにしても最近のコロナ陽性者の増加は、
今月28日の愛知祝祭管弦楽団の「トリスタンとイゾルデ」に
行って良いものか?と悩んでしまう
生の音楽はこの上なく貴重だが、外出して感染したりすると
家庭内の感染も不安だ
第7波が今月下旬は収まっていると良いのだが