夏は暑いのでお気楽な本を読んでいる
直近では松本清張の「目の壁」とか「ゼロの焦点」
葉室麟の「潮鳴り」「蜩ノ記」でそれぞれが二日以内で読み終えている
すると妙なことに気がついた
どうも気になるのは登場人物ではなくて、それを動かしている書き手の
人間性というか、メンタリティのようなものだという実感だ
登場人物に感情移入するのではなく、むしろ書き手の表現技術なり
物語の起承転結の名人芸的な構成を読みながら批評している自分がいた
松本清張も葉室麟も多作な作家のようだ
音楽の父、バッハも多作な人で、毎週のように新しい曲を作っていたようだ
だがそれを可能にしたのは、作曲の法則なりメロディのパターンを
職人的に身に着けていたからのように思える
それを思うと、松本清張も葉室麟も締め切リに追われながらも
一定のレベルを保って作品を作り上げるのは、一種の職人の仕事と思える
書き手の人間性を感じるからこそ、人には相性というのが存在するのだろう
三島由紀夫も太宰治も、どこか全面的に受け入れがたい「嫌な感じ」が
自分には感じられる
もっとも、これは音楽でも同じで、カール・ベームの指揮も
アーノンクールの指揮も、アシュケナージのピアノも、
マレイ・ペライアのピアノもどこか嫌な気持ちが聴いてて生まれて
いつも途中で聞くのをやめてしまう
嫌なのは作品ではなくて、それを表現している人の人間性のようなもの
何故か確信的にそう思う
人には残念ながら相性が存在する
世間評価が如何に高かろうが合わないものは合わない!
と、この歳になると開き直れる気さえする
もっともいつか急に感覚が変わるかもしれないが
今のところは、苦手な人ってのは少なくないな、、と思う