昔、まだ山に登れていた頃「もったいない」と思うことがあった
一つは上高地から明神、徳沢方面に梓川沿いに散策する人の中に
イヤホンをしていた人がいたことだ
多分お気に入りの音楽を聴いたりしていたのだろう
でも耳からの情報をイヤホンで遮断しているのは
川のせせらぎ音、鳥の鳴き声、葉のこすれ合う音、落ち葉の道を踏みしめる音
そこでしか味わえない自然の音を自ら放棄していることで
自分にはそれがとても「もったいない」と思えたのだった
(そちらのほうがいい音楽と思えたので)
もう一つは「もったいない」というのとは少し違うかもしれないが
常念小屋で署名を求められた時のことで、それは
「常念岳にロープウェイを設置する計画に反対してほしい」というものだった
「なんということ(計画)を!」と直ぐに署名したが
それは苦しい思いをしてたどり着いたところから見る槍穂高連峰の壮大な風景は
ロープウェイを使って楽して見えることになった風景とは見え方が違う
と想像したからだった
苦労したからこそ感動的に見える!
と一言で言いきってしまうのとは少し違う気がするが
登山道で経験する様々なこと、疲れてくると余裕が無くなって
自分自身に没入していき、それが自分との対話のようなもので
そのような貴重な体験なしに目的地に着くのはもったいないとしか思えなかった
最近はタイパという言葉で効率を求められる傾向がある
難しい概念や現象をわかりやすく説明することが求められる
例えば古典となっている書物は、殆どが苦労を伴わずに
読み終えることはできない
そして作者に対して「もっとわかりやすく書け」と
怒りを覚えるほどの気持ちになることもある
でも、実はなんとか理解しようとして四苦八苦している時こそが
著者と真に向かい合っている時で、それは知識と言うより
体験という形で刻まれると思う
体験は刻まれるが、その意味はわかるようになった時に初めて分かる
というもので、長い時間沈潜したままであることも少なくないだろう
つまりは難しい本は難しいということを実感したほうが得だということで、
長い本は長い時間をかけて読んだり、難しい本はわからないがとにかく読み終えて
しばらく放おっておいて、内的に今がその時期と思えるようになった時
再読するというのが、充実した楽しみの時間となると思う
なんでもかんでも効率と経済性を求められるが
その結果が引き起こしたものは、最近の社会の人々に余裕のない分断
昔を美化するつもりはないが、手っ取り早くいろんなことを身につける
ことのできなかった昔の方が、教養ある知識人が多かったような気がする
そして彼らがもう少し良い世界を導こうとしていたような、、、
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