パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

個人と国の印象

2022年02月24日 09時27分59秒 | あれこれ考えること

戦争は嫌だ!
と、あの時代を知る母はつぶやく
遠い国ところでもウクライナとロシアの緊迫した状況は
どこか沈んだ気持ちになってしまう

おそらく今世論調査をすると、ロシアに関して良いイメージを持つ人は
少ないと思われる
だがそれは国のイメージとしてのロシアで、ロシア人のことではない
ロシア人が悪いか?
といえば、個人的にはドストエフスキーは好きだし
ロシア人のユーチューバーで、とても上手に日本語を駆使する
山好きの女性に好感を持っている

一人ひとりは、きっとどの国も良い人、普通に感情を共有できる人がいるのだと思われる
それがいったん国となるとなかなか面倒くさいことになる

昔ロシアがソ連だった頃、モスクワに行ったことがあって
そこのホテルでの出来事が今も記憶に残っている
自分らが食事を終えてのんびりしていると、あたりが騒がしい
あるグループが大きな声で時間をカウントしているようだ
すると別のグループもカウントし始めた
周りのひとも煽るように数字(秒数)を大声で叫ぶ

どうやら結婚式が終わったばかりの新郎新婦が2つあって
その2つのグループの新郎新婦のキスの時間の競争をしていたようだ
(多分)お互い負けるな!
という掛け声で酔いの回った周りが大騒ぎしていたのだろう

その時代でも東西冷戦でソ連に対する好感度は日本はそれ程高くなかったとと思われるが
そのバカバカしい、しかし極めて庶民ぽい大騒ぎを見て、一気にその印象は変わった
どこでも庶民は些細なことに幸せを感じたり、面白がったりするものだ
ソ連も庶民の感情は日本人のそれと大差はないのではないか
悪いのは国という大きな括りで、それに人々が振る舞わされることは
なんだかなあ、、と感じたのだった

仲の良い人、心を通わせた人たちがそこにいるというだけで
その人達の住む国と争いごとをしたいとは思わないのが人の常だと思う
現実的には個人同士が知り合うことは無理だとしても
自分たちと同じ様に喜び悲しむ人がいると想像することはできるはずだ

大上段に構えた大義名分は、いつもどこか胡散臭い
理解し合える個人の集合が国とならず
国は国という別個の生き物のように存在すると
犠牲を強いられるのは、末端の命令されたり我慢を強いられる人々となる

物事はそんなに単純化できないとしても、
争い事を望まない多くの人の願いは、どんな時も叶って欲しいと思う




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