3日の水曜日、宇治に行ったついでに寄った平等院
訪れるのは二回目で、前回は池に水が張ってなくて興ざめしたものだった
鳳凰堂の中に入って説明を聞いたときは、暗くて壁画がほとんど消えかかっていて
これは昔からのものだから仕方ないと思ったことを覚えている
今回は塗りたてのような朱色がとてもきれいで、スッキリした清潔感のある
雰囲気を醸し出していた
だが感じたのは、思いほか小さな建物なんだな、、ということ
(サイズ感は実物を見ないとわからない)
鳳凰堂の見学は入場料とは別の費用が必要で、今回の目的は平等院ではないし
前回見たからいいや、とやり過ごした
入場料に含まれる鳳翔館(博物館)にはとりあえず入ってみた
ところどころ成る程と頷くところもないではなかったが、長く覚えているほどのことはない
だがある部屋に入ったとき一気にその場所の空気が変わった
とてもホッとするような、安心するような、あたたかなものが壁からやってきた
大きな壁には「雲中供養菩薩像」が26躯飾られいる
極楽にはこのような音楽を奏でる菩薩さんがいると説明にはあった
極楽が穏やかな静的な世界ではなく、音楽と感覚的な喜びに満ちた世界なら
そこに行くもの悪くない、、
きっと藤原頼通もそう思ったんだろうな、、との思いが頭に浮かんだ
時が経ち平等院に関するほかの記憶が無くなったとしても、この時このように感じたことだけは
きっとずっと覚えているに違いない
どうも記憶というものは不意に訪れた印象を後々まで頭の片隅に残しておくもののようだ
このけったいな記憶(印象)のおかげで平等院の入場料の元はとった、、と考えるのは
貧乏性のせいなんだろうな