パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

迫力の違いは、署名記事と匿名記事の違いか

2021年01月16日 09時26分29秒 | あれこれ考えること

ただそう感じるというだけの話

アメリカの大統領選とか暴動以後、生々しいダイレクトな報道とか
日本では報道されていない情報を知りたくて英語の情報を見ている
先日取り上げたグーグルクロームの日本語訳を借りて読んでいるが
へんてこな日本語訳が多いので、多少ストレスも感じてしまう
(原文と日本語訳が同時に見られるとありがたいのだが)

これらを読むと日本の一部で大騒ぎになっている荒唐無稽なディープステート
絡みのニュースは全く出ていない
もっともディープステート信者は既存のメディアはコントロールされているから
表に出ないだけで、実は着々と計画は進んでいるとの思い込みがあるようだ

アメリカの報道を見ると、通り一遍の原則論ばかりの日本のそれと比べると
一つのことについて更に追求している印象がある
そしてその報道の口調も(文体も)誰かという人格をもった人間が
何かを伝えようとする意欲みたいなものも感じる

日本の報道は中立公平とされるが、実は誰でも書くことができる報道になっていないか
と疑ってしまっている
以前、各地の成人式の記事が新聞紙上に掲載されたが、各地の様子を伝える文章は
決まりきったテンプレートに従ったものばかりで、これなら新聞記者でなくても
誰でも書けそう、、と思ったものだった
5W1Hさえ抑えておけば良いとするならば、それは本当に伝えるべき内容の報道か
そうした根本的な疑問を持ってしまう

この報道の迫力の違いは何故なんだろう?と考えると
それは署名記事か、それとも匿名の記事なのかの差かもしれない(と感じた)

署名記事は、信用できる人の名前さえ覚えておけば、ブランド品のように安定した
品質の情報を手にすることができる
そしてジャーナリストも署名記事で自らの存在意義を社会に認めさせることができる

この漠然と感じられる違いは、思いのほか大きな違いとなってきているのではないか
結局のところ、またいつもの思い込みによる結論に結びついてしまうが
日本人は「個の確立」ができていないのではないか
それはステータスのある記者という職業の立場の人も
個性よりは長いものに巻かれろに優先するか
あるいは低次元の記事の先陣争いに終止していないか

日本の記者はジャーナリストという職業に就職しているのではなく
メディア企業に就社しているに過ぎないのではないか

と、こんなふうに不満が出てしまうのだが、
発信する力とか権利を持った方々は自分たちの力の大きさを自覚して
もっとより良いものを発信してほしいと思うこの頃

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