パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

不機嫌な姫とブルックナー団

2016年11月12日 18時40分11秒 | あれこれ考えること

やはりブルックナーは女性には人気がないというのが定説のようだ
自分自身がプログラムがブルックナーのときにコンサート会場で男ばかり見かける
といった経験をしている訳ではないが
何故か「絶対女の人には受け入れられない(理解されない)音楽だ」
と妙に確信を持って思い込んでいる(絶対間違いのないと思い込んでいる)

電車の中で読み終えたこの本

冒頭に、女性でブルックナー好きは珍しいという話から始まっている

この本は残念ながら、ブルックナー好きの男の立場からすると
少し物足りない
確かにオーストリアの田舎者丸出しで、鈍くさくて、常識知らずで
強気の人にはからっきし弱くて、それでいて若い女性に相手の気持ちも考えず
結婚を申し込んだりする、、少し変な男のことは書かれている
ブルックナー好きな者なら知っているエピソードを、うまくまとめて
ある人の小説(インターネット上のページ)として取り上げているのは
ひとつのアイデアだ

しかし、もう少しウダウダと書いてほしかったのは
(それが独断であれ偏見であれ)ブルックナーの音楽は
男しか理解できないと思うのは何故か?ということ

これが充分なほど(くどいほど)書かれていないので
なにか中途半端に放っておかれた気がしてしまう

ところで、ブルックナーは何故女性に受けないのか 
の自分なりの考えは、、、
感情的、情緒的ではないのもひとつの理由ではないかと考える
なかなかきれいなメロディもあるが、ショパンやチャイコフスキー
ブラームスのような情感に訴えるものではない
それは瞑想的な思索的なメロディ
子供の頃、男の子は機械もののおもちゃが好きで
女の子は花が好きみたいな、最初から向かう方向性が違うような
その差がここでも見られるような気がしてる
別の言い方をするなら、理数系が好きなのは男
文化系が好きなのは女  みたいな違いがここでも見られるのではないか
ということ

しかし、ブルックナーが苦手な女性も、彼のピアノ曲
「思い出」とか「秋の夕べの静かな思い」とか「幻想曲」
を聞いたらきっと考え直すかも知れない

でもブルックナーの本質は
あのピアノ曲の聞きやすい方向性を求めなかった点で
とっつきにくい音楽こそが(いったんハマってしまうと逃れられない魅力にみちた)
彼の音楽そのもの
それはゴッホがゴッホになったように
ピカソがピカソになったように
アラベスクのドビッシーが前奏曲のドビッシーになったように
求めたいものを求めてブルックナーはブルックナーになったということ
きっとあのピアノ曲だけのブルックナーだったら並でしかなかった

へんてこなとっつきにくいけど運良くハマることができた人には
人生の喜びのひとつとして感じられる音楽
8番の3楽章は、やはり多くの人が最高の音楽として認めている
あの音楽は聴いていると長いのか短いのか、だんだんわからなくなってくる

田舎のおっちゃんのブルックナー
鈍くさくて、世渡りが下手で、容貌が冴えなくて、、
でも音楽は、自分にとっては、、すばらしい
(でも、ほんと何故女性には理解できないと確信をもって感じるのだろう?)

 

 



 

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市民の声を聞く機会

2016年11月11日 08時50分59秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市の話題で他の地区の人には関心がないかもしれない
自分のためにメモ的な意味も込めての投稿 

先月、新城市内の数カ所で行われた「地域意見交換」
そのうちの何回か出かけたが、全体を通して疑問に思ったことがあった
それは「意見交換会」と名づけられた催しだが、果たしてそれは
ほんとうの意味で市民との意見交換会となったのかという点

催しの進め方に対する不満ではなく
(独断だが、なんとなく市民の声を聞きたくないようニュアンスがある進め方だったので)
新城市には「市民の声を聞く」システムが果たしてあるのだろうかと考えてしまった

最近でこそあれこれ文句を言う存在でいるが
ほんのすこし前までは何も知らない立場でいたから
もしかして市民の声を聞く機会はシステムとしてあるかもしれないが
今のところはっきりこれだと自覚できるものはない

市民まちづくり集会と言うものがあるが
これは意見を聞くというものとは少し違うような気がしている
議会報告会も市民の声を聞く機会ではなさそう
(現場では市民の思い等が発露されることがあっても)
地域自治区のシステムも地域協議会のメンバー以外には対して関係なさそうだし
メンバーが必ずしも市民の意見を反映しているとは思えない

自治基本条例や議会条例には、文言として市民の声を聞くことになっているが
具体的にどうやって行われているかわからないのが今の自分の立場

そこであれこれ便利なネットを彷徨っていたら
どうも自治基本条例(まちづくり基本条例)とセットで
「市民参画条例」と言うものをつくっている自治体があることを知った

これは行政と市民が共同して進めていくやり方を示したもので
市民参加者の固定化、人数の少なさなど実施していく上で
問題はあるようだが、現実に自治体の大事な問題について
予め市民と打ち合わせをしていく段取りを保証している

ざっと目にしたところでは、愛知県東海市、岐阜県高山市にそういった
「参画条例」があった
これが時代背景を反映して必要なものとなりつつあるのか
はたまた間接民主制を少しばかり脅かすもで安易に取り入れるのは
まずいかものなのか正直わからない
ただ、羨ましく思うのはシステムとして
「市民の役割・責任」みたいな抽象的なスローガンに留まらず
その具体的な声の聞き方が示されていることだ

新城市では住民投票までなってしまった経緯があって
その際に「市民の声は聞かれているのか、届いているのか、聞く機会はあったのか」
と強く感じたものだったから、予め市民の声を聞く機会を確保しているのは
随分羨ましい

新城市は自治基本条例を作成した時点で、
住民投票条例をつくったのと同様に「市民参画条例」とその(実施)規則等をつくるのが
より現実的であった思われるが、それはされなかった
つくづく残念

でも条例はあっても市民間に伝わらず、
あるだけ!という状態はなんとなく想像がつくので
大手を振って歓迎できないかもしれない
でも、ないよりはマシ

ところで、関連リンクとして

高山市市民参加条例

東海市市民参画条例

静岡市市民参画の推進に関する条例

そして興味深いブログ 小金井市の市民参加の問題点


 

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敗者は世論調査・マスコミ・知識人

2016年11月10日 08時19分44秒 | あれこれ考えること

イギリスのEU離脱の可否を問う国民党投票に続いて
アメリカの大統領選も事前の予想を裏切った結果となった
僅かの差だが勝利をおさめると思われていた残留やクリントン氏が敗れることになった

今のところマスコミは何故クリントン氏が負けたのか?
と分析をしているが、自分が興味をもつのは
何故今回も世論調査やマスコミの事前の予想が外れたのかという点だ

勝負事でやってみなければわからない 
とは言うものの、幸か不幸か日本では今のところ事前の予想と
外れる結果は出ていないだけに不思議な思いが残る

世論調査の母集団の設定、それらの数字の解釈
それらは本当に通奏低音の様に流れる「気分」を把握しきれていたのか
遠い国から勝手に想像するだけではわからないが
定量分析では把握しきれない何かがあったんだろう

言葉に出せないが深く沈潜した怒りとか思い
そうしたものを数字としてカウントできなかったのは
マスコミや知識人の想像力の欠如なのかもしれない

出てきた数字がすべてを語る
というのではなくて、数字に現れない僅かな兆し
それらを捉えることをしていかないと
今後も同じようなことになりそう

今回の大統領選は多くの人がそれぞれ発言しているので
詳細な情報を持たない自分は、あえて採りあげることはしない
ただ、将来を左右する大きな事件を2回とも「外した」世論調査やマスコミは
これをもってどう考えるのだろう 

日本人は「みんなと同じ」と思いたがるようだから
 事前の世論調査やマスコミ報道で示された結果と異なる投票は
しないのかもしれない(単なる独断だが)

しかし、時代は変わりつつある
悪い方向に行かなければよいが

 

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読書中「善と悪の経済学」

2016年11月09日 08時18分24秒 | 

勢い込んで購入したものの、最後まで読めるか心配なのが厚い本
心配したとおり途中でブレーキがかかって少しの間ほったらかしにしていたのが
この本

それでも貧乏性の自分は「もったいない」と思い直し読み続けると
これが、途中からとんでもなく面白い
今も読書中だが、ページが進んで本が終わりになるのが惜しいくらい
となっていてる

何がそんなに面白いか、といえば残念ながら上手くレヴューを書くことは出来ない
何しろ話が多岐にわたっている
その一つ一つをトータルに捉えて自分の解釈で人に伝えることは
今のところ頭の中が整理できていないので(これからも整理できない?)
分かりやすくはできそうにない

ただこの本の内容は、比較的短い章に分かれているので延々と集中力をもって
読み続けなくてはならないこともなく、その点は楽だ

多分、この本の大きなテーマは経済と倫理の問題
それを神話、哲学の立場から取り上げている(今まで読んだところまででは)
そして、いつのまにか「倫理」が軽視され一見科学のような経済学(数式・グラフがオンパレードの)が
それこそ宗教のように扱われ理解されつつあることの対する警鐘を述べている
「神の見えざる手」有名なアダム・スミスの言葉の意味とか歴史を多方面から解説されている

確かに人間は社会的な存在であることは間違いない 
しかし、その人間を経済学の要素として扱うには
人間をあまりにも単純化していないかとの文章があるが
これは民主主義という言葉を使う時の市民とか大衆とかを一括りにした時の
単純化する傾向と似ていると、本筋とは関係ないが連想してしまった

正直、あまりにも多岐に渡っているし、参考として取り上げられる人物や文献の
知識もないので読み飛ばすだけだが、それでもそこで参考として取り上げられた本は読んでみようか
という気にはさせられる 

読み進めているうちに付箋も箇所をつけて、記憶にとどめておかなければならない部分も
増えてきたが今のところは最後まで読むことが最優先で
あとでその部分だけ読み返すことにするつもりだ

最近の記憶力の低下で読み終わった後、何が頭のなかに残っているかは
少しばかり怪しい面があるが、それでも「読む前と読んだ後は絶対に違う」
という印象をもてる本だ

ところでこの本の著者はチェコの経済学者
ピケティと同様に経済学の分野に留まらない広範な教養をもつ
彼の頭のなかには壮大な知識や人の様々な感情が詰め込まれていて
それがトータルな一人の人格というものを作り上げていて
この全人格的な人が判断することは、将来に対しても
そんなに間違いはないだろうと感じさせる

そんなことを思うのはつい比較してしまう日本の事
果たして日本でこの様な全人格的な、幅広い知識と教養をもった人が
この様な本を書けるか!と考えてしまう

日本でベストセラーになるのは、このようなそもそも論ではなくて
手っ取り早いハウツー本、あるいは解説本
それが一概に悪いとは言えないが、やっぱり彼らには勝てないかな!
と思うのは日本では根源的な思索がなされていないからで
そのことを気にしない社会も問題はありそうだ、、

昨日また新しい本をAmazonで購入してしまった
それらが来る前に、最後まで読まなければ、、
(付箋の部分はいつか機会があったら、自分のためにも採りあげる、、かも)
 

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クオリティの高い選手がいなかった今年のグランパス

2016年11月08日 08時54分35秒 | サッカー

グランパスはとうとうJ2に降格
その程度の実力しかなかったことと
一度悪くなった 流れを変えらなかった
悪くなるときは何をしてもうまくいかない典型のようなシーズンだった

そこで犯人探しをするわけで、フロントが悪いとか
社長が悪いとか、、、
確かに誰かに物申さねば感情が収まらないということもあるだろう
(豊洲のゴタゴタも誰かに責任を取ってもらわないと
 スッキリしない感情が一般市民にはある) 

でもサッカーのチーム力というのは、日本人の大好きなチームの団結とか
チームワークでなんとかなるものではない面もある
簡単に行ってしまえば、クオリティの高い選手がいるチームは強い
バルサだってレアルだって、またバイエルン、シティしかり
(今のミランの成績は本田には悪いけどクオリティの高い選手ばかりとは言えない)

日本でも同じこと
レッズは質の高い選手を確保している
その質の高い選手や隠れたポテンシャルを見つけるのがフロント、スカウトマンの
仕事といえばそうだが、基本的には良い選手を揃えるのが基本

今年のグランパスの試合はどうしようもないパスミスとか
攻撃にスイッチが入る時のパスの精度が悪かった
あれをよくあることとか、仕方ないと思ううちはダメだな
サッカーは一試合に何回ボールに触れるかのゲーム
その少ない回数に上手くいかない事が多ければ全体としてうまくいくはずがない

日本人は残業して働いている姿を一所懸命働いていると思いがちな傾向がある
(最近はそうでもないかも知れないが)
この姿を良しとする気持ちが、多少のミスが有っても走り回る選手を好意的に捉える
確かにそういった姿は心を打つ時がないとはいえないが
それでも肝心な仕事を全うできないとダメ
(岡崎が評価できるようになったのはひたむきさだけでなく
 結果も伴うようになってきたから
 以前はFWとしてはひたむきだが効率の悪い選手としての外国の評価) 

何にせよ、J2に降格したことは夢でも幻でもない現実
一年で復帰をサポーターは望むが、J2にクオリティの高い選手が来るかが問題
想像以上に困難な道程のような気がする
果たしてグランパスのサポーターはレッズがJ2に降格したときのように
愛を持って応援し続けられるか、、

昔、阪神は 大阪人にとって出来の悪い子で
それ故にかわいくて仕方ないという感情があったようだが
愛知県人は果たしてそんなふうに思えるか、、 

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オーケストラの音、指揮者の音

2016年11月07日 08時08分15秒 | 音楽

昨日は法事で岡崎へ出かけた
普段は新城ののんびりした環境にいるので
岡崎市内の自然渋滞には少しばかりイライラを感じた
やっぱり田舎もんは田舎のほうが落ち着くなと再確認

さて本題(?)

秋になると聴きたくなるのがブラームス
その中で、クラリネット五重奏曲と4番の交響曲は本当にこの季節にふさわしい
SNSでこんな動画を紹介された

フランス人のミュンシュの指揮するボストン楽団の4番の交響曲だ
そう言えば今年の秋はまだ4番は聴いていない
ということで新鮮な気持ちで聴いてられたが、これがなかなか興味深い
音色がなんというのか明るい
明るいと言ってもイタリアの直射日光の日差しのような明るさというよりは
もう少し穏やかな晴れた日曜の朝のような感じ
木管のせいなのか弦のせいなのか素人にはわからない
でも、そう感じることには間違いない
テンポも時折加速したり(加速を感じさせたり)でどことなく
フルトヴェングラーを思い起こさせた 
そのまま連想は続いて、フルトヴェングラーのテンポの伸び縮みは
気まぐれというより必然性があるなとミュンシュの演奏とは関係ないことまで及ぶ

それにしてもこの音色 何が違うのかと思っていたら昔のことを思い出した
バレンボイムがパリ管を連れて名古屋に来たときのことだ
今でもはっきり覚えているのは2つのこと
ひとつはアンコールの精霊の踊りが抜群に良かった
まるでお酒に酔った後の、あるいは魔法にかかったかのように
忘我の境地で、演奏が終わった後拍手が鳴り出すまでしばらく静寂が続いた

そしてもう一つのことは、オーケストラ演奏の始まる前の儀式の音合わせ、
(チューニングのとき)普段は気にしないこの儀式の音色が妙にいつもと違う 
気がした どんなふうに違って、何故違うように感じたのかは深くは考えなかったが
とにかく今でもあんな僅かなことでも音って違うものだということが
記憶に深く刻まれている

ところで、この音色の違いとは指揮者の影響なのか
それともオーケストラの音の違いなのか 
パリ管のチューニングのことを思うとオーケストラの固有の音色なのかもしれない

いつものように話は飛んで大好きなブルックナーの8番
カラヤンの演奏は晩年にウィーンフィルのが有名だが、
自分はもっと若い時代のベルリン・フィルの演奏の方の音色に魅力を感じる
ライナーノーツのよればベルリン・フィルのメンバーはフルトヴェングラーの
下で演奏を続けていた人たちがまだ多く残っていたという
そのせいで(?)カラヤンの音ではなく、もう少し柔らかな中欧風の音色のような
と言っても全く感覚的な印象に過ぎないが 

でもそうやって考えると、指揮者の影響力も音色に大きく作用する
これはプロの人にはあたり前のことかもしれないが
久しぶりに聴いたブラ4で思いついたあれこれだ

このブラームスの4番、4楽章の終わり方が唐突な感じを受けることが多いが 
必然性をもって確かに終わったと感じさせられて、納得したのはフルトヴェングラーの演奏
それが何故なのかは、これまたよくわからない 

結局、フルトヴェングラーが大好きと言いたいだけなのか(?)

フルトヴェングラーの一気呵成で壮絶なブラームスの4番のフィナーレ練習風景が
動画にアップされている
指揮者も奏者も必死の形相 これがリハサールとは思えない
でも当事者は幸せだったんだろうなと勝手に思ったりする
その動画はこちら


 

 

 

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新手の迷惑メール(勧誘)

2016年11月05日 07時33分58秒 | 徒然なるままに

先日、夜中にビン!と聞いたことのない音がなった
どうも枕元のiPhoneからのようだ
それで、画面を見てみたがメールは来ていない
何だったんだろうと思いつつ、放ったらかしにして朝を迎えた

翌日、さて今日の予定は!とアップルの最初から入っているカレンダーを見ると
自分で記入した記憶のない予定が入っている
いや予定が入っているというよりイベントのお誘いだ
そのお誘いは、漢字がダラダラと並んでどうも中国からのようだ
よく見るともっと驚いた
お誘いはエンドレスに毎日記入されている
何だこれは!ということで参加しない旨のボタンを押そうとしたが
ちょっと考えた、これを押すと相手には明らかに自分の存在が分かってしまう

危ない危ない、もうちょっとで相手の作戦に乗るところだった

無視し続ければ問題はないのだけれど気分が悪くてアップルのサポートに連絡した
話によるとこのケースはまだ無いようす
どうもiCloudの何かが影響しているようだ
自分のiCloudの宛名が知らない誰かに勝手に使われて
カレンダーにイベントのお誘いをしているようだ
削除できるのは送った本人だけ、、ホントに困るし気分が悪い

ということで、あれこれトライしてとりあえず
けったいな毎日のお誘いの表示は見えなくすることができた 

ところが話はそこで終わらない
昨日の夜中、また妙な音がした
今度はiCloudの写真の共有にけったいなお誘いが入っきた
これも全然記憶のない人からで、またもや漢字(中国語)が書かれている
多分これも自分からは削除出来ない

ホント朝から気分が悪い 
アップルからは来週電話が来ることになっているが、この話もしなくては

それにしても、困ったもんだ
無視し続けても気分が悪い

悪い奴っているもんだ
ああ面倒くさい! 

 

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のり弁(海苔弁)

2016年11月04日 19時18分41秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

もしかしたら、どの自治体でも自分の住んでいる地区のことより
東京都の事のほうを良く知っているかもしれない
豊洲市場や東京オリンピックの会場の話を仲間内で評論家風に
話し合えるかもしれない 

残念ながら新城市もその例外ではないかもしれない
でもこの画像を見たら市民は一体どんな思いを持つだろうか

(画像クリックで別のページで開きます)
右側のページの上部はいわゆるのり弁(海苔弁)だ
東京都の豊洲関連のテレビで見たことが新城市で同じように見られるのだ
普通の人はこの画像を見るとショックを覚える
真っ黒じゃないか、なんで塗りつぶされているのか、、、と

この画像は「新城市政を考える会」の会報3号の6.7ページをスキャンしたもので
内容は以前からこのブログでもたびたび取り上げている新庁舎建設地用地以外の物件に対する
異様な補償費の支払いについての疑問点を解説している

真っ黒なのがコンサルタント会社が市に提出した対象外でも補償費を
支払っても良しとする理由が書かれた書類で、一番肝心なところは
ご覧のように判読できない

この会報は実はもう少し突っ込んだ表現をしている
右のページの中央部分の黒ベタ白抜きの文字で
コンサルタント会社が市に提出した「市の指示で虚偽文書が作成された」
と思われる調査報告書と書かれている

実はこの様に言い切っているのには理由(根拠)がある
単に思い込みや想像で言い切っているのではない
その根拠は今は明らかにしないが、時が来ればいずれ明らかになるかもしれない

生活に直結する自分達の市の情報が周りになくて
遠い(あまり自分たちと関係のない)東京の事をよく知っているというのは
今の少し異常なマスコミの伝え方のせいもあるが、
似たような変なことが地元でも起きているという事実は大きい

本来ならば市政などは自分たちが選んだ人たちにお任せして
のうのうとしていられれば良いのだが、どうも自分たちは
自衛のためにも(自分たちのために)自分たちがしっかりしなくては
ならなくなっているようだ
(きっと新城市以外でもそうだろう) 

それにしても、のり弁(海苔弁)どう考えても不自然!



 

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男の気持ち、女の気持ち

2016年11月03日 08時06分50秒 | 徒然なるままに

「冷静と情熱のあいだ」という小説があった
ある物語を男の立場、女の立場で書き進めていくもので
男の部分は辻仁成、女の部分は江國香織 が受け持って
後に竹野内豊が主演した映画にもなった 

同じ物語と言っても時間は同時刻ではなく、小説らしく起承転結が
ある構成になっていた
男の自分は辻仁成の方にシンパシーを感じた
江國香織さんの方は、ちょっと感覚的というかすっきりしないところがあって
こんなものかな!と思ったりしていた

ところで、この様な男の気持ち、女の気持ちを表現した音楽をYoutubeで見つけた

男の気持ちの方は森田公一とトップギャランの歌う「乳母車」

そして女の気持ちの方は竹内まりやの歌う「駅」だ

どちらも上手くいかなかった話の後日談だ
この扱い方が、「冷静と情熱のあいだ」に通じるところがある
なんとなく(だが)男の方は客観的、女の方はまだ引きずっているような内容
(しかし、現実には引きずるのは男の方で、女の方はサバサバしてることが多いらしい) 

小説も歌も女の人なら当然わかるという感覚を男は持てないでいるので
話や感情が飛躍してるように感じられたりする
とまあ、わざわざ変なことを考えなくても
ただその世界に浸っていればいいだけのことだけれど 
なんか気になったので取り上げてみた

やっぱり女の気持ちは、、、わからない、、 

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「どやばい村」とは何だったのか?

2016年11月02日 08時12分12秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

またまた愚痴のような新城市の話題

おそらく多くの新城市民がそのイベント・行事を知らないことに
3月に実施された「どやばい村」がある(もちろんお金も使った)
市長がブログでも取り上げたが、その時にポスター画像も
関連リンクも紹介されていた
ところが、これが「何をして何が目的なのか 」すぐさま直感的にわからない
ふつう良い企画書というのはA4一枚で容易に理解できるもの
とされるが、これは読んでも何をするのかわからない

市長のブログは「どやばい」という言葉の最近の使い方について
昔とは違っていて肯定的な意味がある
みたいなことを述べていたが、具体的な内容は行事スケジュールを見ると
バーベキュー大会や交流イベントが多い
この参加者は日本中から募って交通費まで支給したらしいが
どうやって募ったのか、新城市民にも内容がわからないのに他の地区の人は
果たして理解して参加する気になったのだろうか
(本当に純粋に集まったのかとさえ疑問を持ってしまう) 

どやばい村に参加した若者のレポートはインターネット上で見ることができる
若者はそれなりに与えられた時間内は一生懸命取り組んでいたようだ
珍しい体験や、他の地区の人との交流ができて、しかも行事の最終日は
徹夜近くまで案を(残念ながらどんな案かわからない)練っていたようだ

若者は、与えられた問題に真面目に取り組んでいるから
その課題に対する完成度が高かろうが低かろうが、あまり問題ではない
しかし、問題はなのは、何を行ってどんな結論が出て、どのくらいの費用を使ったのか
がさっぱりわからないことだ
何が行われ何が結論として出たかわからないから次に活かしようがない 

市長は参加した若者に、挨拶でいつもの何かよくわからない客観性のない
話をしたようだが、記憶に間違いがなければどやばい村の話題を
ブログでいつか採りあげるみたいなことも書かれていた
しかしそれは書かれたか?

例えばこのイベントの費用が市の予算ではなくて国の補助金であって
直接的には市には負担がかからないとしても
それでも、こんな風に普通の人に何もわからないまま
実行されてその報告も無いというのは、どういうことなのだろう

もちろん普通の人は、今までも市のことをすべて知っていた訳でもないし
あらゆることに関心があるわけでな無い
それでも、不信感が募っている昨今においては
もっと分かりやすく、伝えるべきではないのか

ところで、8月に「どやばい村」の 続きのイベントがあったようだが
何があったのか、さっぱりわからない
ある人はバーベキュー大会?の声
担当した職員も一生懸命手伝っただろうから、自分の仕事ぶりを
素直に紹介すればいいと思うのだけれど、、

今朝は朝から文句言いの投稿でした
(本当は毒にも薬にもならない話が好きなのに、、) 

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