パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

新聞報道のその後

2018年03月17日 18時59分29秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

3月10日の中日新聞の以下の記事は流石に当事者(新城市議会議員)にも衝撃を与えたようで
さっそく議会としての対応を迫られたようだ
その記事とは山崎議員が中心となって行っている地域自治区の活動交付金の領収書の
日付等の書き換えがあり不正があったとするもの(以下の画像)



議会が早めにアクションを起こしている(?)のであれば、議員さんがその後の顛末とか経過報告を
何らかの形で表にしてくれれば良いのだけれど、どうもその兆しがなさそうなので、おせっかいながら
自分のわかる範囲内での経過報告を
全部が全部、正確な経過というわけにはいかないかもしれないし、多少の間違いはあるかもしれないが
少なくとも自分が理解した範囲内での報告となる

恥ずかしい報道が東三河版ではなく県内版に掲載されたことを重く考えた市議会は
さっそく全員協議会を招集し議会として対応策を考えることにした
議員さんたちは各々どうすべきか意見を交換しあった
だが大勢のまま討論を続けるのは効率が悪いらしく、この討論は「議会運営委員会」に委ねられることになった
(全員協議会に要した時間は極めて短かったという話があるが、傍聴していないのでわからない)
議会運営委員会(下江洋行・柴田賢治郎、小野田直美、鈴木達雄、中西宏彰各議員、『山崎議員は当事者のため参加せず?』)は意見交換の後、意見を取りまとめ、その結果を再度開くことになった全員協議会(3月16日開催)に提出しその方針の賛否を問うた
議会運営委員会の結論というのは「謝罪と市民への説明責任を求める」というものらしい
(この日は傍聴に出かけたが手元に資料がないのでわからない)
議会運営委員会のメンバーではない議員さんは、どのように話が進められたかよくわからないので
全員協議会では単に「謝罪と市民への説明責任を求める」だけでなく、実際に何が行われたかを議員も知るべきでその後で対応策を考えるべきという意見が多かった

ここで問題なのは、議員さんの間でこの件に関する情報量に個人差がかなりあり、領収書の日付等の以外にも説明を要することがあるとする議員がいれば、それこそ何も知らない議員さんもいる
全員協議会で出た意見で気になったのは「ここは何かを調べる場所ではなく、議員には調査権がない」というもの
ことの顛末を良く知っている議員さんと、知らない議員さんはその危機感に対する感じ方が違ってくる
知っている(振興事務所、該当団体への聞き取りなどで)議員さんは、それこそ不祥事が続く新城市議会の危機と考えるが、知らない議員さんは「市の調査を待って」自らは何かを知ろうとせず、市の報告を100%信じて対応しようとしているようだ
まさか新城市はそんなことはないと思うが、国でもまさかそんなことがあるはずがないと思われるような
「公文書」の不正が行われていて、残念ながら市の報告も無条件に信じて良いのかは疑わしい
だから少なくとも野党のヒアリングのように議員さんも自ら知る努力をすべきかと思うが、それはしないようだ

そしてもうひとつ不安(?)は「謝罪と市民への説明責任を求める」場所が今回の議会最終日に行われ
市の調査を待って、というものの結果的に、それでこの件は終了となってしまわないかという点だ
実はこの様な(一旦謝罪をしたから良いのではないかで済ますような)例は今までにいくつかある
でも今回はことの重大さが全然違う
市の税金が不当に使われている可能性があるのだ
議会最終日に「謝罪と市民への説明責任を果たす」だけで終了しないことが、議会運営委員会の結論の何処かに書き込まれるかキーポイントとなる
実際に全員協議会ではそうした意見があった(書き込むべしとの)

ところで、ある知り合いが新聞の記事を見て話しかけてきた
彼はいつの間にかこの件に関してとても物知りとなっていた(それで自慢風に話かけてきたのだが)
つまり領収書の日付だけでない疑惑と、その具体的な数字も知っていた
とすると、この話はもしかしたら、市議会議員は知らないかもしれないが
かなりの人に知られていることなのかもしれない

とにかく言えるのは、ダメなものはダメということ
誰もが納得できる説明責任を果たさなければ、許されるようなことではないということ






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結局は生き方の問題!(判断の根拠は?)

2018年03月16日 20時11分57秒 | あれこれ考えること

昨日の続き、、
上司の命令が法的に間違っているかどうかを簡単に判断できる以外、
公務員は意見を言うことはできるが、結局のところ従うしか無いような法になっているようで
仮に限りなく怪しい命令だとして法的に争うと、命令された方の言い分が正しい(命令は間違い)となることは
あまりなさそうな(あるいは時間がかかる)状況というのが昨日までの理解

となると、正直な人々の現実的な対抗策は「面従腹背」しか無いのかもしれない
文科省の前川さんも、現役の時に言えばよかったのではないのか、、と簡単に言われるが
現実には法的にも現実社会的にも難しかったのは想像できる

これらは何も公務員に限らず、民間の社会でも上司の命令に自らの判断で文句を口にすることは
精神的な面で抵抗感があるようなのは容易に思いつく

たまたま今朝見かけたモーニングショー、玉川さんと言われる方の佐川さんの心情を想像したところは興味深かった
それは現象面の良し悪し、モラル的な視点だけでなく、人としての生き方として佐川さんはそれで良いのだろうか
との視点で話をしたからで、この手の話はテレビ的な話題ではないので登場者はたいして気にかけず
あっさり無視されたような事になってしまったが、実はこの部分が大きいのではないのかと思ってしまった

人の判断の基礎となる部分、全人格的な問題、何をもって人は価値あるものと考えるか、何を美しいと感じるか
どのうように生きるべきか、、こうした答えのないような問を考えることなしに専門分野のみの知識に
特化して生きることの弊害が今この国の停滞を招いているのではないか
つまるところ生きることは判断の連続、その判断の一つ一つを間違えないことが良いのだが
その判断についての自分自身への疑い、自分の不完全さの認識、他者との関係性、コミュニケーションの不完全さ
また生き物としてのずるさ、いい加減さ、、、そうしたもろもろのことを考えずに人を純粋な実験室のような
無駄を省いた抽象的な存在の推論だけで、あるいは性善説・性悪説のような無理やり単純化されたものとしての
存在と仮定すること自体が間違いをおこす遠因となっていないだろうか
もちろん、それらは抽象的すぎる
具体的に何をどうする、、という行動面での指標はないかもしれない
しかし、それらの過程を人生で経た人は何かが違うのではないか

ゴチャゴチャ言ってるが、要は全人格的な判断を行える人材をできるだけ多く作り出すようなシステムにしないと
まずいのではないかということ
でもこの「全人格的」という言葉が、何の抵抗感もなく使えたりイメージできる人と、
何のことかよくわからない(馴染みがない)という人が存在するだろう
願わくば、前者が多いことを望むが、、、

相変わらずわけのわからない話、、、でも、自分は今日そう感じたということ







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急ブレーキ

2018年03月15日 19時28分15秒 | 徒然なるままに

最近本を読んでいない
手元には図書館から借りてきた本が二冊、アマゾンで購入した本、途中で投げ出して再挑戦しようとする本がある
しかし、どうも読む気になれずにいる
それはまるで急ブレーキを踏んだかのよう
少し前まで気負って難しそうな本に挑戦した反動が来ているのかもしれない
もしかしたら、森友学園の決裁文書の改ざん絡みの現実が、時代の変わり目かもしれない気がして
そちらの方に関心がいってるせいかもしれない

それにしても、よくわからないのが国家公務員法の以下の項目
法令や上司の命令に従う義務(国家公務員法第98条第1項)
職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

これを現在問題となっている改ざんした人物に焦点をあわせると
彼は職務上の命令に従っただけだとすると、その人は罪に問うことができるのだろうか
法律というやつはややこしくて、職務上の命令が成立するのが定義されていて

  • 権限ある上司から発せられる命令であること
  • 上司の職務権限内の事項であること
  • 実行可能な内容であること

職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合は、無効であるから従う必要はない。
ただし、当該命令が無効であるか否かは、客観的な認定によるべきものであり、
部下が上司の職務命令について実質的な審査権を持つとまではいえないものと解される。
(結局個人の判断は無効?部下は反対意見をいうことはできるが、それだけ?)
当該職務命令を無効であると判断した職員は、その判断した結果について責任を負わなければならない。

どうも素人目には、無効な命令等が厳密に定義されているわけではなそうで
この法律自体に不備がありそうな印象を持つが、それは国家公務員が悪いことをするはずがないから
今回のような場合は想定外で当てはめることができないで、彼は上司の命令に従っただけで悪くない
ということになってしまうか、むしろ従わなければならなかった、、ということにもなりそう

ここまでくると、一般人の常識的な理解の範囲を超えている
部下が悪いと思っていることでも、その悪いかどうかは彼の判断で決まるわけでもないから
彼はその職務上の命令を拒むことは出来ない、、

正直なところ、よくわからない
それで胸の中がモヤモヤと気持ち悪い
誰かスッキリできるようにこの法律を教えてくれないかな、、と思う
もう一度ハンナ・アーレントの「責任と判断」を読み返してみようかな
何かヒントが見つかるかもしれないから

しかしそれにしても、ブレーキを踏んだ状態が少しばかり長すぎる
いつもなら読書熱再点火は軽いミステリーが良いが、どうもそれも気が進まない
焦る必要はないのだけれど、何故か焦ってしまう、、
ま、いいか、いつかその気になるまで待つしかないか、、、、









 

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3つの責任(法的責任・道義的責任・説明責任)

2018年03月12日 09時25分48秒 | あれこれ考えること

先日の土曜日(3月10日)、新城文化会館で大会議室で行われた「新城市行政改革取組事例発表会」に行ってきた
仕事の効率化、経費の削減等でイメージされる行政改革の例が3つ、各部署から発表された
1.新庁舎の建設による事務の効率化
2.市民の自主的・自立的な活動の促進
3.民間委託の促進(可燃ごみ収集業務の全面委託)

あっさり言ってしまえば、一番目はオフィス環境に絞って話をされたが事務の効率化は
新庁舎ができることによってほとんど解決できるような問題

2番めは新城市お得意の若者議会に関するお話で、ほとんど現状報告と自分たちのうちでの評価
3番めはタイトル通りの経過報告

なるほど、この内容では市民の関心が湧かないのは無理はないかもしれない
実際のところ会場にいたのはほとんど市の職員さん、それに議員さんが数名
そして物好きな市民がほんの少し、、、
(告知方法はどうだったのか、十分告知しても来ない可能性は十分予想されたが、やっぱりというところ)

でもこの発表会、最後の方が見ものだった
それは「新城行政改革推進計画外部検証委員会」の方の講評が、少しばかりきついもの、的確な指摘だったからだ
それは「コストベネフィット分析」
あるプロジェクトにかかる費用とそこから得られる便益を比較して、そのプロジェクトを評価する手法の徹底を指摘されたのだ
例えば「若者会議」でも、かけた費用がどのくらいで、現実にえられた利益換算をするとどのくらいの金額になるか
ごみ収集を民間委託したことによって、どれだけのコスト減となったかを明らかにすべしとされた
その答えは、「若者議会」自体は数字的な評価が簡単にできるのもではない、、とか
ごみ収集は、経費だけの視点ではなく関わってきた人間の他の仕事への効率が上がったとか、、
いわゆる行政の方々の定番のような答え(もっともごみ収集の方は、パワポとか後で答弁した説明が不十分で実際は経費カットになっているとの声もあったが)

これらの話を聞いていて、以前補助金申請の書類を書いた時の、具体的な数値目標の欄がとても苦労したことを思い出した
その時は効果というものを数値化するのがとても難しい事業だった(と自分は思った)が、申請書は何が何でも数値化で効果の有り無しが
誰でもわかるように客観視できる数字の推移として表されるように要求された
数値化出来ないようなものでも数値化することを要求される、、
その時は少々頭にカリカリきたが、今ではそうでないといけないのかもしれないと振り返る余裕ができている(?)
数値化できないことも、なんとか数値化して効果の有り無しを検討する、、そういったことが「若者会議」でも行われないと
税金を使うことなので市民に理解は得られないのではないか、、というごく真っ当な指摘だった
この若者会議については、一般からの意見のコーナーでちょいと行政の人にお小言をいわしてもらったがそれはここでは省略

実はこの日自分にとっての一番の収穫は、このような市に関することではなくもっと別のことだった
以前から頭の中でまとまらず、どう考えたら良いのだろう、、とずっと思っていたことが
いきなりスッキリするような言葉を聞いたのだ
「責任には法的責任・道義的責任・説明責任があります」
委員長からのこの言葉で、そうなのか、、と急に頭がスッキリした
新城市では政治倫理審査会が行われた際も、産廃問題が発生した時も、また国では森友学園問題が起きた時も
いつも「法的には」問題がない、、とされてそこから先へは行けないでもやもやしていた
でも「道義的責任」はとても抽象的だが、そこには存在しなくてはならない
例えば新城市長は、悪臭が出るとされる現場には「道義的」に行くのが普通だ
麻生さんは佐川さんの長官の任命は能力からして適切だというが、過去の答弁、国民の不満(世論から見える)からすれば
「道義的に」適切とは断じきれないのではないか
そして「説明責任」誰にでも分かる言葉で、「法的には問題ない」のひとことで片付けるのではなく
主権者である国民や市民にわかるように伝えるのが筋だ

でも、これらが現実にはなされない
何よりも優先されるのは「法的」の問題だけ
言い方を変えれば「法的にクリアされれば」何をしても良いことになる
法は全ての状況に対応できているわけではないし、想定外の今後検討を要する事柄もあって
たまたまその時にその法がないからと言って、すべてが許されるわけではない
こうした法の不備の危険性があるために「道義的」という極めて人間的な判断要素が必要とされる

人は、特に上に立つ人は「全人格的」な判断力を持つべしと思う
この全人格というのは「法的責任・道義的責任・説明責任」をバランスよく行使できる人物
あるいは行使しようと努力し続ける人物のこと
国にも市にもこう人たちが多くいると良いのだけれど、、
(現実的にはチェックし続けるしか手はないのかもしれないが)

なんかうまくまとまらなかった
いつものこと、ま、いいか!



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幼児の絵

2018年03月11日 19時24分45秒 | 徒然なるままに

新城の文化会館に出かけた
予定の行事には少し早く着きすぎたので、フト目にした展示室の子どもの美術展(?)
みたいなもので時間潰しをしようとした
世の中には絵の上手な人がいるものだ
絵心は全く無いので上手に描ける人には子ども大人も関係なく憧れてしまう

幼児から高校生、絵画教室の先生まで色んな柄が展示してあったが
その中には同級生の作品(版画)もあった
その内で一番気に入ったのが幼児の絵


何かよくわからない落書きみたいなものだが、(きれいで)何故か迫力を感じる
感情というか熱というか、言葉にならない思いというか
そんなものが伝わってくる
おまけに、どこか人をホッとさせる(心が澄んでいるみたいで)

この絵を見つけただけで、今日は良い日だと思った
何故、迫力があるのか(あると感じたのか)はわからない
ただそう感じる

こうした絵は幼児期の一時期しか描けないのか、
それとも個性として描くことができるのかどうなんだろう
ピカソは子どものような絵を描きたいと言ったとか言わなかったとか、、

それにしてもこれらの絵、ホアン・ミロの絵みたいで
ホント癒されるな、、、


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ジーザス・クライスト・スーパースター(受難のミュージカル)

2018年03月09日 19時38分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

パッション(passion)といえば日本人は多分、熱情とか激情とか熱中を連想する
だがこの言葉にはキリストの受難の意味もある
熱情とか激情が結局は受難につながりそうなのは、なんとなくわかるような、わからないような気がするが
今日豊橋市の「穂の国とよはし芸術劇場PLAT」で行われた劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見に行った

ポスターの文字にあるようにキリスト最後の数日間の物語をミュージカルにしたもので
バッハのマタイ・ヨハネ受難曲のロックヴァージョンみたいのものだ
このジーザス・クライスト・スーパースター」を見る(聴く)のは二度目だ
一度目は会場は忘れてしまったが確か名古屋(今池の方のような気がしてるが、、)

なにしろCatsを見てアンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽にぞっこんとなって、彼の作品なら
なんでも見ようとオペラ座の怪人はもちろんのこと、スターライト・エクスプレス
エヴィータ(映画で)などを四季の会の会員になって見たのだった

しかし、残念なことにこのミュージカルはあまり覚えていない
僅かに覚えていることと言えば、キリストが悩み多い普通の人間風だったということと
最後の方のシーンで舞台と一切関係ない人物が、ジーザス・クライスト・スーパースターのテーマに沿って
キリストの行いを覚めた調子で歌っていたこと  位のもの
大好きな音楽もこのテーマしか頭に残っていなかった

記憶がないだけに初めてのように新鮮な気持ちで見られたが
この物語はパッション(受難)で、バッハのマタイ・ヨハネ受難曲で
あらかたのストーリーを知っているので物語の進行は(歌詞が日本語のせいだけでなく)
すんなり入っていけた
でも音楽はロックでその歌(歌詞)の部分を意味を聞き取りながら聴こうとするのと
バックの音楽の掛け合い等をしっかり聴こうとするのとは、両方うまくできず
どちらをメインに聴こうかと少し迷ってしまった

忘れていたと言っても、やはり少しは思い出すことはあった
ジーザス・クライスト・スーパースターのテーマだけでなく、時々流れる優しいテーマも
耳に馴染んでいて、それが女声で歌われると本当に癒やされるような気がした

場面はマグダラのマリアが高価な香油をかけるシーン
ユダが裏切るシーン(しかし彼は悩んでいる)
ペテロの否認(鶏が鳴く前にキリストなどは知らないと3度否定するという話)
エリ・エリ・レマ・サバクタニ『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』
民衆が十字架につけろと叫ぶシーン
これらは、実際のところバッハの受難曲で知ってたから、ついついそれらと比較してしまったが
ヨーロッパでは受難の劇がイースターには上演されるらしく
(ノイシュヴァンシュタイン城近くのオーバーアマガウでは10年に一度村人総出の劇が上演されるとか)
心底、様々な判断の基本としての精神の持ち方まで影響しているのだろうと思ったりした
このヨーロッパ人に根付いた感覚というのは日本人にとっての忠臣蔵みたいなものかもしれない
(自分は忠臣蔵は好きではないが、みんな知ってるという点で)

音楽ではなく、少し物語の方に話は行くが、結局のところ民衆がキリストに望むものは
魂の救いではなく現世的な利益、病気を直してほしいとか、目が見えるようにしてほしいとか
歩けるようにしてほしいとか、、つまりは奇跡を起こして欲しい
そうすれば信じることができる  といった様相
しかし、キリストは何時までも生きられない、いなくなったら実現されないような解決は
解決ではない、そこで冷たく言い放つ「自分でやれ!」と
この部分はなかなか面白かった
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中の有名な大審問官の場面を連想させる
スペインにフト現れたキリストを大審問官はキリスト本人だと自覚しているが
もう彼(キリスト)の役割を果たすものはない、すでに自分らが現世の幸福を感じさせることを行っている
「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったところで現実の人間というのは
手っ取り早く現在の幸福を望んでしまうものだ、、そして人はあまりにも弱い
この弱さを描いたシーンがペテロの否認だが、バッハのマタイ受難曲でもこの部分は一種のピークで
レシタティーヴォが悲痛な音形で語られた後、瞑想的なヴァイオリン伴奏のアルトのアリアが
歌われるが、このミュージカルでもこのシーンは印象的なのもだった
その他にも裏切った人間的なユダが(多分)地獄に堕ちる(吸い込まれる)時の、
少し寂しげな女声のコーラスは地獄に落ちるとしてもどこか同情してるような思いを人に呼び起こす
もので印象的なものだった

ところで全体を振り返ると、もしかしたら今日一番印象に残ったのは「声」かも知れない
声量と息の長さ
これにはびっくりした、どこかにマイクを付けてるかどうか知らないが
声は有り余るほどの声量だった
そして息の長い事、ひとつキリストが大きな声でずっと音を引き伸ばすシーンがあったが
こちらがハラハラして(心配して)しまいそうなくらい長いシーンだった
そして音程が急に高音に変わって裏声となる箇所も少なからずあって
その音程の変化についていってる(当たり前か)プロの仕事ぶりというのはすごいな、、
そしてコーラスの効果的なこと、、

開演時間は金曜日の2時からということで、この時間に来られるのは劇団四季のターゲットとは思われない(?)
ちょいとお歳を召した方が(自分を含めて)多かった感じ





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知らないことは、信じるしかないか

2018年03月06日 19時55分03秒 | 徒然なるままに

般若心経は覚えていてソラでも言える
テレビドラマのシーンで般若心経が聞こえてくると、途中からでも後を追いかけることができる
だから、手抜きしてたら直ぐにわかる

ところが、残念ながら般若心経以外のお経はほとんどわからない
お葬式・お施餓鬼の時に唱えられるお経の意味がわからないというだけでなく
そのお経がちゃんと正式に唱えられるいるのか、誤魔化されているのか確かめようがない
お経はわからなくても、ありがたいものと考えるように、、と言われたことがあった
わからなくてもありがたいと思うのは理屈っぽい性格からすると少し引っかかるところがあるが
あるお葬式では唱えられているお経の意味を一つ一つ紹介されたことがあった
旅立った故人が今これこれの場所に来て、誰々と出会っているとか、、、(そんな話だった記憶している)
そのように説明されると長いお経も素直にありがたいというような気持ちにもなれたのだった

ほとんどの人はお経を知らないし、その意味も理解できない
だから無条件にお坊さんの唱えているものはちゃんとしたものだと思い込む
いや、そう信じるしか手はない
手を抜いたりとか、手抜きのお経まがいのことをしてるとは思わない
でもいい加減なお坊さんが悪いことをやろうとしたらそれは簡単にできる、何しろ一般人はお経を知らないのだから

知らないことは、何をされても知らない(損しても)
もしかして、今の世の中この状態があちこちで見られていないか
善人の集合が世の中であれば良いのだが、残念ながらそうばかりとは言えそうもないので

当事者が気がついた時は遅かった
ということにならねば良いのだが(国も市も)


 

 






 

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昔は拍手をしたものだった

2018年03月05日 19時09分55秒 | 徒然なるままに

土曜・日曜(3月3日・4日)と新城市の文化会館小ホールで映画の上映があった
「しんしろまちなか映画祭」と名づけられ、新城市の地域自治区の活動交付金で実施された事業で
少しばかり外に出るのがおっくうになっているお年寄り(特に男)が積極的に外に出て
行動することを期待した企てだ

上映作品は2日間で4本、初日に「ローマの休日」「嵐を呼ぶ男」
二日目が「シェーン」「あん」(この映画は撮影地に新城市が入ってる)
そのうち、一番最初の「ローマの休日」を見に行った
人から借りたビデオで見たことがあったが、髪の毛をショートカットにした時の可愛さは、、ちょっとばかり衝撃で
なるほど女の子が真似したがる気持ちもわからないでもないな、、と思ったりした

そんなかわいいオードリ・ヘップバーン見たさに出かけたのは、男だからしょうがないとして
映画を見ていて今回印象に残ったシーンは
タクシーとかバイクのエンジン音がやたら大きいこと
お金を財布からではなくポケットから裸の状態で出していたこと
その紙幣がやたら長いものに思えたこと
ジェラートをあの場所で食べちゃいけないことになってたのじゃなかったのか
男の股上の長いズボンが気になって仕方なかったこと  などなど

物語自体は深さはなくても極上のエンターテイメントだ
いちばん気に入ってるのは登場人物がみんな善人ばかりという点
とても安心して見られる(落語の井戸の茶碗とか、文七元結とかは善人ばかりで好きだ)
そして見終わった時には、なんとも言えない「品の良い」後味の良さを実感した
この「品の良い映画」というのは今はなかなか見られない
その理由がオードリ・ヘップバーンのせいなのか、作り方によるものかわからないが
こういうのは好きだな
そう言えば、ちょっと思い出したが「ショコラ」(ジュリエット・ビノシュ主演の)も
どこかほっこりするいい映画だった

「The End」の文字が出て、エンドロールが今みたいに長くなく直ぐ明るくなったが
会場からはパチパチと拍手の音が聞こえた
懐かしいな、、昔はそうだった
当時は二本立ての上映が多く、映画が終わるといつも観客は恥ずかしげもなく当たり前のように拍手をした
映画は大好きな祖母から連れて行ってもらった「新吾十番勝負」とか「赤穂浪士」とか
内容は覚えていなくても祖母に連れられていったことは覚えている

ということで、文化会館の小ホールで皆で映画を見るってのはなかなか楽しい
来年もあるようだが、一応リクエストは邦画、洋画とも書いておいたが
ちょっと一般受けしない作品だから、、、無理かな、、

 

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今度は「エレガントな宇宙」の最後のページまでたどり着いた

2018年03月02日 21時00分19秒 | 

最近文学的とか社会科学的な分野の本ばかりだったので
久しぶりに自然科学関係の本を引っ張り出してきた

「エレガントな宇宙」ブライアン・グリーン
何年か前に購入した「ひも理論」を紹介した本だ
途中で挫折してしまったが、貧乏性はもったいないのと悔しいので再挑戦した
でも正直なところやっぱり途中からわからなくなった
(アインシュタインの相対性理論とか量子力学のあたりはなんとなくわかった気になれたが)
それでも重力、電磁力、弱い力、強い力を統一しようとする大胆な思考などは
まるでいろんな仮説をひねり出すミステリーのようで、それなりに迫力があるし面白かった
(本当にわかっているかはまったく自信はないが)
それが正しいものか、一時期のブームに終わるのか、取り組んでいる本人も実はわからない
そのように発言する著者は、頭が固いとイメージされがちな理科系の思考法が
実はいろんな状況を考えていて柔軟であることを示している

しかし、正直なところ後半部分の多次元のあたりは何が何やらサッパリわからなかった
「ひも理論」はそのように考えたほうが実測値と一致して実用的なので、使えるものは使うと割り切り
理屈が不足している部分は後の時代の人に期待する、、今は時代の変わり目に来ているかもしれない
と最後に述べているが、こういった抽象的な思考ができる人は、苦しいかもしれないが幸せなんだろうなと思ってしまう

アインシュタインは相対性理論だったか何かで、8年間も考え続けたとのエピソードが紹介されていたが
8年間もずっと考え続けるというのは、、それだけで呆れるし尊敬してしまう
だが思い起こしてみるとベートーヴェンも第9を数年間かけて作曲してるし
ブラームスも最初の交響曲に20年以上かけている
ヴァーグナーも「ニーベルングの指環」もやはり同じように膨大な歳月をかけている
要は何事も執念とか諦めない気持ちとか、、、いやきっと自分のなかに浮かんでくる使命感みたいなものに
突き動かされているんだろう
この使命感に満たされた人々、そして生きているうちにそれが評価される人々、、
だが大半の普通の人は何も残さず、何も記憶されずに去っていく、、(でもそれは仕方ない)

ところでこうした自然科学系の本では「自然界における左と右」M・ガードナー
「不思議な数eの物語」E・マオールが圧倒的に面白かった
また暇を見つけて再読してみよう、、なんだか頭が良くなった気になれそうなので、、


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他市との比較(市議会一般質問)

2018年03月01日 08時49分51秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

豊川市議会一般質問の傍聴に行ってきた
文句ばかり出てしまう新城市の市議会との比較を行うためだ
前々から一度は他市のを見なければ!と思っていたがようやくタイミングが合った

正直なところ、これはなかかなの苦行だった
自分の住んでいる市のことではないので実情がわからないとか、切実感がイメージしにくいとか
関心が湧きにくいとか、そういった面もあるかもしれないが、何しろ討論が頭に入ってこない
言葉が音として存在するだけで少しも頭の中とか感情まで達しない
よくよく通告書を見れば他市であっても関心を持つべき内容はある
それなに、、、

傍聴は結局のところ午前中で逃げ出すことになった
自分以外の傍聴者は、この日二人目を前に徐々に増えて20人ほどにはなったが
その人物が終わると一気に彼らは引き上げてしまった
あとで聞くところによると、傍聴者の大半はその議員さんの地元の支援者らしいとのこと
(自分の一般質問する姿を見て欲しいと声がけしたらしいが、新城市でも皆この様に声がけすればいいのに)

豊川市の一般質問の時間は、議員さんが質問している間は時計は残り時間が徐々に減っていくが
行政が答える時は時計はストップしたままだ
最初から設定されていた時間は30分で、議員さんが話している時間だけが消費時間となっている
これはなかなか現実的でいい方法かもしれない、何しろ国会などではダラダラと関係のないことを読み上げたり
質問に答えず時間だけが過ぎていくことがあるが、この様な時間管理ならば答える側がどんなに時間を費す作戦を
実行しようとしても無駄になる
これは、時間量だけが決まっている新城市と比べて豊川市の方がいいかもしれない
議員さんと行政の方の話す時間は、消費時間を比べると行政の方が少し長い感じ(2割位多い?かな)
何しろ行政は答えるのに前書きが長い、質問に答えるのにそこだけかいつまんで答えるということはなくて
そもそも、、、という時点まで遡るものだから、一体質問は何だったのかと忘れそうになってしまう
(これは国会でも)

しかし、質問や答弁が全然頭に入っていかないのは、なぜだろうと想像してみた
その前に、新城市の一般質問と違ったのは質問する議員さんが、新城市ではたくさんの資料を抱えて
壇上に向かうのに対して、豊川市の議員さんはとても軽装な感じ
(一枚の紙、しかも傍聴席からみると文字が質問も答弁も書いてあるような)
3人見ただけだが新城市で見られるようなパネルを掲げるとか、資料の朗読許可とか、そういったシーンは見られなかった
そして何よりも、とても円滑に物事が過ぎていった
この円滑ぶりは新城市の議会を見ている目からはどこか不自然な気がしてしまう
新城市議会では別室で市の職員が上司の答弁の間違いを心配しながら耳を澄ませ
間違った場合は直ぐに訂正するような指示や、議員さんのちょっとした言い過ぎや不当発言が出てしまう
生の(ライブの)スリル感があるが、ここではまったくそういった心配はなく、予定調和のように時が過ぎていく

一般質問だから、質問することがメインなのだが、その質問が質問だけに終止して議員さんの思いとか
もう少し突っ込んだ、疑問を前提とした討論というのが見られなかった
つまり行政の答弁になんとも素直に直ぐに理解してしまって(もっとも難しい質問はしていなかったかもしれないが)
機械的に時間が費やされるだけ
この一般質問では議員さんの個性とかはあまり感じられなかった
議員さんをもっと知っていけばあれだけの時間でも個性や特質は感じられたかもしれないが
すくなくとも皆同じような質問のしかたをしているな、、、、というのが実感

そして、なぜこれらの話が頭に入らなかったのかは
質問も答弁も自分の言葉、話し言葉ではなく、書かれた言葉を読んでいるからではないかと想像した
書かれた言葉は正確で間違いがないかもしれない、でも、自分の理解した言葉になっていないと人には伝わらない
そして傍聴している身に少しも面白くない

これらのことは、実は前々から聞いていた
豊川市も豊橋市も質問は事前に打ち合わせをしていて、それこそ読み合わせをするだけで儀式のようなものだと
なるほど、現場を見るとその状況はまったく理解できた

議会を円滑に進めていこう、妙な答えになって時間を無駄に費やさないために、お互いに予め打ち合わせをしておく
そういう考え方も一理あるかもしれない
それが良いか悪いかは自分にはわからない、ただ、新城市を見てきただけにおおいに違和感があったのは事実だ

それでこんなことなら文句ばかり言ってる新城市は、「まだまともなのかもしれない」と思ったが
考えようによっては予定調和のように何ごともなく済んでいく豊川市に大きな問題はなく
一見政治的に(?)進んでいるように見える新城市の方に、住民投票や市長リコール、産廃反対の市民運動などの
大きな問題が起きているのは、果たしてどちらが住民としては幸せなんだろうとふと考えてしまう

いずれにせよ人間の行うことに完璧な方法はないってことだろうけど
やっぱり比較ってのは、大事かもしれない




コメント
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