パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

行政訴訟に関する投稿をまとめてみた

2019年04月16日 08時39分44秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

先日取り上げた行政訴訟の話題
当事者は分かっているがその情報に触れていない人には何がなんだかわからないと思われる
そこでおせっかいながら、この問題を時間経過に沿って自分の投稿から主だったものをまとめてみると
(クリックすれば新しいリンク先のページに飛ぶ)

スタートはとても奇妙な書類の存在がきっかけ

海苔弁(2016.11.4)

「行政訴訟裁判初日」(2017.2.22)

森友学園騒動と似ている新城の出来事(2017.5.10)

いろんな人々を見聞きしていた人たちの判断は(2018.8.1)

行政裁判のこと(備忘録)(2018.9.26)

8.02メートルの謎(仮説)と夜中の電話(備忘録用)(2018.10.14)

当然といえば当然だが、これはこちら側の視点からの解釈で
別の立場の人達からすれば、偏見に満ちた間違いだらけとの声が出るだろう
しかし、あまりにも偶然が重なりすぎるのは、、どこか不自然でこれこそが
新聞記事にもあった「支出に疑義が生じる不適切な事態」ということ

一つ一つが長くて面倒なので時間と興味のある方はどうぞ

 

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宗次ホールでベートーヴェンのラスト・ソナタ(伊藤恵ピアノリサイタル)

2019年04月14日 10時34分23秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

コンサートやリサイタルを聴きに行く一番のきっかけはプログラム
そのうち演奏者も追加されるかもしれないが、今のところは
演奏される曲目に関心があるかないかでチケット購入を決めている

昨日宗次ホールにでかけた
プログラムは大好きなベートーヴェンの32番が入っている

演奏者は伊東恵さん

このベートーヴェンの32番のソナタは生で聴くのは(多分)通算三回目
その1つは同じ宗次ホールでイェルク・デームスで2年前に聴いた
だいぶお年を召していらしたし、ウィーン三羽烏のなかでもグルダほど有名ではないので
大好きな曲(32番のソナタ)が聴ければいいやとさほど期待していなかったのだが
これが期待以上の大当たりですごく良かった
何よりも驚いたのはイェルク・デームスの奏でるピアノの音色が今まで宗次ホールで聴いた
誰の音とも違って聞こえた
馥郁たる柔らかな品のいい音、、
前半の休憩時間にピアノがいつもと違っているのかと舞台の前まで確認に行ったほどだ

そして年齢を重ねた人の奏でる音楽は懐が大きく、なんとも言えない満たされた感じがしたものだった
この記憶は今でも残っているので、昨日の伊東恵さんの演奏もまず最初に気にしたのは音色だった

最初は同じように柔らかい音、、と思ったが直ぐに現代ピアノの強靭な打弦の音の印象に変わった
前半のプログラムのベートーヴェンの30番のソナタは、30.31.32とセットにされてCD販売されるが
いずれも中期のような劇的な音楽ではなく、どちらかと言えば回想を含めた幻想的と表現される音楽
冒頭も穏やかでイメージのベートーヴェンらしくないようなテーマ
そのままのイメージで演奏が進むかと思いきや、生の演奏の印象の凄さは良い意味で裏切られた
なんとこの曲が中期のような中身が凝縮したような、確かに熱情を作曲した人の曲だと感じさせるような
音楽の印象に変わった
そこには何か戦いがあるような、、まだ枯れていないベートヴェンの馬力とか1つの作品を統一感のあるものに
まとめきる力が依然としてあることを自己主張しているような音楽だった
32番と同様な静かな変奏曲の第三楽章でも枯れた感じではなく、まだ気力が息づいている感じ

この印象はメインの32番でも同様な印象で、第一楽章のフーガのところは過去の名人たちが
構造的な充実感を際立たせる多声部的な演奏というより、若い人が何かに挑んでいるような
肉感的な、筋肉量の多い、熱気に満ちた音楽だった
その印象はあの大好きな別世界を思い起こさせる第2楽章でも同じで
最後の高音部のトリルの部分も、また回帰するような鐘の音を連想させる音形(この部分が好きなんだが)も
年齢を重ねた人の振り返りのような音楽とはなっていなかった
と言ってもそれが不満というのではなく、これもあり、、というのが音楽であったり生の演奏なのだと思うことにした

伊東恵さんはこの宗次ホールでシューベルトの21番のソナタを聴いたことがあった
その時は今回以上のパフォーマンスだった
特に第2楽章の時が止まるかのような響きに惑溺するような箇所は、ロマン派の真骨頂のようで
その楽章が終わったあと、フッと緊張感から開放されたような瞬間は今でも覚えている
ベートヴェンの32番も同様なこの世とは思えない高みに向かっていく音楽だが
シューベルトほど響きに惑溺はしない、、もう少し理知的な構造的な秩序に対しての挑戦がある
構造的な取り組みと言ってもバッハほど理屈っぽくはなく、その中にも感情の変化も奇跡的なバランスで表現されている
現時点では伊藤恵さんはシューベルトの方が素直に共感できているのではないか、、とも想像した(勝手に思ったりした)

実は今回のリサイタルはプログラムだけでなく伊藤恵さんだから来てみようというのもあった
以前、彼女がNHKFMで渡辺徹とコンビを組んでクラシック啓蒙関連番組の出ていたことがあったが
おおらかな、優しい、ちょっと心配させるような天然系の雰囲気が言葉の端々から感じられて
無条件にこの人はいい人だ、、と思ったりしたものだった

この本当にいい人だな、、と感じさせることが昨日もあった
最後に聴衆に向けて挨拶があった(そんな事してくれなくても文句は言わないけど)
そこで彼女はこのベートーヴェンの32番のソナタを半年前から勉強していて、演奏会では3回目の披露となる
そして弾くたびにまだまだという思いが募ると、、バカ正直に口にした
言わなくてもいいことを言ってしまうところが、イメージしたとおりの人で思わず笑ってしまったが
そこで納得した事もあった
それは彼女の今回の演奏が回想的なイメージよりも戦いのような印象に終始したのは
実際にこの作品の真正面から取り組んでいるせいなのだ、、右も左も、前も後ろもわからない
とりあえず目の前にあることを乗り越えていくしかない、、、といったような
まるで若者の疾風怒濤のような経験をしているからに違いない、、、
そしてそれはきっと間違いないことだろう、、とも勝手に決めつけてしまった

彼女は死ぬまで演奏し続けるといった32番
もう少し時間を経過したら聴いてみたいものだ




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今朝の中日新聞の記事について(行政訴訟の)

2019年04月12日 15時02分39秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

時々それとなく扱っている地元新城市の行政訴訟についての話題

今朝の中日新聞の県内版にこのような記事が掲載された

関係者以外は記憶の中から飛んでしまっていると思われる行政裁判が一段落を迎えたわけだが
そもそもこの行政訴訟が何を争っているか、わかりやすくするために訴訟を起こした翌日(2016年12月22日)の
新聞記事を紹介すると

まずは中日新聞

次に文字が小さくて読みにくいかもしれないが朝日新聞

最後に読売新聞

記事からわかるように新庁舎建設用地以外の飛び地に、普通ならば支払われないはずの移転補償費が
妙なステップを経て支払われたのは違法であり、そこで生じた損害額の返還を当時の市長に求めたものだ

この提訴の日が2016年12月21日だから、2年4ヶ月経過していることになる
何回か準備書面でやり取りしたが、昨年の7月には市の職員と原告、8月には市長が証人尋問も行われた
何回か書面をやり取りするうちに論点整理が行われ、最終的には2.3の点での解釈が問題となった
その整理した討論のなかで裁判所の「終局判決によらず解決をする勧告」を原告・被告も受け入れ今日に至ったということだ

この詳しいことはまたの機会(あるとすれば)として、お互いが合意した点は中日新聞には
穂積市長が紛争解決金として125万円支払う(市に)
市長に第三者への利益供与の意図はあったとは認められないとした上で、支出に疑義が生じる不適切な事態になったことを
市長が深く受け止め、遺憾の意を表する
とあるが、これ以外にも実はまだ細かなところがある
(それは今後、同様な紛争が起きないための行政への注文みたいなもの)

この記事が当事者以外の人たちにどんな印象を与えるかはわからない
だが、今回のことで実感したことは、市民運動には限界があるということ(法的にも)
市民が自発的に動いてできることは現実にはここまでで
これからは選挙によって選ばれた人たち(市議会議員)の出番となる

これからの出番?
片がついているはずなのに、、、?
それはまたの機会に(あるとすれば)







 

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科学の分野は口出しできないが、、、

2019年04月11日 09時21分42秒 | あれこれ考えること

ブラックホールを撮影したニュースが昨日から今朝にかけて話題になっている
個人的にはワクワクしたニュースだが、すごいなと思いつつもふーんとしか感じなかったり
何故そんなに大騒ぎしているか理解できないと思う人もいるだろう

地球の各地の電波望遠鏡で計測し、各地で得られたデータの不足部分は高度なシミュレーションで補足し
概念的には地球の直径規模の電波望遠鏡で視力300万で目で確認できるような画像として
現したということだが、何にワクワクするかと言えば単なるロマンの一言では片付けられない

アインシュタインの相対性理論から導き出される結果としてのブラックホールの存在と確認は
単なる計算式からこのような結果が導き出せる抽象概念にまずは驚く
それに、各地の電波望遠鏡から得たデータの不足部分を補う計算式も、一体どういうものかは
わからないがその存在自体に驚き、人はどれだけのことができるのか、、という点においてロマンを感じる

このブラックホールの撮影は現場の当事者、理論物理学者は嬉しくて仕方ないだろう
いつも羨ましく思うのは、相対性理論からブラックホールが存在するということを理解できる頭の持ち主
彼らの頭の中ではおそらくもっと別の自分だけの仮説として浮かぶようなアイデアが浮かんでは消えていて
それはそれで面白くて仕方ないだろう
その結果が役に立つ立たないは別にして、何かを知りたいという強烈な欲望は他人事ながら理解できる

このような専門的な話には素人は口を挟む機会や要素はない
こうした科学分野に限らず社会は各方面に専門的に分化していることが多く、素人が口出しするとピント外れとなってしまう

ところが世の中には素人が口出しできる1つの分野が存在する
それどころか、その声が大きな力を持ってしまうことがある
それはいま自分たちの生きている世界の方向性を決めること(あるときは政治・あるときは経済)
最近は何事も複雑に関連しあっているので、素人がシンプルに分かりあえたり、難しい問題に判断を下すのは
あまりにも視野が狭すぎて問題がある可能性がある
にもかかわらず根拠もなく自分らは正しい判断をしうる存在、、と思いこむのが大衆とオルテガが説いている

もっとも政治も経済も理屈通りに物事は進まず(専門家の予想したとおりに進まず)
それゆえに専門家の視点や見識・判断も当てにならないと実感している面もそこにはあるかもしれない

一般の人たちは何を持って自分たちは正しいと判断しうるのだろうか
その根拠の1つは多分感情というもの
感情がイエスかノーかを決める
ならばその感情の下す判断は正しいものか、、
何が正しくて、何が正しくはないかという必要とされる熟慮は大概の場合対して問題にされず、
その時の勢いで正しいとされる方向は決まってしまう

結果として多くの人の選んだ道はその後のためになることと考えるか
それとも多くの人の選択は間違えるかもしれないと考えるかは
実は難しい問題で、これは国によって(その国が経験したことによって)その判断は違ってきそうだ

なんかややこしい話になってきたが、ちょいと視点を変えて素人が口を挟みたい話を
それが最近頻発するレイプに対する無罪の判決
新聞では判決文をきっちり読むことができないので専門家の判断がどうであったかは正確にはわからない
だが、新聞を読む限りではとても信じられない出来事としか思えない
いくら専門家の判断・法解釈であったとしてもこれが現実ならば、その法自体も間違っていやしないか、、とさえ思う

こうした素人が素直に変だと感じることは、将来法の変更に繋がりそうで、そうなれば素人は自然法により
正しい判断を下したということになりそうな感じ

スタートのブラックホールの話から例のごとく話がすっ飛んでしまったが、要は素人が口を挟めるのは
科学分野は全く駄目だが、専門知識を要すると思われることでも人間を扱う分野は、つい口を挟んでしまいそう
ということ(でも、それが良いか悪いか、、、、)
相も変わらずまとまらない話



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傍観者たち

2019年04月09日 09時01分05秒 | あれこれ考えること

昨日と今朝のワイドショーで、名古屋の地下鉄で男が電車の扉を閉めるのを
何回にもわたって邪魔をし、駅員さんが必死に対応している動画が紹介されて
この男の行為が法的にどうなのか、、と放送されていた

確かに怒りを覚える行為なのだが、ここで不思議だったのは
地下鉄に乗っているすぐ近くの人は何もしなかったんだろうか、、ということ
明らかにまともでないことをしているのを目前で見ているし実害も被っている(はず)
しかし、何も具体的な行動は起こさなかったように見える
これが動画に、彼を叱責する声や行為が映っていなかっただけならいいが
そうでなかったとしたら、、、

少し前、ツイッターで似たような動画が拡散されていた
いい年のおっちゃんが、子供が座っていた(バスの?)席を譲れとゴネて座り込んでしまった
その行為を見ていたおばちゃんが、おっちゃんに文句を言っている動画で
かなり激しい感情のやり取りがあった
おっちゃんにはおっちゃんの言い分があるだろうし、ああ言えばこういうで
話はかみ合わない、、でも、単純に怒りを覚えるし見苦しいし大人気なく思う
そしてここでも不思議に思えたのは、正当な声を挙げているおばちゃんに
乗客のだれも助け舟を出さないように見えたことだ

なんで乗車している人たちはおばちゃんに加勢しないのか、、
それが不思議で仕方ない
(日本以外の国なら乗客が一斉におばちゃんに加勢して
 おっちゃんは叩き出されるとのツイートもあったような)

この2つの出来事
目前でなにか理不尽が事が起きている、それに対しては腹が立つし少しばかりの被害も受けている
だがそれに対して声をだすのは少しばかり勇気が必要だし、もしかしたらとばっちりを受けるかもしれない
そんなことはかなわないことで、誰か別の人が言ってくれたり行ってくれればいいことで、自分には関係ないこと、、
それに他の人も自分と同じように考えているようだし、、、、

この乗客の傍観者のようにみえる行いは、拡大解釈をするならば現在のこの国で起きていることへの傍観者の態度に似ている
特に野党よりの姿勢を取らなくても(まともな自民党員ならば、それがいるとして)ずっと続いている現世政権のむちゃくちゃぶりは
声をだしたり行動に移して批判すべきだし、メディアもそれを追求すべきなのにそれができていない
この傍観者としての態度は忍耐力とは違い、それは無気力との表現のほうが近そうだ

現在の見て見ぬふり、傍観者、無気力、今だけ、自分だけ、お金だけ、、
この風潮が導き出すのは、あまり美しくない姿のように思えるのだが

少しニュアンスは違うが、ビートルズのアビーロードのあの美しいメドレーの最後「ジ・エンド」では
and in the end the love you take is equal to the love you make
と歌ってる
(しんどくても自分の手にするものは自分で手にしなきゃ)



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現代にもリアルな万葉集(貧窮問答歌)

2019年04月08日 09時08分40秒 | あれこれ考えること

新元号が万葉集に由来するとあって急に万葉集が注目を集めているようだ
元号の決定プロセスや西暦との関係など、多少首を傾げることが無くはないが
万葉集自体に注目が集まるのは良いことかもしれない

だがへそ曲がりなので万葉集は素晴らしいとか、日本の宝であるとか、そんな表面上だけの評価に終止してほしくない
万葉集と言えばすぐに思い出すのは
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
の額田王の歌で、リズムも響きもいいのでとても気に入っているが
それとは別に何故か記憶しているものに、中学か高校の教科書に載っていた「貧窮問答歌」がある

抜き出してみると

貧窮問答歌

 風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩着ぬ 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか ながよはわたる
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言えるが如く しもととる 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世の中の道 世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のあとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。

 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか,世の中というものは。この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。

これなどは恐ろしいまでに現代の生活困窮者を連想させる
何百年かかっても人は進歩していない、、と実感するばかりだが、驚くのはこうした一種政権批判のようなものがちゃんと公文書(?)に残っているということ
これが現代ならば不適切な表現云々の理由で削除されたり、最初から取り上げられなかったりするのではないかとつい思ってしまう
万葉集に何故こんなものが掲載されているのか不思議なところで、専門家は別に不思議な事でもないと感じているかもしれないが
万葉集に取り上げる歌・序文の選考基準がゆるそうなのは、、少し不思議だ(なにか意図があった?)

ところで万葉集にはあまりにも多くの立場の人間の歌が収められているので、あの時代の人たちは一般人でも文字を書くことができたのか
そして紙はふんだんに手元にあったのだろうか、、、と違った疑問も浮かんでくる




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再読(再視聴)の楽しみ

2019年04月07日 08時51分18秒 | あれこれ考えること

 京都に行ってやっと年初から続いた源氏物語モードから一区切りできたような気分
ただ2ヶ月間ほどの源氏物語モードは、結婚の形態・手続きとか儀式とか、またその時代の
価値観・雰囲気みたいなものも感じられてそれなりに充実感を得ることができた

この世界から離れて次に向かったのは、このモードの中にいたときから頭に浮かんだ
「カラマーゾフの兄弟」の世界
高校時代に通学の電車のなかで読んだのと、その後部分的(大審問官の部分)に読んだが
主だったストーリー以外は記憶にない
ページ全体に文字がびっしり詰まって、雄弁すぎる会話や、生命力があり過ぎのような登場人物を
思い出すと、なかなか再読する気持ちになれないでいたが、急にその気になって読み直すことにした

ところがこれが予想外に面白い
退屈と思われた前半も、その後の話を知っているので、登場人物の会話もどういう意味を込めて
話しているのかがよく分かる
本を再読する楽しみ方、、というのはあるもんだ

知っている知っていないと言えば、森田芳光監督の映画「それから」も
松田優作と藤谷美和子の一つ一つのシーンが予め彼らの心情を分かっているのと知っていないのでは感じ方が違う
今まで自分は次々に別の本とか作品に取り組んできたが、徐々に残り時間がなくってきているので
今後は振り返りのように今まで経験してきたことの確認に時間を費やす法がいいかもしれない

それにしても、実生活に何ら関係のないような小説や映画、音楽が、自分にとってはある意味実生活以上に
重要なものになっているのは間違いないし、どちらかと言えば、ずっと昔からそんな風に感じていた
それは芸術至上主義などと大げさなものではなく、単に美味しいものを食べるのが好きと同じレベルで
それらを味わうほうが楽しいからに過ぎない

ただ、それらの豊かさを聞いてくれる相手がいないとしたら、、
ちょいと寂しいことになるのはこれまた事実なんだが

そこで不意に立原道造の「のちのおもいに」のある部分を思い出す

──そして私は
 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
 だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

結局のところ、自分が楽しんでいると言っても自分だけでは自己完結しない
ってことなんだろう

※ところで「それから」の藤谷美和子について、ある人の投稿で
「日本映画史上 最も美しい女優は誰だ」というテーマの第一回に
彼女の名が挙げられているのを見つけた
この投稿に大いに同意してしまう
ホント、この映画の三千代役の藤谷美和子はきれいだった



 

 

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平等院、ずっと覚えているのは変なことだろう

2019年04月05日 08時22分58秒 | 旅・旅行

3日の水曜日、宇治に行ったついでに寄った平等院
訪れるのは二回目で、前回は池に水が張ってなくて興ざめしたものだった
鳳凰堂の中に入って説明を聞いたときは、暗くて壁画がほとんど消えかかっていて
これは昔からのものだから仕方ないと思ったことを覚えている

今回は塗りたてのような朱色がとてもきれいで、スッキリした清潔感のある
雰囲気を醸し出していた
だが感じたのは、思いほか小さな建物なんだな、、ということ
(サイズ感は実物を見ないとわからない)
鳳凰堂の見学は入場料とは別の費用が必要で、今回の目的は平等院ではないし
前回見たからいいや、とやり過ごした

入場料に含まれる鳳翔館(博物館)にはとりあえず入ってみた
ところどころ成る程と頷くところもないではなかったが、長く覚えているほどのことはない
だがある部屋に入ったとき一気にその場所の空気が変わった
とてもホッとするような、安心するような、あたたかなものが壁からやってきた
大きな壁には「雲中供養菩薩像」が26躯飾られいる
極楽にはこのような音楽を奏でる菩薩さんがいると説明にはあった
極楽が穏やかな静的な世界ではなく、音楽と感覚的な喜びに満ちた世界なら
そこに行くもの悪くない、、
きっと藤原頼通もそう思ったんだろうな、、との思いが頭に浮かんだ
時が経ち平等院に関するほかの記憶が無くなったとしても、この時このように感じたことだけは
きっとずっと覚えているに違いない
どうも記憶というものは不意に訪れた印象を後々まで頭の片隅に残しておくもののようだ

このけったいな記憶(印象)のおかげで平等院の入場料の元はとった、、と考えるのは
貧乏性のせいなんだろうな


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聖地巡り(源氏物語)

2019年04月04日 08時39分13秒 | 旅・旅行

昨日、宇治に行った
数日前からその気になって価格の安いJR東海ツアーズのワンデイ京都チケットを利用した
これは豊橋から京都往復が9900円で通常よりだいぶ安く、おまけにキオスクで使える500円分のクーポン券と
飲み物サービズががつく
JR東海ツアーズのオフィスは近くは樋橋駅にしかないが、地元新城から交通費をかけて求めてもお釣りが来る

宇治に行ったのはこれを見るため

写真は宇治川で見るためと言うより何かを感じるためだ
宇治川は思いのほか水量も多く流れも強そうなイメージで
源氏物語の宇治十帖のヒロイン浮舟が自殺を図ったところ

物語の上とは言え、それが現実的なものか意地悪く確認したわけだが
なるほどこの水量ならば入水すれば命を落とすことはあるかもしれない、、
と勝手に想像した

宇治橋には紫式部の銅像が

宇治に来てる人の大半の目的は平等院でチラッと眺めて直ぐに立ち去る人が多い
自分もついでに平等院に寄ったがあくまでもメインは源氏物語絡みの場所

宇治駅の案内看板はぶらぶら歩きのおすすめコースが掲載されている

何かを感じるといえばもう一つ実感したかったことは、京都と宇治の距離の感覚
匂宮や薫が京都から宇治まで度々足を運ぶが、それはどのくらい時間がかかり
困難だったかを想像してみることはなかなか興味深い
電車に乗れば30分くらいの距離なので、それほど遠いという感じはしないが
平安時代の交通機関は牛に引かれての車だろうから結構大変なことだったかもしれない
道も今ほど良くないだろうし、浮舟はわざわざ苦労して自分を訪ねてくる匂宮を
情熱的と思うのも無理はないかもしれない
おまけに船に(お姫様抱っこ?で)載せたりするとなれば勘違いするかもしれない

平等院はササッと眺めて、源氏物語絡みのコースを歩いた
するとこんな植物の紹介のコーナーがあった

ヒカルゲンジと名付けられたツバキだ
ムラサキシブの花はたまたま我が家の庭にもあるが、まさかヒカルゲンジと言う名の花があるとは
(このような時いつも思うのはセイショウナゴンという花はないのかなということ)

周遊コースにはいくつかの宇治十帖絡みの碑がある

早蕨


総角

注意していないと見落としてしまいそうな地味なもので、特にそこで書かれたということではなさそうだが
紫式部も1000年前にこの地にいて、何かを感じ、その上で想像の世界を創造したというのは感慨深いものがある

正午ごろ源氏物語ミュージアムについた


水曜日で来館者はさほど多くない
展示されている当時の様子は色彩が豊富で雅(みやび)
その展示物の中に光源氏のハーレムの六条院の模型があった
春夏秋冬と分けられた区画に光源氏が関わった女性を住まわせているが
紫の上、三の宮と自分は春の地区に、花散里と玉鬘は夏の区画に
秋には秋好中宮、そして明石の君は冬の地区に植栽も工夫を凝らして
それぞれ大きな建物から成り立っている

このミュージアムは20分ほどの映画があった
ドキュメンタリー風かと思いきやなんとアニメ仕立て
確かにわかりやすい面はあったが、ちょいと入門編すぎて少し不満
せっかく宇治にあるのだから宇治十帖絡みのストーリーを扱えば良いのに
と思ったが、これを短時間で説明するのは難しいから、、仕方ないかもしれない

平安時代にタイムトリップし、しかも猫に変身した女の子がお公家さんが蹴鞠をして
遊んでいるなか、女性がいる部屋に猫として入ろうとして御簾をちょいと上げてしまうシーンは
源氏物語の重要なシーンを連想させる
(これは映画でも読んで欲しいとの説明もあった)

映画が終わるとちょうど昼時だったので昼食にした
昼食は宇治市のどこでもいいと思ったが館内のカフェの「花散里」に名に惹かれてここにした

スタッフの方に、何故カフェの名前に源氏物語でも地味な存在の「花散里」につけたのか、、と聞いてみた
夕顔とか明石とか紫の上とか(流石に生霊となる六条御息所はないだろうが)その当たりの名前のほうが
派手っぽくて素人目には良さそうだが、よく考えるとしっかりものの家庭的な花散里のほうが
こういう施設にはふさわしいかもしれない、、と思い直したら、スタッフの方の答えもそのような感じだった

このあと場所を京都市内に移して源氏物語の聖地巡りの後半
最初に訪れたのは源融河原院跡

五条大橋から少し西に行ったところで
ここは源氏物語ミュージアムで見かけた光源氏のハーレム六条院のモデルとなったところ
残念ながら何かインスパイアされるような雰囲気は全くなし
ただこのあと向かった夕顔がらみの史跡に向かう途中の町までこの河原院の中にあった
とされるのは、とんでもない広さであったことがわかる

その夕顔の史跡は

実在の人物ではないが、こうして好き者には何らかの楽しみを与え続けている京都はすごい
でも、あまりにもひっそりしすぎ(その方が夕顔にはふさわしいかも)

ここまで結構歩いたが締めは紫式部のお寺さんの蘆山寺

蘆山寺は現在の御所のすぐ近く(東へ)
ここもひっそりしていて訪れた時刻は自分だけだった
あっという間に見学はできてしまう
でも源氏物語絡みの陳列された資料をじっくり見ていくと
好きな人なら時間は忘れてしまうだろう(自分はこの頃は疲れていた)

というわけで、京都の王道のような場所巡りではなく、テーマを絞った
地味に終止した聖地巡りの一日は終了

昨日歩いた距離はスマホによると13.5キロだった



 

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本の値段と共時性(カラマーゾフの兄弟)

2019年04月01日 08時32分30秒 | Weblog

近場の桜の名所、新城桜淵公園へ歩いて行ってきた(昨日の日曜日)
自宅から往復で2.5キロ位で運動にもならない距離だが、少しづつ楽したい気持ちも芽生えてくる
でも駐車場代がもったいないという現実的な理由が、最近家計簿をつけてるので気になって仕方ない
晴れてると思いきや急に曇ったり、パラパラしたりの変な天気で、公園の滞在時間はほんの少しだけだった

桜の満開はまだまだで、今週末にいろんなイベントを企画している人たちは一安心といったところ

花より団子というものの、花がないと馬鹿騒ぎする気分になれないかもしれない
この日は宴会をしてるグループは少なかった
橋を渡りながら自分が小学生の頃は渡し船があって、高校野球のラジオ放送が流れて
何かしらウキウキしていたことを思い出した

見慣れた景色は余り驚くことがなく、結局は行っただけ、ウォーキングしただけに終わってしまった
でも日に一回くらいは何かに驚くことがあるようで、昨日軽いショックを覚えたのはこの本の価格


500ページの文庫本が400円
昭和56年5月15日 7印 とある
なんと安いことか、、その当時の他の物価と比較すると必ずしも安くはないかもしれないが
それでもこの数字は、単純に驚く

そしてもう一つ驚いたのは、この濃厚な小説、誰もが喋りまくるような重層的な小説が
実は短い章のいくつかに分かれていて、案外読みやすいかもしれないと思えたこと
ページ全体に段落もなく活字が埋まっているのはパッと見てうんざりするが
読み始めると思いの外今の頭の中にはすんなり入っていくのは意外だった

カラマーゾフの兄弟は演劇でも映画でも見たことがある
演劇は豊橋で行われたが、確か浜畑賢吉が出ていたくらいのことしか覚えていない
映画は大学時代の学園祭か何かで見たような、、、
これも覚えているのはイワンが幻想のなかで悪魔と対話するシーンと雪深いロシアの風景くらいなもので
昔の記憶はしっかりしているというパターンからすっかり外れている

この本を引っ張り出して再読しようとしたら、偶然見かけた昨日のパネルクイズアタック25で
「ドミートリイ・イワン・アリョーシャの登場する小説はなにか?」
との問があって、その偶然の一致にこれまた驚いた(答えはカラマーゾフの兄弟)
時々経験する共時性(シンクロニシティ)のパターンで、これはもう再読するしかないだろう

「失われた時を求めて」に挑戦したときも、このような共時性によるきっかけがあった
しばらくの間ハマった感のある源氏物語の世界から、ようやく離れるきっかけになれるかも
(近々宇治にいく予定をしているが)

 

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