パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

オシムさんのこと(サッカーの監督のこと)

2022年05月05日 11時03分38秒 | サッカー

オシムさんは日本代表の監督時代、PK合戦になった時
見ていられなくなってベンチから離れたという話があった
どうやら心臓に少し悪いところがあって
ドキドキするのは体に良くなくて、見ないようにしたらしい

オシムさんの代表監督は日本だけでなくユーゴスラビアも経験している
ストイコヴィッチがまだあまり知られていないころで
今でも覚えているのがワールドカップのアルゼンチン対ユーゴスラビアの戦い
マラドーナがいたアルゼンチンに対して、退場者が一人出て
不利な条件のなか獅子奮迅の活躍をしたのがストイコヴィッチ
サビチェビッチがチャンスを決めていればベスト4まで行けたのに
(そこまで育て上げたのがオシムさん)
最終的にはPK合戦で負けてしまった
(ストイコヴィッチは外してしまった)

あのときのユーゴスラビアはすごかった
東欧のブラジルといわれ、技術的にも優れた選手が多かった
だがその後のユーゴスラビアの分裂と同様に
個性的な選手の集合というのは難しかったのだろうと思われる
ユーゴスラビアは多民族、多宗教、多言語でチトー大統領の力で
なんとかまとまっていたのと同じように、個性的な選手もオシムさんの力で
まとまっていたのではないか

あの試合はビデオに残しているが、実は監督がオシムさんだったと
気づいたのは日本代表をすることになったときだった

日本代表時代は、オシム語録が面白かった
逃げるうさぎは痙攣を起こさないとか
走れ、考えろ、、単に根性論に徹するのではなく
含蓄のある言い回しで言葉は力を持つものだと感じさせたものだった

当時もうひとつ有名になったのは多数の色のビブスを使った練習で
敵味方だけでなく味方も2色に分けて、パスを交換できる選手のビブス
の色を決めていて、いろいろ状況が変化する中で選手は近くにサポートにいったり
離れたりをポジションをときには無視して行わなけれならない
このポジションにこだわらない考え方が好きで
自分もコーチ時代にこの練習を真似てみたことがある
すると思いのほかこの練習は効果的だった
まずは顔を上げることが多い、味方の選手がどこにいるかを常に気にするようになる
そして状況判断を、時には例外的なことも選択する

監督の色が確かにチームのカラーとなる
グランパスは風間さんのときはダイレクトパスを多用し、攻撃に特化していた
点は取れそうだったが、守りはしょぼかった
その全く反対が去年のグランパスで、フィッカデンティ監督は
失点しなければ負けない精神でチームづくりをした

子供のサッカーも監督とかコーチの考え方でチームカラーが違ってくる
自分はオシムさんに近い流動的な形が好きだった
決められた形で守りを固めるよりは、自己判断のもとプレイの選択をするようにした
(守りはほっといても心配性の子が後ろに構えることが多かった)

練習最後のお楽しみ試合の時間は、ざっくりしたポジションを決めた
前目の人、後ろの人、その間の人、、それにどこでもいい人を
じゃんけんで決めたりした(みんなどこにでも行ける人になりたがった)

小学校1、2年の子たちの試合には「ボールに20回以上触ること」
と課題を設けてみた
どちらに向かって蹴ろうが進もうが、まずはサッカーの試合に参加する
その楽しさとか舞い上がった気持ちを味わってほしかった
低学年だとざっくりポジションを決めても実際には守れない
すぐに団子状態になる
ところが、これが役に立たないかというと彼らは少しづつ慣れて
離れてチャンスを待つ子が出てくる
試合は一番の練習になるし子どもたちもやりたがった

この団子状態のサッカーは前に進む力が強い方にボールは落ち着いていく
縦の力が強い方にボールがこぼれてくるのは大人の世界でも同じだ

あと一つ、オシムさんのことで覚えているのは5対5でミニゲームをしていた時
オシムさんは片方のチームにもうひとり入るように指示をした
一人多いチームは当然有利になってゲームが進んだが、ゲームの途中だったか
終わってからか忘れたが、オシムさんは
「なぜ数が少ないチームはもうひとり自発的に入るようにしなかったのか」
と怒ったそうだ
言わんとすることは指示されたことを行うのではなく、
自分で適切なことを判断をするようにということだった

この発想は「言うは易し行うは難し」の部類だろう
そして自己判断で何かを行ったり、自己の考えを他人に伝えるというのは
この国(日本)では思いのほか難しいということも、少し考えてしまう

ということで、オシムさんことからいろいろ思い出したということ






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憲法の中にある「努力」という言葉

2022年05月04日 08時46分36秒 | あれこれ考えること

何年か前の今日(2020年5月4日)投稿した内容がそれなりに良いので
再投稿をすることにした
以下がその時の内容

昨日は憲法記念日で、憲法のことは何も考えなかったが
寝るころになって不意に、そういえば、、と思いだしたことがあった
それは団籐重光氏の「法学の基礎」の最初の方にある「努力」の言葉のこと

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の普段の努力によって、
これ保持しなければならない【憲法12上前段】

この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得
の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び
将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
【憲法97条】

団籐氏は「努力」という言葉が二度も使われていることに注目し
基本的人権は、「与えられたもの」ではなく、われわれ人類が動力によって
作り出したものであり、今後はさらに努力を重ねることによって、さらに発展させて
いかねばならない  と説明している

憲法などと堅苦しいものには縁がなかったが、この部分を読んだときには
素直にその通りだ、、と納得した

更にこのようにも記している
憲法の規定の上では、将来については「保持」というやや消極的なことばを
使っているが、その精神からいえば、単に保持するというだけでなく、さらに
拡充し、発展させ、また単なるお題目ではなく現実的なものとして行くことが
当然に、我々に「課せられている」ものと言わなければならない

この方団籐氏は法は静的なものではなく、動的なものとしている
解釈主義ではなくて、実情に合わせて努力して変更すら考えていくのが
法の基礎としている(と自分は解釈した)

昔は面倒くさくて読めないような理屈っぽい本が、
最近は現実世界と照らし合わせて想像できるようになっているし
それがとても興味深いものになっている
その反面、フィクションである小説類がどこか物足りなくて
読めなくなってしまっている
(小説は人名が覚えられないで避けているかもしれない、、、)
たまには、真面目に憲法のことを考えるのも悪くない

ここまでが引用部分

何でも努力が必要だとつくづく感じる
そしてその努力は報われなければ無駄になりそうだが
報われるのには時間がかかるという現実も歳を重ねて実感する

不断の努力という言葉は重い

 

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報道する価値もない事件だったのか?

2022年05月03日 09時22分45秒 | 徒然なるままに

昨晩、定時の放送前に防災無線放送が始まった
いつもと違うと不安を覚えてしまう
何事かと耳をすませると警察からで
新城市内のある家屋にガラスを割って泥棒が侵入した
との内容だった

GWで家を留守にしがちな時、出かける時は鍵をかけるように!
と注意喚起をして放送は終わった

気になるのは、被害にあった家はどこだったのだろう?
となるが、それはある情報筋から時間をかけないうちに明らかになった
と言っても自宅から離れているので詳しくはわからなかったが

そして今朝のこと、平穏な田舎では珍しい出来事なので
地元紙中日新聞の三河版にその記事が載っているものと思い込んで
ざっと目を通してみた

だが見当たらない
もう一度見直したが見つからない

このあたりでは珍しい出来事でも、世間にはそれら類似の出来事が多く
もはや新聞で扱うほどのことではなかったのだろうか

泥棒が珍しくもない、、というのは残念なことだ
確かに新東名高速道路のインターチェンジが開通した時
泥棒の事件が一気に増加したとの報告があった

どういうわけか、ある程度の割合で犯罪的なことは起きてしまう
鍵をかけないほうが悪いのではなく、泥棒するほうが圧倒的に悪い
子供の頃は、どの家も鍵などはかけてなくて勝手に上がったりしていた
ほんと、のんびりした時代だった

物理的な時間の矢は戻らないが、こうした社会環境は戻れものなら
戻れるほうが人はストレスのない生活ができそうと懐かしんでしまう

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「交響する経済学」気になったオランダのエピソード

2022年05月02日 09時51分01秒 | 

音楽のアルバムは、その中に2.3曲気に入ったものがあれば
それで良いとされるようだ
確かに自分も聞くのは数曲に限られることは多い
そしてそれで満足しようとしている

ならば読書も実は同じではないか
気になった箇所が2.3あればそれで良しとする
これは自分の読解力不足を慰める意味でも有効な考え方だ

最近読んだのはこの本 「交響する経済学」中村達也著


少し前の中日新聞の書評欄にでていた本で、面白そうなので早速アマゾンで求めた
いつものことだが気になったのは、本質部分とは外れているかもしれない
オランダの労働時間と休暇のエピソードだった

ヨーロッパ人は労働とか仕事に関しては日本人と根本的に捉え方が違う
それはキリスト教とかユダヤ教の伝統からくるものかも知れないが
仕事は苦役、、とまでは行かないにしても、そのくらいの感覚を持っているのではないか

ハンナ・アーレントは「人間の条件」で労働・仕事・活動と区別して
人の行動を考察している
その中では仕事は活動よりは低次なものとされている

だからこそヨーロッパ人は仕事の時間を少なくしようとする努力や社会制度に
日本人以上の熱心さで取り組む
その印象的な例がこの本にあった
以下はその中から抜き出したもの
 
石油危機後の経済停滞と深刻な失業問題を抱えていたオランダで、
1982年、(ワッセナー合意)と呼ばれる政労使間の注目すべき取り決めが成立した。
労働者側は賃上げ要求を断念し、使用者側はその見返りに雇用の保障と労働時間の短縮を進める。
そして政府は、賃金抑制による生活水準の低下を補うための減税を実施する。
3社がそれぞれに痛みを分かち合い、経済の停滞を乗り越え失業問題の解決に協力した。

なんだか近江商人の「三方良し」の世界観のようだ
お互いが利己的にならずに、解決すべき問題に現実的に向かい合っている様子が
少し羨ましく思えてしまう
オランダはもっと面白い制度がある

さらに注目すべきは、2006年からスタートした(ライフサイクル規定)と呼ばれる生涯時間貯蓄制度である。
労使間での合意が前提であるが、働く側がライフステージのそれぞれの時期に、育児、介護ケア、研修、
その他サバティカルの目的等で長期の休暇を取ることが可能となった。
その際に、長期休暇中の生活費を確保するために、毎年の給与所得の中から12%を限度に
さらに生涯全体では210%を限度に貯蓄するための専用の口座を金融機関に開設する。
例えば、2年間にわたって毎年所得の12%、合計24%を貯蓄すれば、
1年の24%に相当する2ヶ月余りの休暇を取得することができる。
最大210%を貯蓄すれば、2年余りの休暇を取得できる計算となる。
その間の生活を支えるための所得がこの口座から毎月支給され、貯蓄残高に対しては非課税、
給付される段階で所得税が課される。
休暇取得回数にに制限はなく、転職しても企業が倒産しても貯蓄残高は維持される。

単純にすごいな!と感心する
そして日本でもこれが実現されたなら、、と羨ましく思う

この羨ましく思うという感覚は、これを知っていないと起きる感情ではない
とすると、何かを知っているということは、不足を感じるきっかけとなる

昨日はメーデー
日本の労働者というより庶民は、自分たちが人間らしく生きらる社会を
他国と比べてみるというのは大事だなと思った次第

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