不確かな記憶だが、3人兄弟にうち2人が東大に入り
ひとりが将棋の棋士になった家族があった
その時、東大に入ったひとりが
「自分は頭が悪かったから(将棋界ではなく)東大に入る方を選んだ」
と自虐的に述べたそうだ
将棋の世界はとんでもなく厳しいもののようだ
プロになるのもとんでもなくハードルが高く
(年齢制限や勝率等で)
大きなタイトルを取るような棋戦では
挑戦者を決めるリーグ戦に入るだけでも
運と実力がないと達成されない
(大相撲で大関とか横綱になるのと同じくらい難しいようだ)
鬼の住処と言われる将棋の世界で、たったひとりで世間を騒がしている藤井聡太さん
昨日、王座戦で永瀬拓矢氏から3勝目をあげて
将棋界の全タイトルを保持する8冠を達成した
将棋は疎いが愛知県人なので、瀬戸市民ではないが応援してしまう
今の世の中はすごくて、Youtubeでこの王座戦の中継をいくつかのチャンネルで行っている
そこでは法的な制限から、十分なリアルタイムの盤上の戦いは映すことができないが
その代わりAIが戦いの優劣を数字とグラフで表している
素人はその数字とかグラフを見てハラハラ・ドキドキしている
実は、ほぼ同時期に囲碁の天元戦(関航太郎対一力遼)も行われているのだが
Youtubeでの中継は将棋と比べると中継動画は圧倒的に少ない
囲碁将棋と一括りされるが、将棋人気の高さをこれでも感じる
そしてそれは藤井聡太さんのおかげだろう
昨日は決着を見るためにYoutubeを何度かに分けて見た
最初は地味に永瀬さんが有利(70%)
この数字が棋士にとってどのくらいの差なのか分からないが
藤井聡太さんも苦労してるな、、と言う感じ
時間をおいて中継を見ると今度は評価値が逆転している
何かがあったのだろう、、このまま藤井さんが押し切るか
と思い、見るのを止めた
少し時間をおいてまたYoutubeを見ると、今度はまた数字が逆転している
その数字も圧倒的に永瀬氏の有利となっている
なにか失敗したのかな、、と思い、
流石に終盤でこの数字は藤井さんでも負けで、8冠は持ち越しか
と中継を見るのを止めた
そしてまた時間をおいて中継を見ると、数字は90%以上の確率で
片方に偏っている
流石に藤井さんも投了かな、、と思ったら、
その数字はまたもや入れ替わって藤井さんの勝利の確率だった
ここまで来ると再逆転はなさそうで、AIの示す最善手以外の手でも
評価値はそんなに下がらない
対局の永瀬王座の仕草に心の童謡が見える
(上半身は大きく動いている)
将棋も囲碁も敗着というものがあって、その手を打った棋士は
後悔の念と時を恨む気持ちで心乱れるだろう
前局に続き優勢を失着で失うことになった永瀬氏
彼はこの夜、眠れないだろうな、、と想像してしまった
それにしてもたった1人で世の中を動かしてしまうような人
というのは、なぜか時々生まれるものだ
そんな人達と同じ時代を生きて、同じ空気を吸っているのは
幸せなことだろう
(こうしたニュースがウクライナやパレスチナで流れる時は
いつやってくるんだろう)
先の投稿で取り上げたフルトヴェングラーの「音と言葉」を
本棚から引っ張り出してきた
ずっと前に購入したものだが、読み直してみると
その時ちゃんと内容を理解していたのか少し疑わしく思えた
(今なら切実感をもってわかる気がする)
本の中身は、えらく真面目なテーマが並んでいる
確か音楽評論家の遠山一行氏だと思うが、フルトヴェングラーが亡くなった
との報を耳にした時「ヨーロッパが無くなった!」と感じたそうだ
その感覚は何となく分かる
この本の扱っているテーマや内容は、ヨーロッパの精神文化だ
そしてそれはもう戻ってこないかもしれない音のような儚いものだ
建築物としての音楽、歌としての音楽、精神の表れとしての音楽、喜悦・官能としての音楽
規模は拡大し、調性も曖昧になり、もう専門の音楽家しか理解できないような
頭でっかちになった音楽
そしてそれらを培ったヨーロッパの精神風土
そしてフルトヴェングラーが戦争中にドイツにとどまった理由の一つとしての
自分の芸術を理解し、ともに作り上げることができるのはドイツ国民と信じた
ヨーロッパの空気
本から感じるこうしたヨーロッパの味わいは、
明らかに先の投稿の「指揮者は何を考えているか」の世界とは違う
ところでヨーロッパの終焉を感じる音楽がマーラーの9番の交響曲の第4楽章
特に理由はないが、とにかくそう思う
GUSTAV MAHLER Symphony No.9 (Adagio) LEONARD BERNSTEIN
図書館から借りた本と購入した本
どちらがしっかり読めるかといえば購入した本だ
お金の節約にはなるが、借りた本はどこか妥協したところがある
それに借りた本は返却日が迫るので、落ち着いて読めないこともある
先日までは借りてきた本を読んでいた
でも少しストレスが溜まってきてアマゾンで2冊お買い上げとなった
その一つが「指揮者は何を考えているか」ジョン・マウチェリ著だ
内容は
1 指揮をめぐるちょっとした歴史
2 指揮のテクニック
3 オーケストラのスコアの読み方
4 指揮者になるための勉強法
5 指揮者によって演奏が違うのはなぜか
6 様々な関係
音楽との関係
音楽家との関係
聴衆との関係
評論家との関係
オーナー及びマネジメントの関係
7 仕切っているのは誰か
8 長距離指揮者の孤独
9 録音対生演奏(対ライブ録音)
10指揮者をめぐるミステリー
なかなか興味深い
著者はバーンスタインの弟子で指揮者
現場の声を代表していろんな視点から珍しい話が続く
でも正直なところ途中で飽きてしまった
彼自身の経験の話が多いのは具体的でわかりやすいのだが
それに終止していると、どこか覚めてしまったのだ
(最近は気力が続かないことも多い)
指揮者の書いた本にはフルトヴェングラーの「音と言葉」
ワルターの「主題と変奏」などがあるが
フルトヴェングラーの難解な感じの、とにかく深く考えているな
と思われるようなものを、反動なのだろうか、もう一度読んで見ようかとの気になった
決めつけてはいけないが、どうも自分はアメリカの人の本の書き方
具体例を多くあげて紹介する方法(社会的・哲学的での)が
気分的に合わない、、感じだ
むしろ堂々巡りしているようなヨーロッパ系の書き方にシンパシーを覚える
(アメリカ人の本の書き方に関しては個人的な感覚で一般化することはできないだろう)
それでも指揮者という人々は、結構ストレスに晒される人々であることはよくわかった
始まったら終わりまで集中しなければならないし、ミスは自分では分かっているので
その傷がいつまでも記憶に残り眠ることもできなくなる
それを思うと、結構しんどい職業なのかもしれない、、(でも長生きの指揮者も多い)
この本の評価は「優良可」のうちの「可」
購入して気張ったものの少し空振りみたいな感じ
それはこちらのコンディションが悪かったからなのだろうか?
(仕方ない)
音楽は歌詞があっても基本的には抽象的なものだ
食べた人にしかわからない味を人に聞くのと同じで
人によって良し悪しも感じ方も違う
(でも何故か同じように感じる人が多い)
音楽はどこにあるか?
と問えば、楽譜の中ではなく流れているその時にしか存在しない
再現芸術としての音楽は、言葉では現しきれないものをダイレクトに
感情を通じて心のなかに入ってくる
今まで知っていた歌詞と違っていても心震えることってあるものだ
それがYoutubeで見つけた「100万本のバラ」の原曲
この歌はバルト3国のうちのラトビアの歌であることは知っていた
(大相撲の把瑠都はエストニア出身)
ネットサーフィンをしていた時に不意に目に入った「100万本のバラ」原曲の文字
聞いてみると素朴で良い(加藤登紀子さんのより良いかも)
それでSNSで動画を拡散してみると、それを見た人から
「朝からこの歌で泣けてしまいました。こんな歌だったんだね」
とのコメントがあった
この曲の印象を左右するのが歌詞であることは否定できないが
歌で泣く、、
現代人がしばらく経験していないと思われるこういう体験を多くの人ができたなら
きっと世の中はもう少し住みやすいものになりそうな気がする
「百万本のバラ」の原曲 Dāvāja Māriņa(マリーニャの贈り物)歌詞つき
iMacにOSのヴァージョンアップ(sonoma)のお知らせが来ている
新しいものはセキュリティも不安がないし
機能が追加されたりして(スクリーンセーバーなど)
使い勝手も良くなっているようだ
確かに新しいものには興味がある
でも、おいそれとヴァージョンアップにトライできない気分なのは
現在使用中のofficd for Mac 2019 が使えるかどうかが心配なためだ
新しいOSでこれが使えないとなると困る
アップルはどのソフトが変わらず使えるのか示してほしい
(すぐ見つけられるところで)
パソコンに詳しい人なら、悩む必要もなく直ぐに答えは出るのだろうが
今は使うだけになっている身とすれば、不安が先立つ
これはもう少し時間が経って
世の中にこの手の情報が出回ってからにしたほうが良さそうなので
暫くは音無しの構え!
クソ暑い夏がようやく終わりをみせたと思いきや
一気に寒くなってきた
涼しいどころじゃない、寒い!が肌感覚
それでも夏よりは良いか!
と思っていたが、寒くなったこの数日、腰が痛い
ずっと腰の調子は良くないが、それでもごまかせるくらいだった
しかし、寒くなってからは全然違う
もともと脊椎間狭窄症で、先日の健康診断でも身長は縮んでいたから
骨と骨の間は余裕無くなっているのだろう
こんなふうに寒くなると腰が痛くなるのが通常となるのはちょいと辛い
(寒さのせいと決めつけているが)
「歳のせい」で片付けられることも多くなってきている
同居人が新聞の投稿を見て「読んでみりん」と言ったのが
昔の自分と比較しないのがコツ、、、といった内容の投稿
確かにその通りだ
昔と比べると負けん気になって、つい無理をしてしまう
腰痛も進ませないように、速歩でウォーキングをしても
先日はいつもと違ってちょいと股関節あたりが変だった
それでも頑張ったせいで、翌日はダメージがあったようだ
結局なんでも程々にしないと駄目だ
それにしても困ったものだ
つい数年前、松葉杖を借りなければ歩けなかったことを思い出した
腰痛は炎症気味なのか、それともずっとこうなのか、、、困るな、、
腰痛、疲れ目にアリナミンEX プラス
プラシーボ効果を求めて服用しているが、
信じやすいので短い時間内は効いてるような気も、、、
ぎっくり腰みたいに、数日の痛みで消えてくれると良いのだが
小説以外の本(例えば解説書など)を読む場合
その中に一つの印象的な事柄を見つけられれば
元はとったと思うことにしている
最近読んでいる本「不安に克つ思考」
(多くの学者さんや経済人のインタビュー記事が載っている)
の中で見つけたそれはピケティが扱われた章で
ここには直感とか今までの常識的な考え方とは異なる事実が紹介されている
それは、有権者の行投票行動が所得、資産、学歴、民族的出自、宗教に応じて
どのように変化するかを調査した結果(調査期間は1948年〜2020年)
「左派政党を支持するのは庶民から高学歴層になった」との実態が書かれている
以前は、容易に想像できるように庶民階級が平等社会を求めて社会主義政党に投票し
「ブルジョワ」階級(高学歴層もここに含まれる)は保守政党に投票していた
(これはブルデューの「ディスタンクシオン」でも似たような結果が紹介されているだろう)
ところが、徐々にこの投票行動に変化が生まれてきて、社会的に恵まれた階級と
庶民の階級の間の双方で分裂が起きてきたとしている
社会的に恵まれた階級においては、所得が最も高い層は右派政党をし続けたのに対し
学歴が最も高い層は左派政党を支持するようになったというのだ
(高学歴の人々はノブレス・オブリージュの考えが身について
左派の理想にも違和感を持たないのかもしれない)
庶民階級でも移民の問題、人種問題をめぐって分裂が起きて
アメリカでは低学歴の白人(庶民層)は共和党(保守政党)へ
投票するようになった(以前なら自らを守るために社会主義政党に投票していたのに)
それはいくつかある理由の中で、社会に金融市場の規制が緩和され
資本の移動が自由になったが、そのような規制緩和を税制の調整もせずに
徹底的に推進したのは(頭でっかちの)中道左派の連中とみなされることになった
そうしたことから、中道左派政党はグローバル化で勝ち組となった人の
政党と思われるようになった
簡単に言ってしまえば
頭の良い人々(学歴の高い人)の良しとする政党は左派
それについて行けなかった底辺の人は保守党にシンパシーを感じるということ
最近はこの様に社会は経済的な分断だけではなく、学歴による分断もあるということだ
これは反知性主義と言われる人々が、知性主義(理想)を標榜する人を煙たく思い
もっと地に足のついた現実の問題に心を寄せてくれる人を支持するということだと思う
左派の高邁な理想より、現実対処法を打ち出す保守の方が
庶民には近しい気持ちを持つのだろうと想像する(これは特にアメリカ社会)
で、日本はどうなのか?と考えると
この国はそもそもそうしたことを突き詰めて考える国ではない気もする
「なんとなく」とか、「みんながそうだから」とか
所謂「空気」というものが今も大きな力を持っている気がする
ということで、一般論で社会のことを思っても
自然と自分の国のことを思うようになる
これは外国に行っても気がつくと自国のことを考えるのと同じだ
またもや日曜日らしくない、まとまらない話
先日の「八束穂地区における太陽光発電所建設に関する
住民の皆様はじめ関係者の皆さまへの説明会・意見交換会」
の新聞記事が今日の朝刊に掲載されていた
ここで気になるのは、事業者はどのような印象とか感想を持ったのかという点
思いの外、反対の声はなかったと解釈するのか
それとも新城の観光資源としての意味とか存在価値とか
今までそれを保存してきた人々の努力を蔑ろにできないとするのか
いったいどういう結論を出すのだろう
このソーラー発電の計画に関する新聞記事は客観的に報じてきただろうが
それを読んだ人の心をコントロールまではできない
先日の説明会では土地を提供する地権者の人々は
自分たちが「悪者扱い」される羽目になっていると怒りを現していた
ソーラー発電に反対する人や地域の人達は「地権者を悪人扱い」をしないために
先日の会では穏やかに対処していた
でもこの中日新聞の記事を読んだ人は、計画中止の淡い希望を持ちそうな気がするが
そこまでのトーンはないのだろうか
話は変わって、もう一つ、新聞記事で気になったのが「NGリスト」に関するこれ
(これは昨日の新聞記事)
官邸での会見にNGリストは存在しない
と官房長官が答えている旨を伝えている
だがこれは「誰々がこう言った」と言う類の記事で
それは本当のことかどうかはわからない
新聞記事はこの様な「誰々がこう言った」という種類の記事は
極力やめてほしいと思う
実は数年前、新城市では新庁舎建設に関して住民投票が行われ、住民は縮小案を選択し
そのあとで行政と縮小案を訴える住民とで実協議が行われたことがあったが
その協議の結論を報じた新聞は「市長はこう言った」と言う類の記事が掲載された
それは実務協議の両者が同意した結論ではなく、市長の立場の意見だった
また、これとは違う他の件でも「市長はこう言った」類の記事があった
それは赤字を続け続け、いつの間にかその目的すら変わってしまっている
新東名高速道路経由の新城名古屋間の高速バスの存続についてだが
住民有志は高速バス運行の中止を求める署名を集めて市長・議会に提出したが
その翌日新聞には「高速バスは継続と市長が言った」の記事が開催された
この時新聞には中止を求める署名のことは少しも触れられていなかった
(何故なんだろう)
新聞記事は掲載されると、その時点で真実と思い込んでしまう人が多い
「誰々がこう言った」はいつの間にか既定路線になってしまっているのが現実だ
このバスの件では、議会が反対すれば予算が下りず継続はできないことになる
にも関わらず住民はこの記事で決まったものだと勘違いをしてしまう
読む人が少なくなって、紙媒体としての新聞は存在そのものも危うくなっているが
人々に影響を与える力はまだまだ健在だ
(ネットニュースも元をたどれば新聞記事が多い)
いろいろ経験して、少しばかりズルくなると表に出ていることがすべて
とは思えなくなって疑い深くなっているが、世の中にはそういう人も必要!
と思うことにしている
いつもの、まとまらない話!
夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
奥の細道の中の芭蕉の有名な句だ
多くの日本人はこの句から漠然とした無常観や
時の移り変わりの寂しさを感じ取ることができる(と思われる)
目に入る風景が青々と伸びた夏草ではなく
ソーラー発電のパネルだとしたら、人はどのように感じるだろう
風情も何もあったもんじゃない
時代の変化がよくわかって時の残酷さが際立つ
何も感じない、、、などなど様々だろう
フトそんなことを考えたのは、昨晩、新城市八束穂の公民館で行われた
「八束穂地区における太陽光発電所建設に関する住民説明会・意見交換会」
にでかけたからだ
この場所は長篠・設楽原の戦いで武田軍が織田・徳川軍の馬防柵からの
火縄銃攻撃で壊滅的な敗戦を被った場所で
地元の有志による「設楽原を守る会」では、毎年、馬防柵の保守点検や
草取りなどを行い、歴史上重要な出来事の起きた場所を保存している
その場所に、ソーラー発電の計画があると新聞紙上に報じられたものだから
関係者は驚き・慌てた
風景を損ねるソーターパネル、なんとしてもそれは阻止したいと願う
「守る会」は直ぐ様行動を起こし、この計画の中止を願う署名活動を行い
その署名簿を事業者に提出した
新城市では新たにソーラー発電事業を行うには
条例で決まった手続きによることになっている
その中には「住民説明会」の開催があり、昨日はその説明会だった
新聞でも数回掲載されたこの案件は市民の関心度も高く
八束穂公民館には八束穂区の住民だけでなく
守る会のメンバーはもちろんの事、議員さん、郷土の歴史家、市職員
報道陣などの多くの人が集まった
事業者は京都に本社をおくエクソルで、18時から用意した資料とか
今どきの文明の利器(ズーム)を使い経営者の挨拶を交えて
手際よく説明会は進められた
もしかしたら荒れた説明会になるかもしれないと危惧したが
今回の事業に土地を提供する人も地元の住人で普段から顔を合わせる人
彼らの土地を提供するに至った気持ちも分からないでもないので
事業中止を願う人も強い態度には出なかった(本当に地権者の人を慮っていた)
驚いたのはここでは事業者に対する意見交換がメインであったのも関わらず
行政への不満(何もしないこと、知識がないこと、色々明らかにしないこと)が
数多く見られたことだ
実際のところ、この様な事業の可否はなかなか難しい
手続きさえちゃんとしていれば禁止できる法はないようだ
だがそれでは今まで古戦場を守ってきた人の気持が晴れない
事業者はソーラー発電事業の意味をいくつかの観点から説明し
それが社会的に必要なものであると訴える
そのように社会正義的な視点から諭されると
事業を中止して欲しい人たちの反論はなかなか難しい
しかも地権者は知り合いの人達で強く言いづらい、、
だがこの問題は、実は情緒的なものをどのくらい重要視するか?
という点でもある気がする
再生エネルギー事業の意味とか耕作放棄地の問題(地権者の抱える問題)
とかは確かに無視することはできないが、少し夢想家の自分は
あるべき風景はどのようなものがふさわしいいか!
といった価値判断をもう少し検討したほうが良いような気がする
言葉や数字で説明できる効果とか利益ばかりではなく
その存在自体の漠然とした価値、、
そうしたものに価値をおくかどうかが、実は問われているような気もする
説明会・意見交換会では非難が多かった行政だが
事業者が市に事前確認に行ったときには、市は
「関係法令上は問題はないが、当該地は市が史跡に指定している地域の一部であるため
景観上の観点から太陽光発電所の建設を再考してほしい」と答えているようだ
ところでソーラー発電の計画場所は、残念ながら馬防柵からしっかり見える場所
市には今のところ景観条例はないし、仮にあったとしても強制的に
ストップさせることはできないらしい
こういう時、市が良い解決策(聞いてみると多くの人が同じ意見だ)を提出してほしい
と思っているが、さてどうなるのだろう
ジャニーズの記者会見は、本質とは違う思わぬところが注目されることになった
ジャニーズの方から会場を指定され、時間も2時間に設定され
部屋いっぱいにはメディアの人々が鎮座
媒体もいればフリーランスの人もいたようだ
たいして見たくもなかったが、世間の注目は高く
その時間帯の民放の多くが生で中継していたので、見ることになった
ひとり1問のその場のルールで進行したが
質問者の話が要を得ず質問なのか、その人に意見なのか
捉えにくいものもあった
そして想像した通り、中には批判するための質問もあった
その場でその質問か?と疑問を覚えないことはなかったが
昨日今日のニュースで話題になっているのは、この記者会見では
質問を受けていい人、受けるのはマズイ人が人のリスト(NGリスト)が
作成されていた点が大きく報道されている
先程の報道では、質問NGのリストを作成したのは
この記者会見の運営を任されたPR会社だそうで
ジャニーズの役員の要請ではなかったらしい
だが、役員は事前にその存在を知ることになったとのことだ
でも今日のテーマは、このジャニーズの記者会見のことではない
また、今の世間の空気はジャニーズを叩きやすい空気で
メディアもCM起用の企業も実はあの実態を知っていたはずだ
とする声もあり、それが手のひら返しのように
ジャニーズNO!へ「右にならえ」とする姿勢の是非でもない
それは今までも同じようなこと(NGリスト作成に近いこと)が行われていても
問題視されない別の記者会見のことだ
それは政治の世界の記者会見だ
コロナ感染症の広がりで、首相等の記者会見は大人数の記者さんの前で行われなくなった
そしてそれは収まりつつある現在でも維持されているようだ
日本には記者クラブという(本当は必要ないかもしれない)ものがある
首相の記者会見はこの記者クラブに属する人しか出席できないのが一般的で
時にフリーランスの記者さんも参加できるようだが、記者会見の日程・時間は
直前に知らされ、しかも参加は抽選で決められるようだ
そして運よく記者会見に参加できても、質問できるかと言えば
質問へのハードルは高く、挙手しても質問の機会はない事が多いようだ
ここでも「ひとり1問」の方式で行われ、
答える人は書類を読んでいるとしか思えない映像が流れる
それは、はじめから質問内容を通告されているからのようだ
(質問に当たる人が決まってる?)
また以前、質問に誰がよく当たるか?を調べた人がいて
それによるとNHK、日本放送、読売新聞、フジテレビ等が
他の媒体よりも僅かに多くなっていた
現在の媒体は公平中立とは言えない
既に多くの人も媒体の方向性を薄々感じている
質問の機会を多く得ることができた上記の媒体は政府寄り!
とされている
ジャニーズの記者会見の「NGリスト」に近いものが
日常茶飯事のように国の記者会見で行われている(としか思えない)ことは
ジャニーズの問題よりももっと注目すべきだと思う
フリーランスの江川紹子さんや、外国人記者の西村カレンさんは
記者会見になかなか参加できず、できたとしても質問できない状況が多いらしい
現実社会は、報道されないことは、社会的に存在しないこと!に近い
メディアは、ジャニーズのNGリストに怒るだけでなく
今まで同様なことをされている記者クラブ優先の(そこには奇妙な力関係の存在する)
会見も怒りの声をあげるべきだと思う