夫婦別姓と夫婦同姓/“姓”が夫婦、家族の価値を分けるわけではない

2010-03-05 05:13:24 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

  ――夫婦家族とも、自律した存在であることを基本に据えなければならないはずである――

 極々当たり前のことだが、例え同姓家族であっても、形ばかりの夫婦もあるし、親子がばらばらの家族もある。家庭内離婚、あるいは家庭内別居を実質的な婚姻関係とし、あるいは会話のない親子関係となった家族の形は同姓が家族の絆の保証書とはならないことを如実に物語っている。

 生涯を誓って一緒になり、同姓をその証として名乗っていたとしても、離婚によってその証はいとも簡単に崩れる。年間離婚件数25万組以上、4秒に1組の離婚割合といった現在の状況がそのことを証明している。

 例え離婚という形式に進まなくても、家庭内別居、家庭内離婚といった形ばかりの夫婦の場合、同姓にどれ程の意味があるのだろうか。あるいは離婚しても、子どものために夫の姓を名乗り続ける女性がいるが、単に生活上の便宜からで、離婚した以上、同姓としての意味は失っているはずだ。離婚しても同姓だよと言ったら、笑われるだろう。

 法律上であろうとなかろうと、夫婦でなくなったなら、同姓はもはや意味を失う。夫婦としての実質性を失ったなら、同姓としての実質性も失われることになる。同姓自体に価値があるのではなく、実質的な人間関係にこそ価値を見い出すべきであろう。

 逆に別姓であっても、夫婦、親子の人間関係が密接で、それ相応の絆で結ばれていたなら、外から見た表札に違いがあろうとなかろうと、問題はないはずである。

 このことと同姓が必ずしも家族の絆の保証書とならないことを併せて考えると、別姓が家族をバラバラにするという反対論は根拠を失う。

 現在の結婚とは自律した個の存在が夫婦と言う形でその自律性を確保しつつ共同生活を営むことを言うはずで、自律した存在が相互に依存関係へと進むのが結婚ではないはずである。依存した関係は共同生活とは言えなくなるからだ。

 経済的に夫一人の収入に依存した生活だからとあらゆる点で夫の意思にまで従うとしたら、妻は自律した存在であることを失い、夫に支配された存在と化し、個としての意味を失う。

 子どもは幼い間経済的にも精神的にも親に依存した関係を持ち、ある意味親に支配される関係であり続けるが、少なくとも精神的には中学生の頃から自律した存在へと成長していく。個として生きる姿を取り始める。

 いわば夫婦にしても親子にしても、相互に自律した存在を維持してこそ、その絆は意味を持つ。どちらかがどちらかに依存した関係、どちらかがどちらかを支配した関係を絆とは言わないはずである。

 自律した存在であるなら、同姓であろと別姓であろうと構わないことになる。自律を実質的中身としたなら、“姓”という名乗りは形式と化す。元々社会的な便宜的形式に過ぎない。

 自律とは学歴や職業や地位やカネや家柄や血を、あるいは女性に対して男を権威とすることで、それら権威に精神的に支配され、有難がることから自由であることを言う。

 夫婦別姓で、子どもの姓が一方に決まり、もう一方の姓の家が絶えるとの反対論があるが、それは家や家柄、血を権威としているからだろう。誰の姓を継ごうと、子どもが健やかに育ち、自律した存在として社会人としての務めを十分に果たすことへの期待に意義を置き、そこに価値を見い出すべきで、自律した存在として社会に生き得なかったなら、結婚しても自律した存在として伴侶に対峙できず、継いだ姓そのものの意味さえ失う。

 また、夫婦の姓が違うからと子どもが学校でいじめられると言うが、法案が成立したなら、こういった家族が出てくると教えない学校はあるまい。日本の教師はそれほどバカではないはずだ。学校で教えたなら、「夫婦別姓よ。知らないの」と言えば済むこととなるし、そう言って済む社会でなければならない。

 日本社会は結婚すると、夫婦同姓が大原則だと言うが、同姓が夫婦の絆の保証書とは必ずしもなり得ないなら、大原則とすることの意味を失う。

 例え夫婦の絆が壊れることがあっても、相互に自律した存在であることによって迷惑が他に及ぶのを最小限に食い止め可能となる。そのとき子どもが自律した存在にまで成長していたなら、基本的には父親と母親の問題だと、自分は自分だと受け止めることができるはずである。

 例え自律とまでいかない成長段階にあったとしても、自律の芽生えを育んでいたなら、その当座はショックを受けたとしても、自律の確立と共に自分は自分として生きる道を選択いていくはずである。またそうしなければ、社会人としての当たり前の務めを果たすことはできない。

 同姓であろうと別姓であろうと、相互に自律した存在であることを欠いていたなら意味を失うなら、先ずは自律した存在となることを目指すことを結婚や家族形成の大原則とすべきであろう。

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