《「6年生は粗大ごみ」 福岡・香春の小学校、教諭が発言》(asahi.com/2010年3月17日12時49分)
福岡県香春町(かわらまち)の小学校で3月12日行った5、6年生合同の卒業式練習。5年の担任で同校生活指導担当の52歳の男性教諭が訓示。生活指導意識からの発言だったのか。
「6年生は粗大ごみ。先生にとって卒業式は大掃除であり、クリーン作戦だ」
その場にいた教頭が「不適切な発言」と注意。その上、子どもたちに謝罪。「君たちは粗大ゴミなんかでは決してない」と言って謝罪したのかどうかは記事には書いてない。「有為な社会人へと向かって発育途上にあるかけがえのない存在だ」と言ったかどうかも書いていない。
但し、「校長、教頭、以下すべての先生こそが粗大ゴミだ」といった自覚性に立った発言は行わなかっただろうことは想像できる。
52歳男性教諭「卒業式の練習をしっかりやってもらおうと気合を入れるためだった。申し訳ない」
「気合を入れる」ことと「6年生は粗大ごみ」だ、いわば不要になった邪魔だけの存在だと表現する感覚とどうつながるのだろうか。
生徒たちは「6年生は粗大ごみ」だと言われて、どう反応したのだろうか。ギャグだと受け取って、ワァーッと笑ったのだろうか。それとも言葉通りの意味で把えて、不愉快な気分に支配されたのだろうか。
教諭が生徒たちのテンションを上げるためにギャグとして発したとしたら、「気合を入れるためだった」は整合性を持ち得ないことはない。但し、「そうだ、俺たちは粗大ゴミだ、とっとと出て行こうぜ」と中学校3年生ならいざ知らず、小学校6年生の子どもが自覚的にそう把えるかどうかだが、感覚的にはそのように意識させる異質な巣立ちを促すことになりかねない。
いわば卒業式が与える厳か、神妙といったこととは無縁の感覚を混入させることになる。
尤もリハーサルに過ぎない。本番になれば、誰もがいよいよこの学校とも小学生であることともお別れだなあと神妙な気持になるものだから、取り立てて深刻に把えることはないという解釈も成り立つ。
だが、大人がそこに意地悪な理解を付け加えるとしたら、いくら冗談だったとしても、その小学校の6年間は粗大ゴミを育てる6年間だったのかという解釈を成り立たせることもできる。
兎に角生活指導担当の52歳の男性教諭を注意し、生徒に謝罪した。そして学校はその日に町教委に経緯を報告。素早い事後処理に動いた。町教育長は「6年生は粗大ごみ」発言した教諭のみならず、そのような発言をさせることとなった校長の管理責任も問い、「何たることか」と言ったかどうかも記事には書いてないが、口頭で注意。
教育長「このような発言は誠に遺憾。教諭らに対しても人権教育を徹底させたい」
これで教育長が「6年生は粗大ごみ」を人権侵害発言と看做したことが分かる。
そして卒業式リハーサルの次の日から校長ら3人が6年生全員の自宅を順次訪ねて保護者に謝罪してまわった。しかも19日の卒業式に件の教諭を出席させるかどうかは「子どもや保護者の状況も含めて検討中」と記事は書いているが、どうなったのか、その後については《52歳小学教諭が卒業式練習で暴言「6年生は粗大ゴミ」》(スポーツ報知2010年3月18日06時02分)が次のように書いている。
〈あすの出席を拒否する声も
卒業式は19日に予定されているが、この教諭の参加については賛否両論。学校は「みんなでいい卒業式にしたい」と参加させる方向だが、一部の保護者や児童から「出てほしくない」との声も出ているため、17日に全校生徒の保護者を学校に集めて理解を求めた。18日に校長が判断を下すという。〉――
19日が過ぎたが、出席が許されたのかを伝えている記事は見当たらない。上記記事は発言にショックで泣き出す複数の女子児童も出たと書いているが、「6年生は粗大ごみ」発言に生徒共々傷ついた父兄が存在したことを明らかにしている。
「スポーツ報知」記事は、全校生徒89人、1学年1クラスの構成、卒業式のリハーサルは5年生と6年生の児童計29人で行われ、うち6年生は16人だと書いている。
我々の時代は卒業式のリハーサルなどしたのだろうか。60年も前のことで、全然記憶にない。しなかったから、記憶にないのか、したのに忘れてしまっていて記憶にないのか、どちらなのかもはっきりしない。
言えることは、我々の時代と違って、時代の経過と共に権利意識が遥かに強くなっている。だからこそ、「6年生は粗大ごみ」発言を人権問題と看做したのだろう。権利意識は自身の立てた規律に従って正しく行動する自律性を身につけていることによって正当性を得る。自律的に正しく行動できない者が権利ばかり主張することはできないはずだ。
小学生の場合、6年生になる以前の段階で6年生を送る卒業式に参加し、それがどう執り行われるか、目、耳を通して経験し、頭に記憶しているはずである。6年生となって卒業する段階となったとき、卒業式に必要とされる行動を誰が管理・指示するのではなく、何度となく繰返し、積み重ねた経験の記憶に従わせてそれぞれの責任で自律的に行わせてこそ、時代的な権利意識に見合う自律性を要求し得るはずである。
例え卒業式に少しぐらいの滞りが生じたとしても、そのことよりも自らの判断に従わせる自律的な行動の要求を優先させ、そのように訓練づけ、慣習とさせることによって、権利意識に見合う自律的行動性が育っていくはずだが、それを練習、リハーサルと称して管理・指示して行動させる。
これは自律的行動性の育みに逆行する指示に従って行動する機械的行動性を育む訓練とはなる。
とすると、今の子どもは権利だけを言うとしている状況は子どもの責任と言うよりも、育み訓練づけるよりも、指示・管理で生徒を動かす大人(親や教師)の責任がより強いのではないだろうか。
生徒の自律的行動性に任せる教育訓練を長年をかけて施し、自律性を育んでいたなら、卒業式の練習も必要でなくなり、当然のこととして生徒の自律性を否定する言葉となる「6年生は粗大ごみ」なる教諭の発言自体も意味を失う。
「6年生は粗大ごみ」の記事を読んで、人権侵害ということよりも、教師一人だけではなく、学校全体が生徒を非自律の存在として扱い、生徒自身も非自律の存在のままとどまっているように見えて、そのことの方が気になった。