核密約/安倍元首相が言うように「日本を守るため」の判断なら政治に秘密があっていいのか

2010-03-10 07:11:37 | Weblog

 昨3月8日「JNN世論調査」記事――

 鳩山内閣を「支持できる」――37.7%(前月比-6.7%)
 鳩山内閣を「支持できない」――61.9%(前月比6.9%)

 政党支持率
 民主党――29.6%(前月比-2.0%)
 自民党――19.3%(前月比+0.6%)

 夏参議院選挙投票先
 民主党――25%
 自民党――20%
 まだ決めていない――41%

 無党派層
 民主党――7%
 自民党――10%
 まだ決めていない――69%

 「総理大臣を任せたい国会議員」

 自民舛添要一――13%(1位)
 鳩山首相   ――8%(2位)
 谷垣自民総裁 ――1%(その他大勢の中)
 小泉進次郎  ――1% 

 授業料無償化の対象に朝鮮学校も含めるべきか
 含めるべきだ――35%
 含めるべきではない――53%
 答えない・分からない――12%


 歴代自民党政権が「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を日本の核政策としながら、「持ち込ませず」に関して日米間に事前協議の対象外とした密約の存在を指摘した外務省有識者委員会報告書の提出に関して、自民党の安倍元首相が「いわゆる核の密約についての申し渡しは前任者(小泉純一郎元首相)からなかった」とした上で、次のように国会内で記者団の質問に答えたという。

 《【密約】安倍元首相「核密約の申し渡しはなかった」》msn産経/2010.3.9 17:14)

 「当時は冷戦時代で指導者が日本を守るために判断した。秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難するのではなく、今後、日本の安全に資する形で考えていくべきだ」

 「日本を守るために判断」することなら、政治権力が国民に対してどのような秘密を持っても許されるのだろうか。

 許されるなら、「秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難する」ことは安倍晋三が言うように間違っていることになる。

 だが、許されないなら、「秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難する」ことは間違ったことではなく、逆に二度と繰返さない今後の教訓とするためにも、“非難”されたことの事実の内容、非難されることを行った者の名前を歴史に刻み込むべきではないだろうか。

 政治権力がいつ、如何なる場合でも国のため(=国を守る)と称して国民に事実を隠してまで政治を行っていい理由があるだろうか。「平和のため」だとか、「国を守るため」だとか、「お国のため」だとか、政治権力が唱える正義が常に国民にとって正義である保証とならないことは戦前の戦争が何よりも証明していることで、政治権力にとっての単なる虚栄や利害、あるいは判断の間違いといったケースもある。

 政治権力が常に絶対でもなく、常に正義を体現するわけでもなければ、国民に知らされない秘密はあってはならないはずだ。国民に秘密を持たないことによって、いわば政治権力が国民にとって常に裸の状態であることによって、あるいはすべて国民の目に見える状態を保つことによって、政治権力は自らの間違いをよりよく制御し得る。

 国民の判断がよしとして認めた政治の間違いなら、国民の責任となる。

 国民の利益に適うなら、秘密はあってもいいという論は一見正しいように見えるが、国民の利益に適うとする解釈が常に正しい保証はない以上、それを判断するのは政治権力側ではなく、国民の側になければならない。当然、秘密があったのでは国民は判断の任を負えなくなる。

 また“判断”は“知る”行為を前提とせずに成り立たない。国民に知る権利を認めているのは、その権利を遮断することになる秘密を排除することをも含めているはずである。

 元々民主主義国家に於いては政治は国民の負託を元に行われるのだから、政治権力は国民と情報を共有する責任と義務を負うはずである。当然、国民に知らされない秘密は存在しないことになり、存在させてはならないことになる。

 またそのための国民主権でもあるはずである。

 勿論、政治を行う上で、特に外国との交渉が関わる外交に関しては秘密保持が必要なケースもあるだろうが、その判断が正しかったかどうか国民に知らせ、検証を受けるために何年を経過した外交文書は公開するという情報公開のルールが民主国家には存在する。

 いわば一定期間を置いて政治権力は自らを裸とする義務と責任を負う。

 このことは政治権力は国民に対して秘密を持ってはならないという原則に立ったルールの反映物でもあるはずである。

 今回核密約に関して破棄された文書の存在が疑われるということだが、事実なら、一定部分の政治行為を国民の目に見えない闇に葬り去ったことを意味する。これは国民の負託に対する裏切り行為でもあろう。
 
 政治権力はいくらでも国民を騙せる位置にいる。このことも戦前の日本の政治権力が証明してくれる。大本営発表と称して、国民を騙すニセの事実をタレ流した。新聞・ラジオにウソの事実を発表させた。天皇にまで、ウソの戦果を伝えた。結果、ムダに戦争を長引かせることとなった。何しろ大本営発表上は日本はアメリカに対して有利に戦争を進めていることになっていたからだ。有利に進めているとしたために、そこでやめる手を自ら縛ってしまった。

 戦後の日本が国民の負託を受けて政治を行う民主国家としてスタートを切ったことを無視して、安倍晋三は無責任に政権を投げ出した愚かしい政治家らしく、結果的に投げ出したことは正解ではあったが、いわばその無責任さが偶然にも助けた政治推移であったが、「日本を守るために判断」することなら、政治権力は国民に対して秘密を持ってもいいとしている。
 
 これは国民と情報を共有することで果たし得る民主主義に則った負託違反を意味する。

 負託違反は最終的な判断は国民が権利として持つとするルールの無視そのものであるが、このことは「今後、日本の安全に資する形で考えていくべきだ」という言葉に象徴的に表れている。

 誰が「日本の安全に資する形で考えていく」か、その誰かは政治権力(=国家)を指していて、その判断による執り行いのみを言うことで政治権力(=国家)を常に正しい場所 無誤謬とする場所に置いている。

 だからこそ、「当時は冷戦時代で指導者が日本を守るために判断した」と核密約を正当化できるのだろう。
  
 だが、政治権力(=国家)を常に正しいとする無誤謬の場所に置くことによって、逆に最終判断の権利を持つ、当然権利と同時に責任を持つ国民の存在及びその判断を無視し、省くことになっている。このことが負託違反に当たる。違反に気づかないのは安倍晋三が代表的な国家優先の(=国家の判断を優先する)国家主義者だからだろう。

 安倍晋三と同じ代表的な国家主義者の一人である麻生元首相も核密約を正当化している。

 《【密約】麻生前首相、「自分は承知していない」とコメント》msn産経/2010.3.9 20:19 )

 「『密約』については、自分は承知していない。核の持ち込み問題についての当時の国会・国民への説明ぶりは、我が国の安全保障を確保するとの観点に立った賢明な対応であったと考える。そのような対応により、今日の我が国の安全と繁栄が確保されていると考える」――

 これは国民の利益に適うなら、秘密はあってもいいとする論と同一を成す発言であると同時に、安倍晋三と同じく、政治権力(=国家)無誤謬説(政治権力、国家の類は常に正しいとする説)となっている。

 冷戦の影響を受けてどうしても秘密が必要だったとしても、政治権力側のその判断は最終的には国民の判断を受けるべきで、その判断を待たずに政治権力側に立っていた者が国民の判断抜きに「賢明な対応であった」とか、「今日の我が国の安全と繁栄が確保されている」と正当化していいものではないはずだ。

 いわばこのようなゴマカシの正当化を 「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を提唱した佐藤栄作元首相も犯している。

 《日米密約:佐藤栄作元首相「非核三原則は誤り」》毎日jp/2010年3月9日21時07分)

 1969年の沖縄返還交渉時に、「『持ち込ませず』は誤りであったと反省している」と、外務省幹部との会議で発言していたことが9日公開の外交文書に記されているという。

 意識の中では自らの政治性から「持ち込ませず」を抹消し、非核三原則を破綻させておきながら、そのゴマカシを隠して1974年に非核三原則の提唱などが評価されノーベル平和賞受賞の正当化を果たしたのは政治権力者であった自身と国民に対する何よりの欺瞞行為であったはずだ。

 政治権力(=国家)のどのような政治判断であっても、最終的な判断は国民の側に権利として存在する。政治権力(=国家)のみの判断で終わらせてはならない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする