――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを――
岡田外務大臣が3月17日の衆議院外務委員会で自民党の岩屋毅議員の質問に答えて、鳩山政権として非核三原則を堅持する方針を改めて強調、その一方で将来、有事の際に核兵器を積んだアメリカの艦船の日本立ち寄りが迫られた場合には時の政権が判断すべきだという考えを示したという。
《“有事の際 時の政権が判断”》(NHK/10年3月17日 16時44分)
岡田外務大臣「鳩山政権は、非核三原則を変えるつもりはない。・・・・もし核の一時寄港を認めないと、日本の安全が守れないという事態が発生した場合には、その時の政権が命運をかけて決断し、国民に説明すべきだ」
社民党などが求めている非核三原則の法制化については――
岡田外務大臣「鳩山政権として法制化という考えは持っていない。ロシアや中国の艦船が核兵器を積んで日本の領海を通過しないという担保をどうとるのかといった問題などがあり、こうしたことに明確に決着をつけないと、法制化は難しい」
「衆議院インターネット審議中継」からこの部分のみを文字化してみた。
岡田外務大臣「問題は議員ご指摘の、じゃあ、緊急事態ということが発生したときに、どうするか、ということであります。我々は非核三原則をは守ると、いうふうに申し上げております。非核三原則って言うのは、それは国民を守るために非核三原則と、いうことを主張しているわけでございます。
あんまり仮定の議論はすべきではないとないと思いますが、緊急事態ということが発生して、しかし核の一時寄航ということを認めないと、日本の安全を守れないという事態がもし発生したとすれば、それは、そのときの政権が政権の命運を賭けて決断をし、国民のみなさんに説明をする。そういうことだと思います」――
要するに緊急事態発生時、いわゆる有事の際の核政策に関して時の政権の決断と国民への説明をセットにしているということであろう。
例えセットにしていたとしても、断るまでもなく政権の「決断」を「国民に説明」のみで終わらせることはできない。決断の「説明」を受けて国民の側に納得、承諾、反対、拒絶といった反応が生じる。納得、承諾の反応の場合はいいが、反対、拒絶の場合の次なる政権の「決断」はどうするのかという問題が発生する。
「あんまり仮定の議論はすべきではとないと思いますが」と言いながら、可能性としては絶対ないとは否定できない将来事項だからこそ「仮定の議論」にまで踏み込んでいるのだろうから、次の局面として確実に生じる“国民の判断”に対応する政権の「決断」にまで踏み込んだ危機管理構築への備えがないと、「核の一時寄航ということを認めないと、日本の安全を守れないという事態」が発生してから「国民に説明」では遅きに逸することにならないだろうか。
それとも国民の大多数に反対、拒絶の反応が生じた場合は単に「国民に説明」のみで終わらせて、無視するのだろうか。あるいはそのときの国民感情から国民の反対、拒絶を読み込んだ場合、責任逃れから、国民に対して秘密裏に核の持込を許す、いわば事勿れで済ますことができる“密約”へと姿勢を先祖返りさせるのだろうか。
この岡田発言に対する平野官房長官の3月17日午後の記者会見での反応を《有事の核持ち込み、容認せず=岡田外相発言に不快感-平野官房長官》(時事ドットコム/2010/03/17-17:07)が伝えている。
平野「政府として容認するという立場にない。非核三原則を守るということは、鳩山由紀夫首相も発言している」
平野「(核持ち込みを)容認するという発言ではないのではないか。どういう有事のことを言っているのか、よく承知していない。たらればのケースで政府が言及することは控えないといけない」
現在の政治状況が判断し得る危機のみならず、将来に亘って判断可能なあらゆる危機を想定してそれぞれの対応策を前以て講じておくことが安全保障上の危機管理であろう。判断可能なあらゆる危機の想定とは、「たらればのケース」を以って行う危機の想定なのは断るまでもない。
それを「たらればのケースで政府が言及することは控えないといけない」は平野官房長官が事勿れな政治家だからなのは言を俟たない。東海地震対策にしても、「たらればのケース」に備えて二十年三十年と対策を講じてきた。国民の反核感情が強いからと言って、安全保障上の危機の想定から逃げるのは事勿れと言うほかない。
当ブログ3月14日記事――《核密約/国家権力の“密約”よりも国民の判断を優先させる方法論とその効果》に次のように書いた。
〈日本の安全保障上、当時の国際状況に於いては最低限アメリカの核の持ち込が必要だと国家権力が考えた場合、それを果たすためには国民の反核感情が障害となったとしても、その障害をクリアする努力を最初に持ってくるべきであろう。
説明し、同意を得るのも政治家の能力である。自らの望む方向に如何に説明をし尽くすか、政治家の説明の能力にかかっている。
政治権力が自ら正しいと判断しているなら、説明して、その正しさを獲得すべきである。
もしいくら説明しても国民には理解する能力がないと看做して秘密の取り決めを選択したというなら、一種の愚民政策となるばかりか、国民を下に置いて自らを上に置く危険な思い上がりとなる。政治権力が常に絶対でもなく、常に正義を体現するわけでもなく、往々にして過つ存在だからだ。
同意を得る方法は選挙に諮る方法が一般的であるが、選挙は選挙区の利害等が絡んで争点を必ずしも一つに絞ることはできないというなら、このことは厳密には郵政選挙でも同じだったが、憲法改正に関わる国民投票のみならず、重要政策を諮る国民投票法を制定して、争点を一つに絞った政策についての国民の判断を仰ぐ方法もある。
国民の判断が誤ったとき、勿論、国民の責任となる。だが、国民が責任の帰属を自らに直接課せられる判断を求められることによって、その政策に関わる判断に応じようとした場合、その政策についての政治意識を否応もなしに高めざるを得ず、それは他の政策に対しても反映され、役立つ効果を生むはずである。〉――
岡田外相が言う「国民に説明」はさらに「国民の判断」をセットとしなければならないということである。その判断が持込みノーの場合、時の政権の決断は国民の判断に従う“決断”になるのか、従わない“決断”になるのか。
国の安全保障、国家的危機管理を国民自らが引き受けて行わなければならない責任意識の育みに役立たせるためにも、今から国民の判断に従うとすべきだろう。日本の安全保障の命運は国民の判断と責任に任せると。