安倍晋三の米議会演説「日本人は民主政治の基礎をゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきた」のウソ

2015-05-01 10:02:57 | 政治
 


 安倍晋三の4月29日、《米議会上下両院合同会議演説》はアメリカを褒めて、褒めて、褒める傍ら、自身をも褒めているが、アメリカ讃歌の体を成している。  

 こうまで褒めるのは安倍晋三自身の対米従属観の現れそのものであり、その反映であるが、ウソを混じえてはいけない。

 その一つを今回のブログで見てみる。

 安倍晋三「私の苗字ですが、『エイブ』ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。

 農民大工の息子が大統領になれる、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。

 日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています」・・・・・

 自身をエイブラハム・リンカーンに擬(なぞら)えるとは太々しい。

 「民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきた」と言い、「農民大工の息子が大統領になれる、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させた」と、「近代化」というキーワードと、「19世紀後半」というキーワードで明治維新以降、さも日本がアメリカを手本に民主化に努めたかのようにアメリカを持ち上げているが、工業の近代化は果たすことができたものの、統治体制や社会体制、個人の権利等については敗戦まで満足な形で果たすことができず、歪(いびつ)な民主政治の形態を維持することになり、特に戦争時代は軍部独裁を国の形とした。

 このことは、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と、日本という国が如何なる国かを定義した1937年(昭和12年)文部省作成の『国体の本義』の西洋思想排斥が証明してくれる。

 「西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かかる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた」と、「歴史的考察」――いわば日本の神話に関わる歴史世界――を欠いていると言いながら、「我が国の諸種の改革に貢献」し、「その影響を我が国本来の思想・文化に与へた」と肯定的に捉えているが、「近時、西洋の個人主義的思想の影響を受け、個人を本位とする考へ方が旺盛となつた。従つてこれとその本質を異にする我が忠の道の本旨は必ずしも徹底してゐない。即ち現時我が国に於て忠を説き、愛国を説くものも、西洋の個人主義・合理主義に累せられ、動(どう)もすれば真の意味を逸してゐる。私を立て、我に執し、個人に執著するがために生ずる精神の汚濁、知識の陰翳を祓ひ去つて、よく我等臣民本来の清明な心境に立ち帰り、以て忠の大義を体認しなければならぬ」、あるいは「我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それは家である。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。従つて家は固より利益を本として集つた団体でもなく、又個人的相対的の愛などが本となつてつくられたものでもない。生み生まれるといふ自然の関係を本とし、敬慕と慈愛とを中心とするのであつて、すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである」と、西洋思想に於ける個人に立脚した社会や国家を否定して、それを「家」単位に変えて、真っ向から西洋の思想を否定している。

 要するに明治維新の近代化以降、日本が「民主政治の基礎」をエイブラハム・リンカーンの「ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきた」は真っ赤なウソに過ぎない。

 誰かが、あるいはある勢力が求める努力をしたかもしれないが、努力を実らせることはできなかった。

 愚かな戦争の敗戦を経て、初めて日本国民は民主政治に目覚めた。そのバイブル・道標(みちしるべ)となったのが、安倍晋三が「占領軍が創った」と嫌悪している『日本国憲法』である。

 安倍晋三が日本の占領時代と占領軍政策を嫌悪するのは戦前日本国家肯定の裏返しとしてある。

 2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」に寄せた安倍晋三のビデオメッセージが

 安倍晋三「皆さんこんにちは。安倍晋三です。主権回復の日とは何か。これは50年前の今日、7年に亘る長い占領期間を終えて、日本が主権を回復した日です。

 しかし同時の日本はこの日を独立の日として国民と共にお祝いすることはしませんでした。本来であれば、この日を以って日本は独立を回復した日でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、そしてきっちりと区切りをつけて、日本は新しいスタートを切るべきでした。

 それをやっていなかったことは今日、おーきな禍根を残しています。戦後体制の脱却、戦後レジームからの脱却とは、占領期間に作られた、占領軍によって作られた憲法やあるいは教育基本法、様々な仕組みをもう一度見直しをして、その上に培われてきた精神を見直して、そして真の独立を、真の独立の精神を(右手を拳を握りしめて、胸のところで一振りする)取り戻すことであります」・・・・・・・

 占領政策が「日本と日本人の精神を改造した――」

 占領時代に改造される前の、いわば大日本帝国時代の「日本と日本人の精神」にこそ重要な意味・重要な価値を置いているからこその占領時代的なるもの全てへの嫌悪に他ならない。

 にも関わらず、民主主義の価値観を自身の価値観にしているかのように言葉を装っている。

 「民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきた」という演説言葉には別のウソが込められている。

 私自身はエイブラハム・リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という言葉は知っていたが、無知ゆえにそれがゲティスバーグ演説とされていることは知らなかった。それを知るためにネットで「ゲティスバーグ演説」で検索してみると、「Wikipedia」で次のような解説に巡り会った。

 〈「ゲティスバーグ演説」1863年11月19日、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが行った演説。

 1946年、GHQ最高司令官として第二次世界大戦後の日本占領の指揮を執ったダグラス・マッカーサーは、GHQによる憲法草案前文に、このゲティスバーグ演説の有名な一節を織り込んだ。

 Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. (GHQによる憲法草案前文)

 ――この一文がそのまま和訳され、日本国憲法の前文の一部となった。――

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」〉――

 太文字の部分がリンカーンのゲティスバーグ演説の「人民の人民による人民のための政治」(「that government of the people, by the people, for the people」)という言葉から取った言葉だという。

 だが、自民党憲法改正草案から、上記前文は消えている。

 〈日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。〉

 「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」として、一応国民主権を謳っているが、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」だと、天皇を国民の上の位置に置いている。

 天皇という存在を国民の上に置いた位置関係の範囲内の国民主権という制約を設けている。

 この制約は「人民の人民による人民のための政治」という言葉が国民主権そのものを純粋な形で謳っているのだから、「ゲティスバーグ演説の有名な一節」を自民党憲法改正草案で裏切っていることになるばかりか、この点に関しても日本人は「民主政治の基礎をその一節に求めてきた」とする安倍晋三自身の演説の言葉をウソにすることになる。

 もし安倍晋三が米議会演説で自民党憲法改正草案との関連に気づかないまま「ゲティスバーグ演説」に触れたのだとしたら、偶然のイタズラが結果的に安倍晋三にウソを仕向けることになったのかもしれない。

 ウソばかりついていると、こういうことになる。

 但し自民党憲法改正草案が民主主義を危うくする憲法であることに変わりはないし、安倍晋三の米議会演説が多くのウソを散りばめていることに変わりはない。

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