「生活の党と山本太郎となかまた ち」
《15月19日 小沢一郎代表・山本太郎代表の定例記者会見要旨》
小沢代表は「権力を濫用することを何とも思わない安倍政権は何するか分からない。野党が真剣に本
気にならないといけない」と野党協力の重要性を指摘。
山本代表は新ポスターの制作意図などを説明
【質疑要旨】
○維新の党、野党との選挙協力について
○橋下大阪市長の政界引退表明・再登板について
○「大阪都構想」住民投票と道州制・国民投票との関係について
○安保法制における内閣法制局の役割について
○TPP交渉差止・違憲訴訟について
○福島健康調査で甲状腺がんの子供が126名に達したことについて
○生活の新ポスターについて
《5月26日 小沢代表・山本代表記者会見動画 党HP掲載のご案内》
安保法制、日米関係、官僚主導、野党結集、経済政策などの質問に答えました。
安倍晋三はよく知られているように教育政策に熱心である。勿論、国家主義者らしく、その教育政策は国家主義的教育の彩りを纏わせている。
国家主義とは国家を優先させた国民の存在性という構造を取っている。そこから安倍式愛国心教育が生まれている。
上から国を愛せと言うのは国を上に置いて国民を下に置くことによって可能となる。上が下に対してああしろ、こうしろと指示・命令する構造を取ることになるからだ。
国民の間から自然発生的に生じた愛国心はああしろ、こうしろという指示・命令を受けたものではないゆえに国を上に置くのでもなく、下に置くのでもなく、対等視した国と国民の関係を取ることになる。
男女の関係も同じであろう。
安倍晋三の教育政策の中身はともかく、政策決定のプロセスにこの上を絶対的とする国家主義の力学が働いていることを窺わせる記事に出会った。
《教育改革:「再生会議」が次々と提言 「実行力」に警戒も》(毎日jp/2015年05月25日 09時34分)
記事全体はアクセスして読んで貰うとして、政策決定のプロセスのみを取り上げてみる。
自民党の「教育再生実行本部」が具体案を含む「改革の骨子」を作成
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政府「教育再生実行会議」(2013年1月設置)が上記「改革の骨子」を肉付けした「改革案」を作成、文科相の下村博文に提言
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下村博文が文科相の諮問機関中央教育審議会(中教審)に諮問
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中教審で制度設計に向けて審議し答申
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文科省が法改正などで実現
こういった形式を取るそうだ。
政府「教育再生実行会議」を牽引する教育再生担当相と政策を具体化する文科相を下村氏が兼務していることが提言の実現度を高めているとの指摘もあると記事は解説している。
別に兼務自体に問題があるわけではないはずだ。問題は中教審の委員や元委員の間に不満の声があると伝えていることである。
ある委員「中教審に諮問された段階で結論が決まっていて、それから外れた結論は出せない雰囲気がある」
元委員の一人「最近は(教育再生)実行会議の提言が『上意』となってしまっている。だが中教審は毅然(きぜん)とし、自分たちの教育的観点から吟味すべきだ」
元委員の一人が「中教審は毅然(きぜん)とし、自分たちの教育的観点から吟味すべきだ」と危機感も露わに警告を発しているが、自分たちが理想とするそのようなあるべき姿に持っていくことができない状況と彼らの無力を見て取ることができる。
なぜ彼らはその時々の場で政治家たちの結論ありきに対して教育に関わる自分たちの主張を闘わせることができないのだろうか。なぜ結論ありきの勢いに抵抗することができずに自分たちの考えを飲み込んでしまって、最初からの結論に従ってしまうのだろうか。
ここに見て取ることのできる両者の関係は自民党議員や文科相とは対等な関係ではなく、そういった関係を築くことができず、自分たちをその下に置いた上と下の関係である。
このような上下関係が上の最初からの結論ありきを許し、結論に対する下の沈黙を可能とする。明らかに国家主義の上下関係をここにも見ることができる。
このように政治家を上に置いて自分たちを下に置き、上に妥協する姿は中教審の委員たちばかりではないのを我々は見てきている。
既に周知の事実となっているが、2014年12月14日の総選挙約1カ月前の11月18日、安倍晋三がTBS「NEWS23」に出演、番組が街の声をインタビューした録画を流した際、その声の殆どがアベノミクスに否定的だったことに対して「街の声ですから、皆さん選んでいると思いますよ。もしかしたら」と、さも番組が街の声を意図的に情報操作したかのように発言したことに端を発した、その2日後の11月20日の「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに番組報道の公平・公正・中立を求める文書を送った報道圧力に対して萎縮状態を呈することとなったテレビ局の現場の人間たちである。
この報道圧力を今年に入った2015年3月9日、衆議院予算委員会で民主党の細野豪志が取り上げて安倍晋三を追及している。
細野豪志「昨年の11月18日のNEWS23のあの御発言。これは解散を表明された日ですね。アベノミクスについていろいろな方がコメントしたのに対して、これ全然声が反映されていませんが、おかしいじゃないですかという発言をされた件、あれ、私、テレビを見ていて非常に気になりました。
さらに気になったのが、それに対して大串議員が質問をしたことに対して、これおかしいじゃないですかとおっしゃった発言を、私の考えをそこで述べるということは、これはまさに言論の自由だと言い切った。正直言って、ちょっと衝撃を受けたんですね。
こういう発言も、総理の言論の自由だという御発言は、これは変わりませんか。この思いは変わりませんか」
安倍晋三「先ず、私は、これは裏で言った話ではなくて、細野さんもごらんになることができるテレビの前で、いわば国民の声としてさまざまな街の声が紹介された。その中で、いわば、実体経済として、先ほど就職の内定率等お話をさせていただきました。そして、間違いなく名目賃金においてはよくなっているわけでございます。そういうことについて、これは反映されていないではないかということを言うのは当然のことなんだろうと思います。
そして相手側も、そうした私の指摘に対して、それはそんなことありませんよと反論すればいいだけの話じゃないですか。当然そうでしょう。反論できないわけじゃないですよ。
もしかしたら、私の論調が、私に対して議論を挑むと論破されることを恐れたのかもしれない、こんなように思うわけでありますが、いわば、当然、そこで議論し合えばいいだけの話ですよ。わざわざここで、予算委員会で何か、そんな、表現の自由とか報道の自由とかいうところから議論をするような話ではなくて、そこはまさに、番組において、私はそう思いますよということを述べた」
――(中略)――
細野豪志「今起こっていることは、実際、私も報道関係者と話をしていますけれども、この話になると、みんな口を閉ざすんですよ。表現の自由とか言論の自由を常にいかなる状況にあってもしっかりと確保するだけの状況をつくるのが総理の仕事であって、報道機関に対してクレームをつけて、それを言論の自由なんと言われたら、それは人権そのものに対する大変な侵害なんですよ。
少なくとも、総理、いろいろ意見を言いたいことはあるでしょう。それは言っていただいて結構。しかし、こういう、報道に対して意見を言うことを言論の自由と言うことは、これからやめていただきたい。いかがですか」
安倍晋三「全くそれは認識の間違いだと思います。
いわば、選挙を前にしていて、報道は正しくしてもらいたいという考え方があります。真面目にやっていただきたい。その中で、例えば、私がその当該番組の関係者に電話して何かクレームをつけるというのとは違うんですから。その場に出ていて、国民の皆様の前で、私はこう考えますと述べている。それを圧力と考える人なんか、私は世の中にいないと思いますよ。それを、圧力とかそういう形で。
そして、番組の人たちはそれぐらいで萎縮してしまう、そんな人たちなんですか。情けないですね、それは。極めて情けない。別にそれが、みんな萎縮しているわけではなくて、例えば夜、夕刊紙でも買ってくださいよ。何と書いてありますか。見事に、日本では言論の自由は守られているんですよ」
――(中略)――
細野豪志「総理、現実に、報道機関の萎縮はかなり起こっています。私は、今の自民党のこのやじの状況が危機的だと思うんですよね。
私はある自民党の重鎮の方にこの話を少し話しましたが……(発言する者あり)ちょっと聞いてください。静かにしてください。こういったことに関して、自民党の中から、総理、そんなことを言うべきでないと言う人が一人もいないということが非常に問題だと、その自民党のOBの方は言っていましたよ」
――(中略)――
安倍晋三「前程自民党側から全く声が出ないというのは、私は、議論に値しないと皆さん思ったんだろう、いわば議論以前の問題だろうと」――
安倍晋三の答弁には相変わらずウソとゴマカシが混じっている。細野が質問の中に加えなかったからでもあるが、テレビ局の現場が萎縮したと言われているのは安倍晋三の側近中の側近の萩生田光一がもう一人と連名で在京テレビキー局に送った番組報道の公平・公正・中立を求める文書が原因となっているのであって、安倍晋三の「NEWS23」での発言は単に報道圧力の端緒となったに過ぎない。
細野豪志が「この話(萎縮の話)になると、みんな口を閉ざすんですよ」と言い、「総理、現実に、報道機関の萎縮はかなり起こっています」と言ていることからすると、巷間噂されていたように報道の現場では実際に萎縮が起きていたようだ。
そのような萎縮が安倍晋三をして正論を導き出させることになる。
「相手側も、そうした私の指摘に対して、それはそんなことありませんよと反論すればいいだけの話じゃないですか」
「番組の人たちはそれぐらいで萎縮してしまう、そんな人たちなんですか。情けないですね、それは。極めて情けない」
「当然、そこで議論し合えばいいだけの話ですよ」
そうしなかった、あるいはそうするだけの意志の力を持てなかったために、「もしかしたら、私の論調が、私に対して議論を挑むと論破されることを恐れたのかもしれない」などと思い上がったことを言わせることになった。
このような萎縮現象が起きるのは、既に触れたように政治家、あるいは総理大臣という対象に対して報道の人間たちが自分たちを下に置いた上下関係を取っているからである。
もし対等な関係を取っていたなら、堂々とした論陣を張って渡り合い、萎縮は起きない。
そしてこの現象は、前々からブログに書いていることだが、日本人の行動様式・思考様式である権威主義から来ている。
上が下を従わせ、下が上に従う権威主義は地位の上下をそのまま人間関係の上下としている。上の言うことを、例えそれが間違いだと思っても、言いなりに従うことが下の者として優秀な人間とされる。
アメリカ映画では下士官が上官に対して上官の意見に反する主張をしたり、一警察官が署長等の上司の主張に対して反論したりするシーンをよく目にする。上の者が最後に、「これは命令だ」と従わせようとすると、憤然として踵を返し、ドアを音と立ててバターンと占めて、反抗の態度を示す。
日本映画ではそういったーシーンにお目にかかることはない。お目にかかったとしても、現実にはないシーンであろう。
権威主義は生まれてから上に位置した親が下に位置させた子どもに対して、ああしろ、こうしろという指示・命令を出す育児で植え付け、学校に入ると上に位置した教師が下に位置させた児童・生徒に対して教師が教える知識・情報を教えるなりに暗記させ、児童・生徒がそのままに自分の知識・情報とする形式で権威主義を色濃く育てていくことになる。
結果、児童・生徒が教師に対してまともな議論の形で意見を言うことも自分を主張することもないし、児童・生徒が同じくまともな議論の形で相互に意見を言うこともないし、ましてや言葉を戦わせることもない。
議論とは自身の考えを戦わせることを言い、自己主張の形を取る。だが、そういった習慣がないままに大人となっていく。このことゆえに言語能力の欠如が言われる。
日本人の大人が上の地位の人間に対して自己主張が不得手なのはこの権威主義が原因となっている。
アメリカの教育は逆に自分の意見を言うこと・自分の考えを持つことを重視するという。教師は児童・生徒の意見・主張を導き出すために「Why?」、「How?」、「What ?」という言葉を多用するという。
学校入学前から、意見を言うこと・考えを述べることに関して子どもは親に一個の人間として対等に扱われ、学校でもそのように訓練づけられた児童・生徒は当然、教師に対しても自身の意見を述べたり、自身の考えを主張したり、あるいはお互いに言葉を闘わせたりすることを慣習として身につけ、成長していくことになる。
安倍晋三はアメリカにはない、日本独特の地位の上下=人間の上下とするこのような権威主義が最も有効とする総理大臣という地位を巧みに利用して、権威主義に縛られて自身を下に置く者達に自分の意見・考え・主張を押しつけ、従わせている。
それがときには言論の圧力という形を取り、ときには自分たちの政策をそのまま結論としてしまう圧力を演じることになる。
現在、この権威主義が安保法制で繰返されようとしている。