5月3日の憲法記念日に元大相撲小結舞の海が東京・平河町の砂防会館別館で開かれた公開憲法フォーラム「憲法改正、待ったなし!」で憲法改正の立場から一席ぶったそうだ。
《【憲法記念日】舞の海氏が新説「日本人力士の“甘さ”は前文に起因する」「反省しすぎて土俵際…」》(産経ニュース/2015.5.3 17:39)
記事はこのように伝えている。
〈日本の力士はとても正直に相撲をとる。「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。
ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じすぎている。
「これは何かに似ている」と思って考えてみたら憲法の前文、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に行きついた。逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。
私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。
今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。
憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている。〉――
なかなか巧みな譬えだ。人をして憲法改正の思いに引き込むに十分な話術を披露している。
但し大相撲は既に格闘技である。格闘技ということは、土俵上で力士同士が戦うと言うことを意味する。勿論、ルールがあり、そのルールに則って、その範囲内で格闘が行われ、勝敗を決めていく。
ルールに反すれば、禁じ手として反則を取られ、黒星を付けられる。
髷を引っ張った等の禁じ手で反則を取られるルール違反がときには起こることもあるが、一般的には大相撲のルール内で格闘技に他ならない取り組みは行われる。
格闘技であることを前提とするなら、ルール内であれば、得手不得手ある相手の得手の裏をかいたり、不得手を突いたり、相互に様々に手を尽くすことになり、その戦いともなる。
いわばお互いの想定を如何に裏切るか、あるいは裏切ると見せかけて、想定通りに戦いを挑んで、相手の意外感を誘って、その隙を突くとか、大相撲なりの頭の巡らせる権謀術数が必要になる。
相手がどう戦うか、様々に想定するのが仕切りの時間であろう。相手の様子を見て、仕切りの間に戦い方を変える場合もあると聞く。
相手に応じて様々に頭を巡らせて様々に手を尽くす格闘技であるにも関わらず、舞の海は日本の力士は〈「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。〉と言っている。
と言うことは、日本の力士は幕下、十両、幕内を通して同じ立合いを判を押したようにバカッ正直に貫き通していることになる。
何のことはない、正直に相撲を取ると言うよりも、幕下力士ならともかく、十両以上の力士がそうであるなら、相手の取り口を何ら学習しないままに相撲人生を送っていることになる。
いわば舞の海は日本の力士は学習能力がないと言っていることになる。
多分、舞の海は世界の安全保障状況が大きく変わっているにも関わらず、いつまでも同じ憲法を守ろうとしている日本国民(=護憲派)は学習能力がないと言いたかったばかりに学習能力がないはずのない日本の力士を結果的に学習能力がないと貶めることになったのだろう。
貶めるとは名誉を傷つけることを意味する。
憲法改正を求める求めないは自由である。改正の理由をどこに置くのかも自由である。だが、その理由の譬えとして大相撲日本力士を不当に貶め、名誉を傷つけるのは大相撲解説者として、あるいは他のテレビ番組で発言して、その発言が多くの視聴者に影響を与えるタレントとして“禁じ手”、それも汚い手を使ったことにならないだろうか。
舞の海は日本国憲法前文の「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の一節を取り上げて、この一節を信じるのは学習能力のないバカッ正直の見本――思考停止と見做して、〈逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。〉と大いなる疑問を呈した。
「諸国民の信義」を疑うとは各国との関係構築は猜疑心で成り立たせて、軍事力を以って国の備えをするという考え方に行き着かざるを得ない。
つまり外交の否定となる。信義の存在しないところに真の外交は成り立たないからだ。疑いで成り立たせた外交は真の外交と言うことはできない。
人間関係に譬えるなら、信頼できない人間が周囲には多く存在するが、例え少人数であっても、信頼できる人間を友としなければ、大勢の人間と交わってこの社会を生きていかなければならない場合は、生きづらい世の中となる。
勿論、信頼できる人間が一人でも多くいる程、世の中は渡りやすくなるはずだ。
このことと同じように信頼できる外国が存在しなければ、如何なる国も一国では世界で立つことはできない。北朝鮮を見れは容易に理解できる。世界で立つことはできずに世界の片隅に追いやられている。
信頼できる外国が一国でも多い程、世界で他国と肩を並べていくことができる
信頼できる国を如何に多く獲得するか、信頼できる国に如何に持っていくかは偏に外交にかかっている。
安倍晋三は信頼できる国々を訪問しては「積極的平和外交」を訴えることを得意としているが、信頼できない国を訪問して「積極的平和外交」を訴え、平和な関係の構築を進めていく外交に関しては全然努力していないばかりか、逆に歴史認識で関係悪化を進める外交を専らとしている。
日本国憲法前文の一節、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」は決意のみで誕生する日本の国の姿や諸外国との関係ではなく、外交、あるいは日本国民の努力によって獲得する国の姿であり、諸外国との関係であると描いているはずである。
このことは前文最後の、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と規定して、努力を促していることが証明している。
と言うことなら、舞の海が言っている〈私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。〉という言葉は外交の観点もなく、そのために日本の外交不足、日本国民の努力不足を取り上げないままに言及しているという点で、正当性を欠く言葉となる。
所詮、人類はすべての紛争を外交の力で平和解決することができずに軍事力で以って殺し合い、解決することが多い未進化の状態にある。
軍事力で解決することが人類進化の状態にあるのだと言うなら、軍事大国化することで人類の進化を推し進めていけばいい。
となると、核兵器に反対するのは人類進化に矛盾することになる。核兵器をこそ、人類進化の象徴としなければならない。
憲法を改正するにしてもしないにしても、こういった自覚を持つことも必要である。