安倍晋三の元従軍慰安婦たちの日本軍による強制連行の証言の有効性を頑なに認めまいとする不正な歴史態度

2015-05-13 08:53:05 | 政治
 


 安倍晋三は「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とし、「業者が間に入って事実上強制した広義の解釈に於いての強制性はあったが、官憲が家に押し入って人攫いの如くに連れていくという狭義の意味での強制性はなかった」と日本軍による従軍慰安婦の強制連行という歴史的事実を抹消し、元従軍慰安婦たちの証言を一切認めない態度を取っている。

 となれば、書物等の中から証言を取り上げて、既にその書物を読んでいる人がいるかもしれないが、読んでいないより多くの人を対象にその証言を一人でも多く知って貰うようにするしかない。

 このような積み重ねが証言に安倍晋三の否定論を超える力――その有効性を与えることができるのではないだろうか。

 『日本軍に棄てられた少女たち ――インドネシアの慰安婦悲話――』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・コモンズ)から一例を取り上げてみる。

 この例は日本軍兵士7、8人が友達同士で遊んでいるインドネシアの未成年の女の子たちや20代前半の若い女性のところに幌付きの軍用トラックの荷台に乗ってやってきて、荷台から降りるや彼女たちを捕まえ、荷台に放り投げるようにして乗せると、そのまま走り去り、従軍慰安婦として日本軍兵士の相手をさせるというよくある暴力的なパターンではなく、日本や1942年から終戦の1945年まで日本占領下にあった昭南島(シンガポール)で勉強させてやると留学話で釣って従軍慰安婦に仕立てる例であるが、最終的には望んでいたこととは異なる望まないことを肉体と精神に暴力的に押し付けるのだから、心理的には家に押し入って人攫いの如くに連れて行く強制連行と変わらない。

 いわば彼女たちの肉体と精神の隅々にまで日本軍は土足で踏み込んだのである。

 舞台はインドネシア・ブル島である。 

 1965年の9月、インドネシア共産党の影響を受けたインドネシア国軍部隊がクーデーター未遂事件を起こし、陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがスカルノ大統領から事態収拾の権限を与えられて鎮圧、同年10月16日に陸軍大臣兼陸軍参謀総長の任を与えられると、共産党弾圧に乗り出し、共産党関係者と疑った一般住民まで虐殺したり捕らえて、逮捕者を未遂事件に間接的に関与したB級政治犯の流刑地となったブル島に送った。

 『日本軍に棄てられた少女たち ――インドネシアの慰安婦悲話――』の作者プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏も インドネシア共産党関係者とされ逮捕され、スカルの跡を継いで1968年にインドネシア大統領となったスハルト政権下の1969年にブル島に送られた。

 流刑者は荒れ地の開墾等、自給自足の生活を強いられたが、島内であれば移動はかなり自由だったという。

 だが、ブル島には流刑者以前に島外から住人となっていた者がいた。。他の場所で日本軍の従軍慰安婦にされてブル島に連れて来られたり、ブル島に連れて来られてから日本軍の従軍慰安婦にされたりしたが、日本が敗戦後、ブル島に置き去り同然に棄てていき、年取った元少女たちである。彼女たちの方から近づいたり、流刑者の方から移動の自由によって行動範囲を広げていく内に彼女たちの存在を知り、身の上話を聞く関係にまで発展していった。

 第6章「運命出会い」から、作者ではない別の流刑者が聞き取った一つの証言を取り上げてみる。

 「シティ・F」と名乗る元慰安婦。1969年当時、作者の推定で48歳前後。

 だが、この推定だと、1945年の終戦時は24歳前後となる。日本軍の留学話の犠牲者となった元慰安婦の女性の証言として留学話で釣る対象は13~17歳の小学校を終えてからの年齢の少女だったと書いているし、彼女も証言で日本軍の従軍慰安婦にされたのは「まだほんの子どもだったのです」と言っているから、老けて見えたために48歳前後と推定間違いしてしまったのだろうか。

 流刑仲間のサロニ氏が聞き取っている。

 「運命の出会い」とは、同じ流刑仲間のハルン・ロシディ氏がサロニ氏の聞き取リ以後、自分も「シティ・F」に身元を尋ねていく内に彼の父が「妹の一人が日本軍占領時代に行方不明になってしまった」と言っていた叔母であることを知ったことに由来する。

 彼女は明らかにジャワ島からブル島に連れて来られたことになる。推定年齢に相違があるからと言って、その証言を怪しいとすることはできない。

 サロニ氏「あなたはどうしてここへ連れて来られたのですか。何に乗って、誰によってですか」

 シティ・F「郡長に集められて、日本軍の自動車でバンドンに連れて行かれました。次に汽車で連れて行かれたところには少女3人と日本兵30人以上がいて、そこから船に乗せられたのです。私は約5日間、ずっと横になっていました。船名は覚えていません。名前も知らない島に着くとそこで降ろされ、6日間滞在しました。それからまた出発し、東京へ向かうと言っていました。4日後船から降ろされ、一軒の家に入れられたのです。そこからは海が見えました」

 サロニ氏「船が停泊したときに見えた島の名前は覚えていますか」

 シティ・F「日本兵はレベスと呼んでいました。私が住んだ島はフローレス島で村の名前はキサル。その島にはフローレス人やジャワ人の少女たちが大勢いました」

 サロニ氏「そうした少女たちと友だちにはなりませんでしたか」

 シティ・F「そんな勇気はありません。一緒に来た3人は別々の家に住まわされました。日本軍は食べ物、衣服、お金などを十分にくれましたが、暮らしは辛かったです」

 サロニ氏「そこにはどのくらいいましたか」

 シティ・F「3カ月か4カ月です」

 サロニ氏「船の中で会った日本人、一緒に住んでいた日本人の名前を覚えていますか」

 シティ・F「アタチュカさんです。この人は旗艦に乗船していました。キサル村ではワタキさんで、この人が私をブル島に連れてきました」

 サロニ氏「あなたは日本兵についてきたのですか、それとも連れてこられたのですか」

 シティ・F「日本軍に騙されたのです。日本軍はウソつきよ。学校で勉強させると言ったのに。何てことでしょう・・・・」、

 サロニ氏「いつ頃、日本軍に騙されたと思い始めましたか」

 シティ・F「キサル村に連れて来られてからです。毎日、泣き通しました。全身が痛くて、日本兵はそれでも私の身体をイジメ抜き通しました。考えても見てください。まだほんの子どもだったのです。でも、ああ、アタチュカさんは身体も大きく、力も強かった」

 サロニ氏「友だちの章少女たちはどうしましたか」

 シティ・F「可哀相でした。泣いていました。でも、アタチュカさんと一緒にお風呂に入らなければなりません。身体が痛いと言っていました」

 サロニ氏「どんな家に住んでいましたか」

 シティ・F「木造の家。私が住んでいた家は板張りです。人によって住まいは違っていました」

 サロニ氏「ブル島に連れて来られたのはいつでしたか」

 シティ・F「日本軍がナムレアに進駐してからです。アタチュカさんがナムレアにある石造りの家に私を入れました。暫くしてワタキさんが私を隣の家に連れて行きました」

 サロニ氏「他の村にいる少女たちと話しませんでしたか」

 シティ・F「時々話しました。でも、それぞれが違った生活を送っています。3カ月前、山の村ヘ行きましたが、そこに住んでいた女性は既に年老いて力がなくなり、全身に痛みが出ていました。あとから村人に聞いたところでは、彼女うはもう死んだそうです」

 サロニ氏「ワイ・ティナ(山の村)に住んでいる人の名前は何と言いましたか」

 シティ・F「忘れました。でも、村人は彼女をジャワ島から来たと言っていたので、会いたくて探しました。そのときどうして彼女は山の男と結婚したのだろうと考えました。間違いでしたよ。自分一人で生きていくべきだったのですよ」

 サロニ氏「あなたと一緒にいた日本兵の名前を言ってください」

 シティ・F「ナムレアには10人いましたが、名前は全部忘れました」

 サロニ氏「ご両親の名前は何と言いますか。兄弟は何人でしたか」

 シティ・F「兄のことは忘れられません。兄は2人でした」

 サロニ氏「お兄さんたちの名前は何と言いますか」

 シティ・F「もういいでしょう。堪忍してください。悲しいだけです。あなただって自由のない身。堪忍してください。村人たちが後で私に毒を盛り、殴るかも知れません」

 サロニ氏「フローレス島からブル島にまで乗ったのはどんな船でしたか」

 シティ・F「よく覚えていませんが、日本の小さな汽船でした」

 サロニ氏「何人ぐらい乗っていましたか」

 シティ・F「20人以上の日本兵が乗っていました」

 サロニ氏「船上での食事はどうでしたか」

 シティ・F「食事はよかったです。カネもタバコもビールもくれました」

 サロニ氏「当時、あなたはビールを飲むのが好きでしたか」

 シティ・F「日本兵がよくくれたのです。飲むと頭がクラクラしましたが、そのうち慣れました。日本兵はよく笑い、ビールが好きでした」

 サロニ氏「ブル島に住んでいる(元従軍慰安婦の)知り合いの名前を思い出してください」

 シティ・F「知っているのはさっきの人だけで、後は知りません」

 サロニ氏「当時、ナムレアは小さな町でしょう。誰があたなを守ってくれたのですか。日本軍が食糧などを与えてくれたとは思えませんが(食事の世話ということか)」

 シティ・F「バンドゥンという名前のジャワ島出身の女性がいました。警官の妻です」

 サロニ氏「彼女はナムレアに来る前、どこにいたのでしょうか」

 シティ・F「分かりません。私が連れてこられたときには既にいました」

 サロニ氏「ナムレアではなく、どうしてこの村に住んでいるのですか」

 シティ・F「以前は前の夫と娘のマリヤムと一緒に海岸近くに住んでいました。今の夫のイスマイルにここに連れて来られ、子どももいます」

 サロニ氏「ジャワ島に戻りたいと思いますか」

 シティ・F「はい。でも、もう遠い昔のことです。(今の)子どものことを思うと、(ジャワ島に戻るのは)不憫です。(近くで遊んでいたのか)あそこにいるのは孫のスリ・ワフユニ。私から離れようとしません」
 
 サロニ氏の聞き取りはここで終わっている。
 
 例えば日米のその時々の外交交渉に携わった日米外務官僚や閣僚秘書官等の公式の記録に残されていないメモ類や録音類は外交交渉では表には現れなかった隠された事実を裏付ける貴重な証言として、その有効性を認められ、珍重される。

 だが、安倍晋三は元従軍慰安婦たちの証言の有効性を頑なに認めまいとしている。これ程の不正な歴史態度はあるまい。不正な態度であることさえ気づかないままに不正を自分のモノとしている。

 そのような一国のリーダーであることを元従軍慰安婦の証言と共に記憶して置かなければならない。 

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