■大垣城探訪
年度末ということもあり、時間を見つけ大垣城に展開した。本来の目的は彦根城でひこにゃんと記念写真を撮影し、飛んで美濃町線、岐阜市内線廃線跡地の探訪であったが、なんにも無かったので、大垣城に展開した。
ひこにゃんは、決まった時間に登城するということであったが、小生は間が悪くいない時間帯、しかも入場料が高くなっており、しかたなくひこにゃんが、刀と兜を授かるまでを描いた感動大作、“ひこにゃん絵本”を買い撤収。
『あの決定的な廃線から二年・・・』と意気込んで長躯岐阜市内へ展開したが、意気込みに対して廃線後は架線もなく、レールも大半が撤去されていた。北大路機関に延々と彦根市街地の様子とか、北一色駅周辺のレールや、取り壊された検車区、そんなものを載せても何だったろうし、大正時代に浪漫の嵐、510形と鳩さんを撮影し、大垣で途中下車という手段で大垣城に展開。
四月一日ということで、“富士教導団など戦術研究機関を統合、来年度、緊急即応部隊として中央教導集団新編”とか、“第七師団機甲師団編成改編、戦車連隊を分散し第十師団、第八師団を機械化混成団に改編”とか、USO800認定エイプリルフール特集を考えたが、不毛なので北大路機関は従来通りの記事でゆく。
大垣城というのは、再現天守閣で余り期待していなかったが、いってみればなかなかのものであった。大垣駅から近傍であったが、道に迷い、写真の裏口から入ることとなったが、木立の向こうに見える天守閣が印象的である。ちょうど岐阜は桜の時期であり、桜祭りの仮店舗が出されていた。
大垣城は、1535年に宮川安定により建てられた平城で、1600年の関ヶ原合戦では西軍の根拠地として用いられた。その後、江戸時代にはいり代々戸田家の居城として大垣繁栄の源となったが、市街地にあった事が災いし、1945年の空襲により焼失して今に至るという。
大垣城は、古くは東大寺城と呼ばれ、今日の大垣城という名称は、この地域の代官であった大垣氏に由来するものである。その後、15世紀には城郭が建築された。そこはかとなく、彦根城のような印象を受けなくも無い。
1585年、豊臣秀吉の命令により当時の城主、一柳直末が天守閣の造営を行い、1588年に完成した。大垣城天守閣は四層四階の総塗込方式天守閣であり、幕末と維新の動乱を乗り越えて後、1936年には国宝に指定されるに至ったが、前述のように第二次世界大戦の戦禍に呑み込まれた。現在の天守閣は、往時の天守閣を再現し、1958年から再建されたものである。
平城にあって、大垣城は牛屋川という天然の要害を最大限に活かした造りであり、武家屋敷と三之丸、二之丸、本丸を水が護っている。大垣は水の都と呼ばれるが、この大垣城も水の城郭であったということだろう。
城内には多くの桜が植えられている。なお、天守閣以外は自由に入ることが出来、市民の憩いの場所となっているという。実際迷わなければ大垣駅から徒歩で十分とかからず行く事が出来る。ちなみに大垣駅は、米原駅までの間を結ぶ交通の要衝である。
大垣城天守閣。現在ではかつての武家屋敷は市街地となっている為、当時程の規模はないものの、やはり天守閣の威容は見るものに強い印象を与える。なお、天守閣は入場料、大人100円、子供50円と安価である。
大垣城大手門、この写真の撮影位置から90°まわれば大垣駅がみえる、それほど近いのである。桜が咲き誇る中の城郭見物であったが、大阪城や名古屋城と比較すれば小さいものの市街地の天守閣としては小粋で中々の城であった。また、関ヶ原合戦という歴史の分岐点にある城ということで、その場に立つことでまた異なる感嘆が湧き上がってくるように思う。
HARUNA
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