■お散歩は残暑のあとで
暑いときには出歩くのも多少難渋するところなのですがあの突き抜けた様な青空は夏空と云う通り真夏だけしか見上げられない。だから多少残暑が収まる夕刻の散策へ。
金地院。涼しさは急にやってきた、というこれは十月に入り未だ暑さが続くのかと嘆息した文字通り数日後のことでして、夜は涼しいように漸く解放されたかと思った頃合いが、そう数日というよりも数十時間で、日中も同じくらい涼しくなったのに驚く。
京都市左京区南禅寺福地町、格好よく地名を並べてみましたが要するに金地院さんは南禅寺の塔頭で、実はこの情景へ探訪したのはまだ涼しさが日本に来る際に寄り道をしていた、まだ続く残暑、という最中に拝観へと赴きましたところでして、蒸し暑さこもる。
弁天池という、実は庭園の方は枯山水庭園となっているのですが、有名な明智門をくぐって直ぐ先に広がります庭園には弁天池があり、記憶に情景が残っていましたから何となく涼しそうだなあ、なんて期待しつつ拝観へ臨んだのですが、現実の暑さはまだ厳しい。
東照宮さんが置かれている寺院、金地院さんというのは不思議な情景不思議な歴史不思議な言い訳を湛える寺院で、東照宮さんがありながらご本尊は地蔵菩薩さんを奉じています。その不思議な寺院の始まりは応永年間、14世紀末まで遡るのですけれども。
大業徳基、南禅寺六八世を勤めた僧侶が14世紀末に室町幕府第四代将軍足利義持の支援を受け開山に至った寺院で、そう四代将軍の時代といいますと北山文化華やかなりし頃の余韻がありましたので、この当地は東山ですが開山の地は鷹ヶ峯あたりであった。
東山へ北山の寺院は遷りましたのは慶長10年、西暦では1605年という江戸時代の頃、金地院崇伝さんという、黒衣の宰相とも呼ばれていました徳川家康のお気に入り、幕府の外交政策や統治機構の設計に携わった僧侶の寺院として当地東山に遷りました。
南光坊天海、天海さんとともに金地院崇伝さんは幕府に影響力を及ぼした訳ですがその生まれは室町幕府幕臣の一色秀勝の次男、しかし織田信長による室町幕府滅亡により出家するところとなりまして鷹峯金地院の靖叔徳林に嗣法をうけた、という歴史が。
外交政策や統治機構設計、不思議に思われるかもしれませんが一色家は足利将軍家側近として行政機構とつながりが深く、また外交政策は鎌倉時代より僧侶、外国語能力と制度研究がどうしても仏法研究に重なる、故の能力主義、というものがあったのでしょう。
相国寺西笑承兌の推薦を受け徳川家康が金地院崇伝さんを駿府に迎えたのが慶長13年こと1608年でして、明朝や李氏朝鮮、アユタヤ王朝や黎朝越南、果てはオランダやイギリスとの外交さえ担うことになり、外交文書起草と朱印状の取り扱いに全権を任されました。
駿府金地院がその数年後に駿河国駿府城内、そしてその約十年後に江戸城内は北ノ丸に江戸金地院が開かれたといいますから、今では南禅寺の塔頭寺院ですが変な話江戸時代にはその松寺が行政中枢のど真ん中にあったという、それはそれは不思議な時代で。
江戸城の金地院というのは東京都港区芝公園三丁目に現存していまして、そんなに江戸城広かったのかというとそうでもなく、金地院さんが亡くなられた寛永15年こと1638年に現在地に移転、1945年東京大空襲で焼失しましたが1956年に再建された、と。
臨済宗系単立寺院、現在は臨済宗南禅寺派南禅寺塔頭となっているのですけれども、それは明治の頃からといい、開基の大業徳基さんが南禅寺六八世であったゆえの縁、というところでしょう。ただ、この金地院は更に不思議といえる縁が今に至る道を開くのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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暑いときには出歩くのも多少難渋するところなのですがあの突き抜けた様な青空は夏空と云う通り真夏だけしか見上げられない。だから多少残暑が収まる夕刻の散策へ。
金地院。涼しさは急にやってきた、というこれは十月に入り未だ暑さが続くのかと嘆息した文字通り数日後のことでして、夜は涼しいように漸く解放されたかと思った頃合いが、そう数日というよりも数十時間で、日中も同じくらい涼しくなったのに驚く。
京都市左京区南禅寺福地町、格好よく地名を並べてみましたが要するに金地院さんは南禅寺の塔頭で、実はこの情景へ探訪したのはまだ涼しさが日本に来る際に寄り道をしていた、まだ続く残暑、という最中に拝観へと赴きましたところでして、蒸し暑さこもる。
弁天池という、実は庭園の方は枯山水庭園となっているのですが、有名な明智門をくぐって直ぐ先に広がります庭園には弁天池があり、記憶に情景が残っていましたから何となく涼しそうだなあ、なんて期待しつつ拝観へ臨んだのですが、現実の暑さはまだ厳しい。
東照宮さんが置かれている寺院、金地院さんというのは不思議な情景不思議な歴史不思議な言い訳を湛える寺院で、東照宮さんがありながらご本尊は地蔵菩薩さんを奉じています。その不思議な寺院の始まりは応永年間、14世紀末まで遡るのですけれども。
大業徳基、南禅寺六八世を勤めた僧侶が14世紀末に室町幕府第四代将軍足利義持の支援を受け開山に至った寺院で、そう四代将軍の時代といいますと北山文化華やかなりし頃の余韻がありましたので、この当地は東山ですが開山の地は鷹ヶ峯あたりであった。
東山へ北山の寺院は遷りましたのは慶長10年、西暦では1605年という江戸時代の頃、金地院崇伝さんという、黒衣の宰相とも呼ばれていました徳川家康のお気に入り、幕府の外交政策や統治機構の設計に携わった僧侶の寺院として当地東山に遷りました。
南光坊天海、天海さんとともに金地院崇伝さんは幕府に影響力を及ぼした訳ですがその生まれは室町幕府幕臣の一色秀勝の次男、しかし織田信長による室町幕府滅亡により出家するところとなりまして鷹峯金地院の靖叔徳林に嗣法をうけた、という歴史が。
外交政策や統治機構設計、不思議に思われるかもしれませんが一色家は足利将軍家側近として行政機構とつながりが深く、また外交政策は鎌倉時代より僧侶、外国語能力と制度研究がどうしても仏法研究に重なる、故の能力主義、というものがあったのでしょう。
相国寺西笑承兌の推薦を受け徳川家康が金地院崇伝さんを駿府に迎えたのが慶長13年こと1608年でして、明朝や李氏朝鮮、アユタヤ王朝や黎朝越南、果てはオランダやイギリスとの外交さえ担うことになり、外交文書起草と朱印状の取り扱いに全権を任されました。
駿府金地院がその数年後に駿河国駿府城内、そしてその約十年後に江戸城内は北ノ丸に江戸金地院が開かれたといいますから、今では南禅寺の塔頭寺院ですが変な話江戸時代にはその松寺が行政中枢のど真ん中にあったという、それはそれは不思議な時代で。
江戸城の金地院というのは東京都港区芝公園三丁目に現存していまして、そんなに江戸城広かったのかというとそうでもなく、金地院さんが亡くなられた寛永15年こと1638年に現在地に移転、1945年東京大空襲で焼失しましたが1956年に再建された、と。
臨済宗系単立寺院、現在は臨済宗南禅寺派南禅寺塔頭となっているのですけれども、それは明治の頃からといい、開基の大業徳基さんが南禅寺六八世であったゆえの縁、というところでしょう。ただ、この金地院は更に不思議といえる縁が今に至る道を開くのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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