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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】養源院,歴史家スティーブンターンブルはかく語りき-難しい歴史観と価値観の時を超えた共有

2023-10-18 20:23:44 | 写真
■ここは血天井の養源院
 カメラを片手に拝観に参拝にと散策していまして撮影禁止だという寺院は意外と多いのですが外観だけでも撮影できる場所を巡った後にさて歴史とを出会うべく。

 養源院、有名な三十三間堂とは通り一つ向かい側に位置します天台宗の寺院、としての宗旨を冠しています新しい宗派の寺院です。京都市東山区三十三間堂廻り町、東山も広いものですが京都駅から散策するには、鴨川を超えて京阪の先、丁度よい位置にあります。

 南叡山養源院という山号のこの寺院は、創建年が文禄3年という、安土桃山時代末期の西暦1594年まで遡る寺院で開山は成伯、そして開基は淀殿、歴史のその先を知ってしまいますと、ちょっと感慨深く成る寺院です。その寺院は、血天井、というもので有名に。

 天台宗の宗旨、浄土真宗遣迎院派という宗派。この浄土真宗遣迎院派というのは、いわゆる浄土真宗との関係はなく、昭和中期に天台宗から独立した、天台宗系の宗派となっていまして、京都市と奈良市、あと第2戦車連隊で知られる上富良野にも寺院があります。

 阿弥陀如来をご本尊として奉じます寺院は、紅葉の朱色の椛が包む様子も本当にきれいだ、といわれるのですけれども、実のところここは血天井で有名になってしまうとともに、しかし血天井にまつわる話題が、ちょっとこの本堂創建の当時から離れてしまった。

 血天井、伏見城の戦い。慶長5年というつまり日本史の分岐点となった1600年戦役、関ケ原の戦いに至る一連の流れの中で城を護る鳥居元忠と松平家忠ら1500名に大阪城を追放された家康家臣ら500名が加わり、攻防戦が繰り広げられましたが戦力差は厳しい。

 宇喜多秀家と小早川秀秋ら4万1000名の兵力を相手に8月26日から9月8日に掛け防衛戦を展開し、全員が玉砕したという。鳥居元忠と松平家忠はじめ全員討ち死にし、その際に城内の櫓にご遺体が放置され、その血塗れの廊下をここ養源院の天井に用いている。

 スティーブンターンブル、イギリスの歴史家という方なのですがこの方の著書にはまって日本へ、という方と、いわゆる死生観について深く話し合ったことがあるのですが、その際に養源院が、ちょうどお話をした場所から3㎞程の場所でしたし、話題俎上に上がった。

 安土桃山時代の死生観と鎌倉時代の死生観と、ビルマ戦線の時代の死生観、当方の英語力の低さと先方の日本語力の低さから、余計話が拗れ、話半分の理解同士が逆に面白かったのですけれども、文化と価値観の相関関係と周辺情勢の影響があるのだろう、という。

 死生観、というよりも、ターンブルさんというのが豪州首相と同じ名前だなあと思いつつ、覚えやすかった歴史家の名前でしたのでこの話題は妙に記憶に残りました。軍事的に考えれば、伏見城を護った東軍兵士たちは西軍の東進に対し徹底的に兵力を拘束した。

 徹底抗戦により兵力を拘束し相手に行動の自由を与えない、恰も第32軍の沖縄戦と本土防衛準備や講和交渉の模索に重なる点があるのですが、結果的に西軍主力はここ伏見城とその先は大津城で拘束され、関ケ原含め決戦に参加させるのを遅滞させた意味がある。

 死守命令。ビルマ戦線-菊兵団という書籍を昔読んだ事がありますが、欧州には無い価値観だ、と。いやいや、フランス外人部隊がメキシコで繰り広げたカマロンの戦いなどはまさにこれだろう、と反論したのですが、この戦いでは最後、実質停戦交渉を行った、と。

 アラモの戦いを挙げれば分かりやすかったのだろうかと気づいたのは随分後の事なのですが、結局死生観はその場の士気と責任感と連帯感が醸成するものであり、その場にいなければわからない、と思うのです。ただ、血天井が現代、別の受け止め方をされている。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】金地院-鶴亀の庭を眺めつつ顧みる以心崇伝さんと天海さんの幕府巡る権力闘争と家康の遺産

2023-10-18 20:00:42 | 写真
■徳川家康と以心崇伝
 この情景を撮影したのは最初の紹介から見ればつい先日となるのですが夏空が僅か数日で秋空となった不思議な情景は思い返しても面はゆい。

 金地院は、拝観の際に巡ってみますと変化に富んでいまして面白い。小堀遠州作の作庭であります鶴亀の庭が国の特別名勝に指定されていまして、方丈の縁側、桁行十一間に梁間七間という本堂の縁側から、それほど混雑もなくゆったりと眺めて時を愉しめるのだ。

 富貴の間、というような方丈には幾つかの障壁画を並べました部屋が続くのですが、時間別の特別公開ということ。自由気ままに生田いところを散策し拝観し物思いにふける、わたしが予定の敷かれた日程に任せるのはお仕事の時と自衛隊行事のときくらい、かな。

 東照宮、浄土庭園風の池泉回遊庭園を少し起伏に気遣いながらそう歩み進めていますと、忽然と、もちろん日光や久能山ほどではないけれども浜松東照宮や広島東照宮よりは存在感のある神域に急に巡り合いまして、家康の遺髪と念持仏を奉じているという。

 明智門、さてこの金地院さんの入り口には明智光秀がご母堂を弔うべく天正10年こと1582年に大徳寺に寄進したものです。それを明治維新のいろいろあった時代に買い入れて移築したという。それまではここに伏見城の城門がありましたが、それはいま豊国神社に。

 天海さんが、実は明智光秀ではないのか、という俗説があるようで大河ドラマ“麒麟が来る”でもそのような描写がありましたが、天海さんが出自を語らなかったことが背景にあるとも。ただ明智光秀の存命中に興福寺や武田信玄との対話の記録もあり、整合性が。

 以心崇伝さんと天海さん、家康没後の権力争いでは天海さんが優位となりましたが、以心崇伝さんは武家の出で室町幕府名門の家柄ということもありまして、東照宮を京都に託すあたりをみていますと、家康に大切にされていたのだなあ、ということを感じます。

 神仏合集とはこういうことか、と思いつつも当地への東照宮造営は家康の遺言といいまして。金地院は江戸城内にも造営されたものの金地院さんの没後は海岸沿いに遷され、この背景には天海さんとの権力争いの結果ともいわれています、けれども東照宮がここに。

 僧録職。室町時代から僧侶の任免統括は相国寺塔頭鹿苑院院主が担っていましたが、幕府は元和5年こと西暦1619年に金地院住持を僧録職としまして、10万石の格式を与えられることとなりました。実際、東照宮のあります金地院を幕府は蔑ろにできません。

 徳川家光は京都上洛の際、金地院さんには狩野探幽の障壁画といった調度品に加えてが伏見城の一部を与えた、といい、それがこの方丈、と。ただ移築の痕跡が残っていない事が昭和時代の調査で判明しているゆえに逸話ともいわれるのですが、大切にされていた。

 廃仏毀釈。さてさて、江戸時代にはこう大切にされていましたが時代は明治を迎えますと日本近代史では第二次世界大戦と並ぶ文化財破壊となりました廃仏毀釈により多くの寺院が破壊されました、いや神道を奉護しつつ、しかし整理統合による破壊もすすんだ。

 寺大名とも呼ばれた金地院さん、僧録職を担っていましたのでそれはもう薩長を中心とした維新政府には目の敵にされるような条件がそろっていたのですが、先ず、東照宮があることを立てにここは寺院ではなく神社の要素があるのだ、と強調しました、そして。

 院の名を奉じる金地院は仏教寺院ではなく同情的な要素を持つものでもあると頑張りまして、廃寺を免れた、という歴史があります。なるほど、東照宮を当地にという家康の以心崇伝さんへの遺言は、遥かな時を隔て金地院を護ることとなった、不思議な歴史です。

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【G3X撮影速報】岐阜基地日常俯瞰風景,F-2戦闘機とGCAP次期戦闘機への期待(2023-10-03)

2023-10-18 07:00:33 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■飛行開発実験団F-2
 岐阜基地と云えば飛行開発実験団が運用する様々な航空機たち。

 岐阜基地へ、ちょっと時間を無理やりこじ開けて少しだけ岐阜基地を一望する三井山へ登ってみました。F-2戦闘機と市街地、やはりこういう俯瞰風景を撮影できる場所というのは大事にしたいもので、飲食物は持ち込まないもののポリ袋は持っての小さな登山です。

 F-2戦闘機、航空自衛隊はこの後継機としてイギリスとイタリアとともにGCAPグローバル戦闘機計画を推進中です。この企図するところは参加国の三か国、語呂が良いな、その共通認識である一点、F-35では戦闘行動半径が狭すぎる、という共通認識ゆえ。

 GCAPはでかい。Gカップはデカイと表現すると2020年代にはいろいろなところから抗議が来てしまいそうですが、実際日本は広大な日本の領空を防空するのにF-35はF-15よりも戦闘行動半径が狭い、すると大型化しステルス性に響いてでも航続距離がほしい。

 イギリスがGCAPに求めるのは、GIUKギャップというイギリスとグリーンランドとアイスランドを結ぶ北大西洋上の防衛ライン、ロシアの爆撃機はここから北大西洋の船団を攻撃する、ここまで行動半径に収められる航続距離の大きな航空機が必要としている。

 イタリアは、イタリア空軍が長年重視する北アフリカ方面への展開能力強化を求めている。イタリア空軍は短い滑走路から運用可能なC-130JとAMX軽攻撃機による空軍緊急展開部隊を編制、AMXはF-35Bに置き換えられる計画ですが、GCAPならば直接行ける。

 NGAD、日本で新規開発せずともアメリカ製戦闘機を買えばいいじゃないか、という反論が飛んできそうですが、この計画に合致するのはNGAD次世代戦闘機だけ、しかもアメリカ空軍でさえ一機数億ドルに達すると概算、輸出の場合は10億ドルを超えかねない。

 グローバル戦闘機計画の略称であるGCAPは、F-35戦闘機よりもかなり大型化する、具体的に言えばロシアのSu-57戦闘機よりも大きく、現在世界最大のステルス戦闘機である中国のJ-20戦闘機と同程度になるとされ、一方アメリカほど世界最強に固執しません。

 次世代航空支配戦闘機の略称であるNGADに対してGCAPは可能な範囲で取得費用を抑えることを目指しており、イギリスとイタリアのユーロファイター戦闘機後継と航空自衛隊のF-2戦闘機後継の需要を考えた場合、なんとかF-22よりも量産数は多くなる。

 F-16戦闘機からF-2戦闘機が生まれたように、いっそのことF-35戦闘機を原型に主翼を50%ほど増大させ胴体兵装庫なども拡張したF-3戦闘機、というものもあり得るのかな、と考えたことはありますがロッキードマーティンはF-22とF-35の中間型を示した。

 F-22戦闘機の機体にF-35戦闘機のセンサーを搭載した次世代戦闘機を日米共同開発する、という提案でした。いや実際もしこれをアメリカがFB-22というようなかたちで採用するならば意義はあったのかもしれませんが、F-2のように日本需要だけになる見通し。

 F-2は当初計画の141機を生産する、そしてフランスのラファールのように改良型を作り続けていたならば、また別の展開があったのかもしれませんが、政治主導という視点で、現場では制空戦闘機重要論もありましたが、結果的に生産数が縮小されたのは記憶に新しい。

 F-2後継機がどのように展開するのか、GCAPはどちらかといえば、FS-X計画時代に構想された双発の大型戦闘機、という位置づけを目指すものですので、現在のF-2戦闘機にも思い入れはあるのですが、次の戦闘機への期待、実証機の飛行も中々待ち遠しいですね。

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