北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】丸岡城(福井-坂井)霞ヶ城は丸岡藩藩庁になった現存十二天守閣独立式望楼型二重三階構造

2023-10-25 20:20:50 | 旅行記
■福井は霞ヶ城探訪記
 天守閣を維持できている城郭というものは何か風情というだけではない特別なものを湛えている印象があるのですが、街の人たちが大事にしている故でしょうか。

 霞ヶ城、福井県坂井市丸岡町霞には柴田勝豊が天正時代に造営した城郭があった。この城郭は戦国時代の後には江戸時代に丸岡藩の藩庁となり城郭は維持され、今日にも天守閣が往時の情景を残している。そんな城郭へ暑さが漸く凪を迎えた頃合いに探訪しました。

 丸岡藩の藩庁が置かれたことから丸岡城として知られる城郭は、戦国時代に城を護る大蛇が霞を吐いて敵から城郭を隠して守ったという逸話から霞ヶ城ともいわれていまして、白山神社はじめこのあたりは蛇にまつわる伝承が多いなあと考えさせられるところです。

 現存十二天守閣、日本には数多城郭が造営されましたが天守閣という象徴的建造物を冠するようになったのが安土桃山時代以降、そしてその後の江戸時代という太平の時代を迎えるにあたりまして城郭は行政施設となり、数は限られるものの威容を誇るように。

 天守閣は多数造営されるものの、明治時代の廃藩置県と西南戦争など動乱と、そしてしばらくの安定期を経て太平洋戦争における本土空襲などにより大半が破壊されてしまい、残ったものがわずかに全国で12のみ、丸岡城はその数少ない現存十二天守閣のひとつ。

 永平寺から直通バスがあるのか。福井県にて前々から曹洞宗総本山の永平寺を拝観したいと願いつつ、時間や交通手段や予定などで中々果たせなかったところを漸く実現しましたが、驚いたのは福井駅から直通バスが運行されていたことです。勿論乗りますよ。

 福井駅から永平寺まで、えちぜん鉄道でその先はタクシーか徒歩か、バスは多分あるのだろうけれども、と難渋していましたらば直通特急バスがあり、有難いと拝観実現したのですが、それと同じくらい驚いたのは本数は少ないものの丸岡城へバス路線が有ったこと。

 独立式望楼型二重三階構造を有する天守閣が、しっかりと存在感を放っていまして、そうこの城郭を見上げるのは前回の小松基地航空祭前日以来という。丸岡城国宝化推進室を坂井市が設置したのが十年前の2013年、さてさてそのための史学の学術研究がすすむ。

 柴田勝家、北陸の虎と呼ばれた武将の甥である柴田勝豊が天正4年こと1576年に当地に城郭を拓いたのが最初という。緊要地形というよりも丸岡は北国街道を監視する適地にあり、城郭は地域防御拠点ではなく戦略交通網全般へのプレゼンスを発揮する役割に。

 織田信長が本能寺で討たれ、その後継者を探す清須会議が清須城にて開かれますと、柴田勝家は湖北の長浜城をその勢力圏に収めることとなり、柴田勝豊は長浜城主となり丸岡城を後にすることとなり、柴田勝家は城代として安井家清を配し、城郭を維持しました。

 北ノ庄城、福井駅の近くにある遺構なのですが、柴田勝家は賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れますとこの北ノ庄城で最後の防衛を試みるものの叶わず討たれ、豊臣秀吉は丹羽長秀の所領に加賀国江沼と能美二郡としてここ丸岡を加えます、石高は60万石となった。

 丹羽長秀、実は織田信長の最後から数年を経て、このひとは積寸白という、要するに寄生虫にやられて亡くなるのですが、兵站畑と工兵畑で非常に有能とされ織田信長に重用されたものの、野戦の華々しい戦果にばかり注目される戦国史では目立たないのが寂しい。

 徳川家康は丹羽長秀の死後十数年を経て勃発した関ケ原の戦いにて、西軍に与した丹羽家家臣青山宗勝を当時の丸岡城主から改易し家康は次男結城秀康を入城させ本多成重、松平忠直、福井藩の城郭として位置づけられてゆきますが、一国一城令の時代となります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】養源院,関ヶ原会戦に繋がる伏見城攻防戦の歴史を伝える血天井と今問う"誉"と"勝敗"の意味

2023-10-25 20:00:44 | 写真
■誉れとは死生観とは命とは
 紅葉が深紅の鮮やかさを湛える頃合いには逆に難しくなる視点なのかもしれませんが考えさせられる寺院という京都に数多ある寺社仏閣の一を前に。

 養源院、血天井で有名になっているのですが、確かによくよく見てみますと、天井は撮影禁止ですのでしっかりと確認できないところが何とも言えないのですが、手形といわれれば手形のようにみえますし、足跡といわれれば足の形状を保っているようにも。

 伏見城の戦いで戦死した東軍の兵士たちを、そのまま伏見城の破壊を免れた櫓などに安置していまして、実はこの伏見城の戦いが全員戦死と生存者自決の後に落城した二日後に関ケ原の戦いが勃発しています。伏見から関ケ原まで東海道本線でも二時間近くかかる。

 血天井が残される事となりました背景には、実はここ養源院、元和5年こと西暦1619年に落雷による火災で焼失していまして、その際に再建へ伏見城の廊下、血の跡の残る板材を用いて追悼にと用いられたものであり、徳川氏の菩提所として資金援助を受けた見返り。

 名探偵コナン、札幌のススキノでお世話になった、という声を聴きますが、有名な名案内コナンとは関係のない。一番印象的だったのはこの作中の修学旅行に際して地天井が何か恐ろしいもののように扱われていた、という点です。ただ、そう考えるものなのか、と。

 鳥居元忠らは討ち死にしているのですが、実は討ち取った鈴木重朝、関ケ原戦役ののちには浪人にこそなっているのですが、伊達政宗に仕えることとなっています。そして慶長11年こと1606年には徳川家康に直臣3000石として召抱えとなっているのですね。

 徳川家康お抱えののちに鈴木重朝さん、水戸徳川家徳川頼房の旗本として取り立てられていまして、もともとは雑賀衆という鉄砲傭兵団からの出世でしたので、考えてみれば西軍の先鋒がいろいろあって旗本となったのですから、これはもうかなりもの、といえる。

 血天井も、激戦の戦跡というものではあるのですが、遺体安置として放置されるよりも安置したまま関ケ原戦役の混乱のまま手つかずであったもので、結果的に酷い扱いを受けていたわけではない、そして討ち死には結果としては悲劇でも武家の誉れであった、と。

 武家の誉れ、これこそそもそも討ち取った鈴木重朝自身が重用されている通りであり、戦法度から逸脱さえなければ勝敗の多寡は関係ない、という認識があったのではないか。いや逆に考えれば日本の場合は敗者への認識が、明らかに安土桃山時代と後の時代が違う。

 敗者への認識ですが、誉、という名前は煙草の銘柄以上に現代では認識されないこととなっているのではないか。日本が最後に経験した第二次世界大戦では敗者に対する扱いは酷いものでしたし、その酷い扱いを行う事こそが正義のようにまかり通っている構図も。

 太平洋戦争では東京裁判とニュルンベルク裁判という過程がありましたが、敗者への扱いは明治維新ののちのもの、いや徳川家は結局生き延びたという反論もあるのでしょうが、やはり賊軍と定義づけられた方々のその後は無残無惨というほかないような結果が。

 俵屋宗達の躍動感ある襖絵などが迎えてくれるこの養源院さん、美術の寺院と理解しても良さそうなのですが紛れもなく山門の真横に“血天井”と大書された寺院でもあり、これがけっかてきに、なにか得体のしれないおどろおどろしい寺院のように認識されている。

 誉れとは、死生観とは、命とは。実のところこの養源院は、こうした時代とともに変わってしまうには惜しい価値観の移ろいを認識させる文化財として位置づけられていると思うのですが、血天井の扱いはそうではなく、表面だけの拝観押し売りが残念なのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-ベルジャンスク飛行場急襲のATACMSとロシア軍戦車喪失数5000両,アヴディエフカ周辺戦況

2023-10-25 07:00:06 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 ロシア軍が何故ヘリコプター部隊をATACMSはもちろんランセット無人機でも充分射程内となる戦域地域の航空基地に置いたのかは不明です。

 ウクライナ軍のATACMS陸軍戦術ミサイル投入について10月20日付イギリス国防省ウクライナ戦況報告がその詳細を発表しました。ATACMSが実戦投入されたのは10月17日、攻撃目標となったのはベルジャンスクとルハンスクにある飛行場でロシア軍のヘリコプター部隊と飛行場施設が攻撃を受けた、被害程度は見ているあるものの概算では。

 ベルジャンスク飛行場9機、ルハンスク飛行場5機、全損した。ATACMSが初めて投入された戦果という。イギリス国防省はこの意義について、ロシア軍は前線で固定翼機による航空支援が貧弱であり、ヘリコプターによる航空支援への依存度が高い、またベルジャンスク飛行場は東部戦線南部の主要前方航空基地であり、影響は大きいと分析されています。
■戦車喪失数が5000両
 自衛隊の戦車は最も多かった時代で1200両でしかない。

 ロシア軍の戦車喪失数が5000両に達した、10月20日にウクライナ国防省が発表しました。5000両の戦車破壊について今回のロシアウクライナ戦争を含め武力紛争における兵器破壊状況を衛星画像やSNS投稿画像などから真贋判定を行う民間団体オリックスなども、かなり多数の破壊数を確認しておりロシアは保有兵器を大きく失っている事は確か。

 戦時発表故に真贋判定は難しいものの、ロシアの損害は決して小さくない。多数の戦車や装備を喪失する中でロシア軍が戦力を瓦解させない理由として、ロシアはソ連時代に生産され、且つソ連時代には短期間で新型戦車が開発され旧式戦車が耐用年数未満で多数倉庫保管されており、T-55やT-62などを再生し実戦投入していることが挙げられます。
■アヴディエフカ周辺
 ロシア軍の再攻撃について。

 アヴディエフカ周辺の戦況についてISWアメリカ戦争研究所10月19日付分析によればロシア軍はドネツク市南西10kmにあるノヴォミハィリョフカとアヴディエフカ南4kmのスパルタク近郊まで前進、アヴディエフカ、ノヴォカリノヴェ、シエヴェルネ、ペルヴォマイスケ、ステポヴェにおいて防衛するウクライナ軍部隊との間で戦闘となったもよう。

 東部戦線では一方で活発なロシア軍行動が確認されている北部のクピャンスク・スヴァトフ・クレミンナ線においてクピャンスク南東19kmにあるイヴァニフカ近郊までロシア軍が進出しているとのこと、ただ大きな前進ではない。この地域へロシア軍は第1親衛戦車軍、第6諸兵科連合軍、第25諸兵科連合軍など有力な部隊を集中し攻撃を加えています。
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